お嬢様と従者の受難【3】
ファールン国の一般的な家の窓には板戸が設置してあるが、少し値の張るメニューが並ぶこの店には板戸の内側に動物の角で作られた窓があった。薄く伸ばされたそれは月の光に透けて、窓枠をぼんやりと浮かび上がらせる。
棚の上に置かれた蝋燭の炎が揺れ、芯がジリッと鳴った。酒場の賑わいもかすかに聞こえるが、部屋は静かな空気に包まれていた。
「持ってる荷物とお金、ぜぇんぶ置いていって貰おうかしら?」
女はフォードの首筋にナイフを当てながら、紅を引いた唇で微笑む。
「……それは貴女の腕次第では?」
「やだ。本当にただの商売女だとでも思ったの?夢見させちゃってごめんなさいね、インテリさん?授業料だと思って諦めて頂戴」
フォードの上半身はすでに裸。腰に帯びていた剣も女によって床の上に転がされていて、手も足も届かない。恐らく身につけている武器があるかどうかを調べ、あればそれを外す為に女は積極的に脱がせていたのだろう。
(激しいのも嫌いじゃ無いんだけどなぁ。惜しかった……)
使用人や姫君の多くは自分が口説いてリードするパターンが多い。楽しくもあるが気も遣うので、こういうことに積極的な女性は男にとってはありがたい存在だ。それなのに……。
ちょっとがっかりしているフォードを慰めるように女が顔を近づけた。
「眼鏡をかけてる男は初めてだわ。それにこれは…薔薇の香水かしら?とても良い匂い。従者にこんなものを使わせるなんて、貴方のお勤め先はさぞお金持ちなんでしょうね」
「確かに比較的大きな額の金銭は取り扱っておりますが、最近は出る額も多くてね…。困ったものです。連れのお嬢様も服装以外は貧相だったでしょ?」
フォードがにっこりと笑う。まさか国家予算を扱う人間が目の前にいるとは夢にも思わないだろう。女が怪訝な表情を浮かべる……その瞬間だった。その視線が突然地面に落とされる。
フォードはナイフを持った手首を掴み、後ろを向きながら細腕を脇に挟むように固定。腰を少し落とすと、女の関節は「これ以上は曲がらない」とばかりにギシギシと軋むんだ。
「ウゥ……ッ!」
低いうなり声。フォルカーの目の前には今にも手からこぼれ落ちそうなナイフが淡く光っていた。
「綺麗な薔薇には刺があると言いますが……。もしかしたら、この言葉を紡いだ方も同じような経験をしたのかもしれませんね」
空いていた片手でナイフを取ると、まるでペンでも回すように遊び始めた。
「誤解なさらないで下さいね。わたくしは本来、女性には最大限の敬意を払っております。ただ今回は特殊な事例とでも申しましょうか?いたずらをした子はお仕置きされるものですからね。これくらいならきっと、お嬢様にも許して頂ける範囲だと思いますし……。どうぞご容赦を」
「……っ……。…随分と…気を遣うのね」
「以前彼女とは大きな喧嘩をしてしまいましてね…。年長者らしく、こちらが折れることにしたんですよ。…ほら、色々と面倒でしょ?」
ナイフが止まり、その切っ先が女の背中に向かう。なだらかな曲線を辿りながら後ろで布を止めているボタンを刃先で二三度撫でた。
「“子供”には早すぎて理解出来ないことも多いでしょうし、わざわざ説明したところで飲み込む程の柔軟さも持ち合わせない。純粋といえば響きは良いですが、真っ直ぐ過ぎる性格は視界を狭めてしまう。気に入らないものを拒むお気持ちもわかりますが、さりとて現状が変わるわけでもない。結局互いに自分の理想を押しつけているだけだというのに……。本当に羨ましくも愚かな方だ」
刃先を布との隙間に潜り込ませる。ナイフはよく研がれていて、少し力を入れるだけでプチンと糸が切れた。その全てを外したところでフォードは彼女の腕を放す。
「…っ!」
「花も果実も、少し厳しいくらいの環境に置いた方が立派に育つ。貴女もそう思うでしょ?」
女は落ちるドレスを押さえながら、余裕の無い笑顔を見せた。
「子守も大変ね」
「だから貴女のような方は大歓迎です。……腕、大丈夫ですか?もし必要なら医者を呼びますが?」
「もう痛くないわ。手加減して頂いて恐縮よ。それで?私をどうする気?憲兵に突きだして報奨金でも貰うつもりかしら?」
「いいえ、とんでもない」
一歩、また一歩と距離を詰めるフォード。今度は女を壁際へと追いつめた。女は気丈に振る舞ってはいるが、その足が前へ進むことはない。
フォードは彼女の長い髪を一房持つと、優しくキスをした。
「!」
「荒っぽいことは終わりです。どうか怖がらないで下さい」
髪の流れに沿うように顔を近づけ。額同士を軽くぶつけるように触れさせる。
その呼吸を一つでも見逃さないように、エメラルドの瞳が彼女を捕らえた。
「出来ればこのまま…わたくしめの相手をして頂けませんか?手放すにはあまりにも惜しい。こんな形の‘忘れられない夜’は後悔しか残らない…」
フォードの言葉に女は驚きを隠せない。
「あ・貴方、思っていたより節操がないのね…っ。今殺されそうになった相手よ…っ?」
「ええ、なかなか刺激的な演出でしたね。それにわたくしは、本当に美しいと思った方にしか応じません。ご自身の魅力……自負して頂いて結構ですよ」
「――――――……」
「報酬も最初の額で…。少ないなら今持っている全てでも良いでしょう。嫌ならこの手を振り払って逃げても構いません」
「あ…あら?逃がしてくれるの?」
「貴女がそう望むなら従うしかありませんね。でも……」
「っ!?」
女の顎を捕らえるとやや強引に唇を重ねる。逃げられないようにくびれたウエストを引き寄せ、柔らかい太ももの間に自分の足をねじ込んだ。女はもがくようにフォードの胸を叩くがどこか力はなく、そのうち諦めたように彼を受け入れ始めた。
しばらくして唇が離れる音が水滴の様に響き、呼吸を整える音に変わる。女は熱いため息を吐きながら力なく彼の胸にもたれかかり、その身体を太い腕が抱きしめた。女の耳元で落ち着いた声音が静かに、甘く響く。
「……生憎わたくし、この手の勝負で負けたことはありません」
誘われるように、女はゆっくりとフォードを見上げる。
至近距離でぶつかる視線は思っていたよりもずっと優しくて、意志より先に反応した身体が頬を熱くさせる。
優美な顔立ちだけではない。落ち着いた物腰、乱れのない美しい発音、みすぼらしさの欠片も感じさせない男…。今まで見てきた連中は、力で無理矢理言うことを聞かせるようなのも多かった。汚い言葉で罵り、「売女のくせに」と蔑む奴もいた。男なんてみんな頭が悪くて汚らしい…そう思っていた。酒場で彼を見つけた時だって「良いカモ」としか見ていなかった。
「あ…貴方一体…何者なの……っ?だって…だって……っ」
やっぱりただの付き人などではない。もしかして、何処かの貴族様か騎士様ではないのだろうか?しかし軍人にありがちな荒々しさは見あたらない。
その視線は真っ直ぐに注がれ、愛おしい者を見るように優しい。こんな風に見つめられたのはいつくらいぶりだろう。
例えるなら、そう…、まるで……
「……王子様…みたい……」
力なくこぼれた言葉にフォードは微笑し、眼鏡を外す。
「お覚悟なさいませ、レディ」
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