【後】殿下、襲われる。
近衛隊の面々とは毎日幾度と無く顔を合わせる。挨拶を交わすことも珍しくなくなっていたが、この日はいつもと違っていた。
主の異変に揺れた心。顔を覗かせ始めた影を射るように叱責したのは、白獅子騎士団の長、モリトール卿だった。
彼は問う。
「身分、性別に関係なく与えられている力を、お前は知っているか?」
命令されたとおりに顔を洗ってきた王子の従者。黒き神に心を荒らされ怯えていた瞳はすっかり元通りになっていた。頬も少し腫れているようだが、数日で戻るだろう。気に留めることは無かった。
少年は不思議そうな顔で頭ひとつ背の高いモリトール卿を見る。
「……それは私にもありますか?」
「勿論だ」
身分は関係ないということは金銭で買える物ではない。性別も関係ないということは、腕力などの直接的な『力』とも違うということだろう。
容姿的なものだろうか?身分も性別も関係ないし、優れていれば賞賛されるし生きていくのにも有利だ。
しかし、そんな回答を彼が強調してまで言うとも思えないし、そもそも問われている自分自身に備わっている気がしない。
酒場でナッツを見つめ続けた時間は今もしっかり胸に刻まれているし、髪の毛のクセは今日も自由を謳歌している。
思い浮かぶ答えも無く考え込む姿に、モリトール卿が口を開いた。
「身分が高くても下衆な奴いるし、身分が低くとも志し高く日々を過ごす者もいる。両親が揃い、金があっても一人で落ちぶれる者もいるし、親の顔を知らず、貧しくとも仲間を連れて身を立てる者もいる。四肢が欠けていても、身体を病に冒されていても、健康体でも、堕ちる奴は堕ちる。折れない者は折れない。折れたとしても、必ず復活する。この違いは何か……」
「――――――……」
「枯渇することなく、半永久的に宿り続ける力。人間誰しもが必ず持っている力。それは……気合いと努力と根性だ…!大抵のことはこれでどうにかなる!」
その言葉を聞いたローガンから不安そうな声が「え……」と漏れる。反対にポルトは「確かに……!!」と目を見開いた。
ポルト自身、身ひとつでここまで来た。危機にさらされた事は一度や二度ではない。心も何度折れそうになったことか……。いや、むしろ何回か折れた。それでも今の穏やかな生活を手に入れられたのは、きっと運の力だけじゃない。
ポルトの隣で心配そうなローガン。モリトール卿はそこには目もくれない。
「困難なんぞ、生きていればいくらでもぶち当たる。当然のことだ。別段おかしな事はない。当たって当たって、強くなれ。気合いで立ち上がれ…!時には仲間を頼っても構わない。努力を続けろ。根性で続けろ。培った全てが必ず己の力になる…!」
語気を強め、踏み込んだブーツの靴底が鳴る。ポルトは思わず息を呑んだ。
「それでも折れそうになった時は、私の所に来い。性根を叩き直して気力をつけてやる。もしくは完全にへし折って、 心残りなく別の道を歩かせてやる……!」
「お・折るんですか…?」
「足掻いても仕方ない時もある。諦めることも選択のひとつだ。せめてもの手向けだと思うがいい。」
部下と上司の表情の差は明らかだ。
モリトール卿も一人の人間。フォルカーですら時々嫌がる華やかな世界で、きっと彼も彼なりに戦い、人知れず色んな経験を積んできたのだろう。
ポルトは彼の言葉に大きく頷き、両頬をペチンと叩いた。
「気合い、努力、根性……っ!」
大きく深呼吸をして、「ありがとうございます!」と金色の頭を下げる。その姿にモリトール卿も満足げに頷き、隣では不安そうな表情を隠せないローガンが「すみません…殿下……」と頭を抱えた。
―――気合いを入れ直した従者の姿は、目を覚ました主人をさぞ驚かせたことだろう。
従者の気合いに反するように、病に冒され弱ったフォルカーは苦い薬を拒み、極上の女を連れてこいと駄々をこねる。
夜が終わり、白い朝日がその裾を空に広げ始める。薄暗い部屋の中でポルトはきゅっと唇を噛みしめた。
毛布にくるまり、サナギになったままのフォルカーがただならぬ気配を感じたのは、それからしばらくたった後。
ベッド脇で止まった足音は、何処か思い詰めたようにじりっと床石を踏んでいた。
恐る恐る顔を出すと、立っていたのは険しい表情で唇を噛みしめるポルトだ。
ロープのように細くした布の端を両手に持ち、ビンッと伸ばす。
「え?俺、殺される?」と思ったのと、ポルトが飛びかかってきたのはほぼ同時。
布が狙っていたのは彼の首……ではなく顔だった。
目元を覆うようにギュッと巻きつける。
「――――――アンナ様、ターシャ様、ユリア様、エラ様、ヘルミーネ様、ローサ様、エリーザ様、エミリア様、イース様、アメリ様、レオノーラ様……!」
「!?」
「テレーゼ様、ウーテ様、フィーネ様、ガブリエラ様、その従姉妹のハンナ様、フリデ様、イザベラ様、そのお友達のマルタ様、ニコル様、ジークリット様、バルバラ様、イェニー様……!」
奪われた視界の中で羅列されたのは、フォルカーが一夜を過ごしてきた、またはそうしたいと従者に愚痴た美姫達の名前(の一部)。中には忘れている名前もあったが、ポルトはしっかりと覚えていたらしい。
あの細い手からは想像もできないような力で縛り上げ、彼の両手を胸元でクロスさせるとがっちりと押さえ込む。
馬にまたがるように身体に乗り上げると、フォルカーが「ぐぇ」と小さな声を出した。
「貴方のご想像される最上の美女は…どんなお方ですか?髪は?瞳は?どのようなお声をお持ちのお方ですか?どのような仕草を?どのようなお召し物を纏うお方ですか?将来貴方の傍らで無二の微笑みを湛えるお方を…頭に思い浮かべ下さい……!」
「ちょ…っ、お前何言って……っ」
「気管に入ります。息を止めて……!」
サイドテーブルと何かがぶつかったような堅い音がした。下顎を掴まれ、無理矢理開けさせられたフォルカーの口。
「気合い・努力・根性ッ!!」
「はぁ!?」
一瞬息の止まった唇によく似た温もりと感触を持つものが押しつけられた。と、同時に、口内にはドロリとした草の味が浸食するように流れ込んでくる。
「んンンんンン――ッッッッ!?!?!?」
ふさがれた口では驚きの声も出せない。
ゴキュンという音と共に喉を通過していくのは、昨日も飲んだパウルの激マズ風邪薬。
間違いない、従者が乱心した。
完全に飲み込み、口を離された瞬間、「苦い!!苦い!!ゲホゲホゲホッ!!」と全力で訴えてはみる。しかしその間もサイドテーブルから何かがぶつかった音……。薬の入った器をポルトが手に取り、そして戻した音だ。
強くなった殺気に思わず「ひっ」と身体が硬直するフォルカー。
(きぃゃあぁぁあぁぁあぁああああぁーーーっ!)
予想通り、また口は塞がれ苦い苦い薬が注ぎ込また。頭の中では若い娘のような金切り声が上がる。
その行為はフォルカーの意志を完全に無視した状態で続けられ………、
――――器が空になる頃には、すっかり燃え尽きた灰のようになっていた。
「…………………」
この状況は拷問なのかご褒美なのか…精神的にも混乱を極める。
のし掛かかっていた「重し」が無くなり身体が軽くなった。腕も解放され最後に目元の布が外される。
「――――――………」
放心状態の視界に入ったのは、自分以上に肩を落とし、こちらを見つめているポルトの姿だった。手にしていた布で彼の口元を優しく拭う。
不満をぶつけようとする前に、彼女が口を開いた。
「……女性を道具として使うなんてできないでしょう?」
「っ」
「かといって…外にいる皆さんにお願いするわけにもいきません。だって男同士じゃ殿下も嫌だろうし……。お相手が私で申し訳ないのですが……、どうか……お許し下さい……」
コップに水を注ぎフォルカーに差し出すと、彼は口の中に残った薬を流すように一気飲みをした。
薬のものとは違う苦々しさに顔をしかめつつ、「ごちそうさまでした!」とベッドの中に潜っていく。
「で・殿下?ごめんなさい…っ」
再び芋虫状態になった主はさなぎになって動かない。
数え切れないほどの女性と遊んできた彼のことだから、これくらいのことは気にしないと思っていたが……、意外と嫌だったようだ。
「殿下……?」
「――――――………」
「………」
「――――――な……」
「え?」
毛布の中で聞こえる声。主は顔を出そうとしないので「なんですか?」と耳を近づけた。
「……怒ってねぇ。今度からちゃんと自分で飲むから、二度とこんなことすんな…!お前だって女だろうが。自分の言葉には筋を通せ……!」
直接感情をぶつけてこないのは、曲がりながらも女である相手に配慮をしたのか、体調が整っていないせいなのか……。ただ確かなのは、彼の機嫌が明らかに悪くなっていたということ。
「はい……。申し訳ありませんでした……」
口の中に残っている薬は本当に苦くて不味い。軽くもよおす吐き気に余計に気分が落ちてくる。何処かのお嬢さんを呼んでこなくて本当に良かった。
両頬をペチペチと叩き、もう一度フォルカーに謝る。
……彼は自分のことを思ってそう言ってくれているのだ。嫌われてはいないと信じたい。他の方法を思いつくことが出来れば、怒らせることも無かっただろうが……。
(私…頭…あんまり良くないしな……)
寝癖も直せないし、獣臭いと怒られる。
主の寒中水泳も止められず、まともに薬も飲ませられない。
そういえばガジンに教えてもらった自分の名前の綴りも、今は朧気になっている。
もう従者として新人というわけでもないのに、全然成長していない気がする……。
空の器と洗濯物の入ったカゴを抱え込み、ポルトは部屋を出た。
……その遠くなる足音を聞きながら、サナギから羽化したのはフォルカーだ。
誰もいなくなり、静かになった部屋で一人身体を起こす。
ギリギリと奥歯を噛みしめながらドアの向こう側にいるであろう'あの男'を睨んだ。
(モリトールめぇぇえぇぇえ!!!)
あのかけ声……、奴しかいない。
何か言われた馬鹿が、威圧感に押されるまま言葉を鵜呑みにしたのだろう。
やっと最近女としての自覚が芽生えて来た所だったのに、汗くさい精神論で無惨に葉をむしられてなるものか。
対策を講じる必要があるが…さっきのアレでもう体力の限界。苦虫を噛みつぶした顔で舌打ちをする。
新しい一日の始まりを告げる朝日が窓から差し込んでいる。
十色の思いはそれぞれの胸の中で、先の見えない宙に蔓を伸ばそうとしていた。
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