【後】白の司教 (★)
城を出たところで、クラウスは従者を先に聖堂へと帰らせる。
そして後ろから付いてきたモリトール卿に「少し庭を見ていかないかい?」と微笑んだ。
案内されたのは聖堂の敷地内にある庭で、オレンジの木が沢山生えているちょっとした農園のような場所。緑の葉を茂らせ、その隙間からは拳より少し小さい実が顔を覗かせている。
今月の終わりには収穫できるよ、クラウスはそう言うと実の一つを指先でつついて見せた。
「それにしてもアレクシス……、君の顔はそんなに緊張しっぱなしで疲れたりはしないの?団長ともなると、顔の筋肉まで鍛えるのかな……」
「そんなことより、例の件は如何でしたか?」
モリトール卿は険しい表情をそのままに問う。
風が吹いてオレンジの葉を揺らすと、この季節には少し寒さを感じる葉音を奏でた。それは二人の会話を隠す、良いカモフラージュにもなる。
風で舞う赤銅色の前髪。「うーん……」、少し考えてクラウスは口を開いた。
「……私は医者じゃないから詳しいことはわからないけれど、さっき見た限りでは君が思っているほど深刻なことにはなっていないと思う。念のためポルトには祓いと清めの言葉を残してきたから、しばらく様子をみるしかないね」
「そうですか……。不安定な彼を殿下の側に置いておくのは心配だったのですが、恐らく殿下があの従者を手放すことはしないだろうと……。お力を貸して頂き、感謝いたします」
黒き神は白き神を殺し、世界を無へ還すことを望んでいると伝えられている。
白き神の力を与えられた聖神具、そしてそれらを用い、力無き人々を守り栄えさせていく任を持った王家の人間は、黒き神にとっては邪魔な存在でしかない。
従者の身体に入ったとなれば、王太子であるフォルカーにどんな危害がでるとも限らない。
もしかしてウルリヒ王の襲撃もあの従者の内にいる黒き力が引き寄せたものではないだろうか、そんなことすら考えてしまう。
信心深い方ではないがどこかで胸に引っかかり、モリトール卿は司教であるクラウスに相談をしたのだ。
「君は昔からこういうの苦手だったよね。もしかしてまだ夜一人でトイレ行けないとか?」
「こ・ 子供の時の話ですっ。止めて下さい、ダーナー様っ」
「ふふっ、ごめんごめん。もともと私は殿下のように戦士としてお仕えしてるわけではないからね。あれだけ可愛がってる従者なんだし、悪い神様がちょっかいを出してきたら、彼自身でどうにかするんじゃないかな?もっと専門的に調べたいなら、禁域に住んでいるって噂の森の司祭達にお願いするしかないかもしれないね」
「……殿下は感情の起伏が激しい所があります。万が一の際、冷静な判断を下されるかどうか…わかりません。下手をしたら部下を庇って法を破ることも考えられる。私欲にかられれば、先代の王のように国の弱体化を招きかねない」
先代のファールン王…フォルカーの祖父であり、ウルリヒの父であるランクルト王は、ここ数代でも類を見ない暴君だった。
気にくわない者には厳しい処分を与え、圧政を敷いた。酒と女に狂い、湯水のように兵の命と軍備を浪費。
財政難に喘ぎ始めるとオルギルモア国の膨大な資金に目を付け、こともあろうに『傾国の王女』、『死神』とも言われた第一王女シュテファーニアを、息子ウルリヒに嫁がせた。
その結果は…今も城の壁や人々の記憶に爪痕を残している。
いっそシュテファーニアとランクルト王で早々に殺し合いでも始めてくれれば、ファールンはもっと栄えていただろうし、病弱大臣ダーナー公の寿命も数年延びていたと思う。
「あの狼従者も使い捨てて下されば話は簡単でしたのに……。いっそ私は貴方が還俗され、次代に王になって下さればと、……そう思っております」
たとえ身体的な問題を抱えつつも、精錬潔癖なダーナー公や息子のクラウスの方が王に相応しい、城内にはそう思う者も珍しくない。
特に人の上に立つ者は規律を重んじなければならない、そう考えるモリトール卿も、ダーナー家に期待を寄せる一人だった。
「あっはっはっは。やめてくれ、アレクシス。私はそんなつもりはないよ。父を見たってわかるだろ?我が一族の男は風の流れに身を任せて漂っている位が、心にも身体にも丁度良いくらいさ」
「ランクルト王に比べればましだとはいえ、殿下の奔放ぶりは目に余るものがあります。数多の女性とのよからぬ噂、公人相手の粗野な振る舞い、ここ最近も我々の目を盗み何度姿をくらましたことか……」
いっそ先代王のような暴君になってくれれば賛同者も増えるかもしれない。しかし王子は政治も外交も先頭に立ち無難にこなしてみせるし、あの容姿も相まって崇拝するものも多い。やりにくいことこの上無しである。
一方、フォルカーの素行の悪さを幼少の頃から知っているクラウスは彼の言葉にまた笑った。
こんな真面目な男をここまで困らすなんて、相変わらず悪い王子だ。
「君の気持ちは嬉しいけどね。私は聖人達を愛しているし、この仕事に誇りを持っている。私に出来るのはせいぜい祈って人々の相談に乗る程度だし、上から命令して動かそうだなんて気はまるで起きないな」
熟しかけたオレンジをひとつもいで、袖で軽く拭く。
磨かれた皮がクラウスの輪郭をぼんやり映している。
ウルム大聖堂のオレンジは歴代の修道士達が丹誠込めて育ててきた。果汁の多さと甘さはちょっとした自慢だ。
険しい顔をしたままのモリトール卿に「はい、どうぞ」と手渡した。
「?」
「柑橘系の香りにはリラックス効果があるんだってさ。そのまま嗅いでも良いし、もう少ししたら実も熟すだろう。紅茶や料理に使ってみても良いね。君にあげる。その代わり、この庭での話もこのオレンジのことも、皆には内緒だ」
フォルカーとは違う、優しい微笑みはそれだけで場の空気を和ませる。
モリトール卿は複雑そうな顔をしていたが、しばらくオレンジを見つめて小さく頷いた。
「ありがとう…ございます……」
城へと戻る騎士を見送り、一人になったクラウスが空を見上げた。
良く晴れた青い空は、その上に未知の世界の存在を想像させる。
神々はあそこから今の様子も覗き見していたのだろうか。
――――――「次代の王に」
この言葉は今日初めて言われたものではない。
いつの時代にも現政権を打倒し、新しい指導者を擁立する勢力は存在するものだ。王位継承権を持つ身ならば尚更である。
不要な混乱は争いを呼ぶ。そして争いの度に人々の心は荒んでいく。
寛大なる御心をもつ神も、人々のそんな姿を見て喜びはしないだろう。
「“あなた”はそういう所もお好きなんでしょうけどね」
国や権力、領土、富、名誉……、端からそんなものに興味もなく、自分のやりたいことしかできない自分は、王の器だとは思わない。
ウルリヒ王やフォルカーのように、多方面に気を遣うようなデリケートな判断もできないし、あまり深く悩んでいると頭痛と腹痛に襲われる。
「敵対する相手にも加減できる力を持ってるフォルカーって、偉いと思うんだけどなぁ……。俺ならすぐ音を上げてしまいそうだもん」
――――そう、もし自分なら。
二度と悩みの種が芽吹かないように、根も土も残してやらない。
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