【前】白の司教
『―――――我々は白き天輪におわす聖父、白き使徒、白き精霊を信じ奉る。』
司教が神への祈りを捧げ、聖水で濡らした指先を病に冒された身体に当てていく。
静かで落ち着いた声音が陽光で満たされた部屋に溶けた。
『――――――我々は天主の愛子。寛大なる慈悲を与え給え。罪を赦し給え。白き使徒よ、全ての悪しきものから救い給え。御国への導きを与え給え。』
指先は病める胸元に聖印を描き、額に祝福のキスを落とす。最後に聞き慣れない言語で綴られた文言を唱え、フォルカーもそれを復唱した。
「はい、お疲れ様」とにこやかな笑顔を浮かべるのは司教のクラウス。病床の王太子フォルカーの為に祈りに来たそうだ。茶化す場ではないと思ったのか、それとも体力が戻っていないからなのか、フォルカーも大人しくしている。
二人を不思議そうな顔をして見つめていたポルトにクラウスが気がついた。
「どうしたんだい?」
「最後の言葉はなんと仰っていたのですか?初めて聞く言葉でしたが…どこか違う国のものなのでしょうか?」
「あれは『俺達専用』のもんだ」
「?」
振り向くとフォルカーと目があう。互いの顔を見るとパウルの作った薬草の味を思い出し、同時に「うぇ…」と口元を押さえる。ちなみに、今日はこれで4回目だ。
「神様に指輪を与えられた時代から王家に伝わる言葉だよ。とてもとても昔のものだから、今は殆ど使われてはいないけどね。こういった祈りや儀式の時には出てくる言葉で、他三国も同じなんだ」
「まあ、聖神具を貰った時期が一緒だからな」
「なるほど……。この言葉は殿下もおわかりになるのですか?」
「クラウス程じゃねーが…まぁ、必要最低限はな。何かと祭事の多い王族には必須なモンだし、子供の頃から使ってりゃ多少なりとも覚えるもんさ」
自分の知らない遥か遠い遠い時代と同じものが今も使われているなんて、お伽噺と現実が混じったような不思議な感覚がする。
この世界に存在していることを確かめるように、ポルトはそっとフォルカーの額に手を置いた。
「……どうだ?」
「……まだ…少し熱い気がします……」
神様の時代から伝わるありがたいお祈りを受けたのだから、何か効果があるのかも…と思ったが、やはり即効性はないらしい。
「そうか。随分と楽になったからもう下がったかと思ったが……。自分じゃわからんもんだな」
「横になりましょう…!森の動物だって、弱った時はじっとしているものです…!」
「いや、俺、人間の国の王子なんだけど……もう、いいか……」
寝込んでから四日。症状は治まりつつあるが、まだ微熱が続いている。今無理をしたらまた熱が上がるかもしれない。
サイドテーブルに置かれた桶には朝一番に汲んで来た水が入っている。
タオルを絞り、横たわるフォルカーの額に置くと、その冷たさに赤い髪が震えた。
「ぅへ……っ。もういらねーわ、それ。寒い」
「っ!……っ…っ」
ポルトは慌ててタオルを外す。
そんな二人の様子をクラウスは微笑ましく眺めていた。
「さて、そろそろ私も失礼しようかな。珍しく弱っている殿下のお姿を拝見しているのも楽しいけれど、まだ仕事もあるしね。――あ、そうだ。ポルト、こっちへおいで」
急に名を呼ばれたポルトは、側に行くと頭一つ分上にある彼の瞳を見つめた。
優しいエメラルドは主のものよりも少し明るく、春先に芽吹く新芽のような色をしている。
「ずっと病人の側にいるんだ、君に伝染らないように神様にお願いしておこう。今倒れたら、殿下の世話係を巡って使用人達が決闘しかねない。エルゼに見舞いに行くって話をしたら『ついていきますわ!』って、大騒ぎしてたんだから」
その言葉にフォルカーは少し青ざめる。
今エルゼが来たら、間違いなく最後まできっちりと襲われてしまうだろう。(この前従者に襲われたばかりなのに。)
クラウスはフォルカーの時とは違う言葉を紡ぎ始めた。王家ではなく一般市民向けのものなのかもしれない。最後にポルトの胸元に聖紋を記し、そして丸い額の上にかかる前髪に祝福のキスをする。
「あ…ありがとうございます、司教様!」
まともな洗礼すら受けていないせいだろうか、自分のための初めての『お祈り』になんだか身体がくすぐったい。これが神の御業というものか。嬉しくて思わず表情が緩みそうになるが、モリトール卿の睨み顔も同時に浮かび、きゅうっと堪えた。そして「気合い、気合い」と反芻しながら、両手で頬をぺちぺち叩く。
「……うちの従者に変な宗教感を植え付けてくれるなよ、クラウス。用が済んだならとっとと帰れ」
「殿下…!なんて言葉使いを……!司教様、申し訳ありません…!」
「いやぁ、元気が戻ってきているなら何よりさ」
ポルトは先回りして扉を開ける。廊下にはクラウスの従者が二人、そして近衛隊が控えていた。
モリトール卿は相変わらず険しい顔をしている。時々笑うこともあるが、見たことがある人間は稀だろう。いつもの眉間の皺を見てクラウスは口元を緩ませた。
(彼とフォルカーとの仲も相変わらずか。お互い素直だからぶつかってしまうのかな?)
一方、すぐ隣には従者ポルトのまん丸い頭。きっとこの少年は、フォルカーにとって良いストレス発散の相手(という名の玩具)になっているのだろう。
金色の髪を優しく撫でた。細くて柔らかい髪だった。
「司教様?」
「君の髪は陽の光のように優しい色をしているね。きっと神様もお気に召していると思うよ。勿論、私も大好きだ」
「あ…ありがとうございます……っ。司教様の優しい髪色も紅葉した葉のように鮮やかで…素敵だと思います……っ!私、とても好きです……っ」
「っ!?」
「!」
ポルトの言葉に思わぬ衝撃を受けたフォルカーの眉根が寄り、ローガンの瞳が大きく開く。
滋養の良い猪肉の食事で元気を取り戻しつつあるフォルカーは、濡れタオルを丸めるとシワの元凶に向かってぶん投げた。
絶妙なコントロールで投げられたそれはポルトの頭上を通り抜け、笑顔のクラウスの顔面に当たり……そうになった瞬間、ひょいと避けられモリトールの顔面に強打した。
「!?」
重い音を立てて床に落ちるタオル。
鼻を赤くしたモリトール卿が、凡人にもわかりやすい程のドス黒いオーラを放ちながら悪魔の形相に変わる。
近くにいたクラウスの従者二人は、身体を壁に押しつけながら歯をガタガタ鳴らして怯えた。抱きしめた聖典には、神々の世界から伝わるありがた~い言葉が書いてあるはずなのだが…恐らく今の彼には何を言っても無駄な気がする。
そんな様子を気に留めることのないクラウスは、ワナワナと震えているフォルカーに品良く手を振った。
「また来るね♥」
「二度と来んなっ!クソ坊主!!」
「団長っ!?大丈夫ですか!?」
「モリトール様…!も…申し訳ありません!!本当に…本当に申し訳ありません!!あのっ、殿下は体調が悪くて気分も優れないんです、きっと……!殿下…!モリトール様に謝ってくだ……って、あれ?」
振り向くとフォルカーは我関せずとばかりにベッドに潜り込んでしまった。
まさかこの始末、家臣達だけでつけろという事だろうか?さっき司教から受けた祈りなら、モリトール卿からも守ってくれるかもしれな……あ、あれ風邪予防祈願だ。無理だ。
全身から謎の圧力を受けたポルトの足が一歩下がり、身体が地面に押さえつけられるように重くなる。
悪夢を見た時のような恐怖がそこにはあった。
「災難だったな、アレクシス。ほら、そこの二人。帰って祭壇の蝋燭を取り替えなきゃならないだろ?いつまで壁にひっついているつもりだい?」
法衣のフードを直しながら、クラウスだけは変わらぬ様子。従者二人を逃がすように先に歩かせ、凶器と化したモリトール卿にも「さ、行くよ?」と促す。苦々しい表情のまま頷いた彼は、クラウスの背に付いていくようにその場を離れて行った。
その姿を呆然と見送る近衛隊とポルト。
王子を弄り、ダークサイドに堕ちた団長を「災難だったな」の一言で静め、そして回収した。
――――――「あの人には敵わない……。」
あの司教はその気も無いまま、崇敬の念を抱かせたのだった。
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