お嬢様と従者の受難【2】
酒場の裏口、そこのちょっとした庭にある犬小屋の前で、ポルトは闇に紛れるようにうずくまっていた。この世の全てから隠れるように深く深く被られたフード、その奥にある金色の瞳は犬小屋の入り口をじぃっと見つめている。
風が入らないように厚い布がカーテンのように垂れ下がっていて、奥から時折ガサゴソと音がする。店主の奥さんが言っていた子犬がいつ顔を出すのかと胸が高鳴った。
どうせ二時間酒場で粘っても駄目だったんだし…と、今日の婚活は諦めた。胸が大きくなっただけで十分だ。それに一人でいるより犬と戯れている方が楽しいに決まっている。何よりあの奥さんのいる酒場、しかもカウンター席なんて……。戻るにはちょっとどころじゃない勇気が必要だ。
外の寒さのせいか、それとも子犬たちが眠っているのか、ちっとも顔を出そうとはしない。かといってカーテンをめくるのはちょっと可哀想な気がして躊躇してしまう。
(でも…ちょっとだけなら覗いても……。いやいやいや、でもここで嫌われちゃったら元も子も……)
ごちそうを目の前におあずけ状態。ポルトはむむぅ…と考え込んだ、その時。突然背後の扉が開く。
「お嬢ちゃん、すまないね。こちらの旦那と交代だ。」
「!」
ポルトは思わずフードを引っ張った。
(………………うそ……………)
扉の後ろから現れたのは店主と客人であろう一人の男。見るからに貴族とわかる出で立ちで現れたのは、同じ職場で働く見知った相手…ローガンだったのだ。
(……うそ……!うそ……!!なんで!?なんで!?)
フォルカーと二人でいなくなったことに気付かれたのだろうか?まさか城から追いかけてきた…?そうじゃなければどうしてこの場所がバレてしまったのか。頭の中には次から次へと疑問が噴出し体中に嫌な汗をかかせる。
「いや、私は構わない。そのままでいてくれ」
ローガンはそう言って店主に銅貨を渡す。
(あ、ヤバイ。これは一対一でのお説教タイムだ……!逃げなきゃ…!殿下に知らせなくっちゃ!!)
「おや、そうですか?良かったな、お嬢ちゃん。それじゃ、俺は店があるんで先に中に入ってますね。お二人とも風邪引かないように、キリの良いところで戻ってきて下さいよ!」
店へ戻る店主に追随するように、ローガンの脇をすり抜けようとするが、長い腕がそれを妨害する。
「待ちなさい。私は城で王に仕えているローガンという者だ怪しい人間じゃないよ、どうぞよろしく。君の名は?」
(あれ、自己紹介……??もしかしてバレてないの……?)
しかし万が一ということがある。ポルトはその身を固く強ばらせた。ローガンはそのまま話を続ける。
「まあ、自分が悪人だと紹介する悪党も珍しいか。私はここの店の顔なじみだ。私が悪人だったら店主がこんな場所で君のように若い女性と二人きりにすることはないだろう?」
(わかってます、わかってます!貴方が悪者でないことはわかってます!よぉっくわかってます…!)
声を出すことは出来ず、頷くだけの返事をした。
今ならまだ間に合う。すぐにここを離れてあの馬鹿王子を回収し脱出する、これしかない……!
正体がバレていないということは、恐らくローガンの目的は自分と同じ…つまり犬小屋の中にいる子犬だろう。度を超えた犬好きの彼ならば、きっと子犬を見た瞬間全ての感覚をそこに集中させる。その隙を狙うのだ。
ぐっと決意を固めた、その時。小屋の中から聞こえた高く、か細い声。
「クゥンッ」
「「――――――ッッッ!!!」」
高速で顔の向きが変わる。
カーテンをくぐり、目の前に現れたのは……生後1ヶ月にも満たない子犬だ。厚い毛に覆われた茶色の天使。時折よろめきながらも短い足をピンと伸ばし、黒くて小さなお鼻をクンクン鳴らしている。
好奇心の塊である子犬は見慣れない人間二人の姿を発見すると人差し指くらいの小さな小さな尻尾がピンと立たせ、嬉しそうに左右に揺らす。何より印象的なのは黒曜石のような真っ黒な瞳、そして小指の先ほどしかない小さな小さなお耳……!
(ぬあぁぁぁああ……!!!これはぁあぁあああああああぁぁぁ………!!!!)
見つめて欲しい!いや、これは危ない。見つめないで!!もはやこれは生きる兵器。もし戦場で兵士と同じ数のこれと対峙することになったら…瞬時に心を奪われ剣を落とし、敵国へ寝返ることだろう。彼らのためなら奴隷として捕まったとしても構わない。むしろ転職したい。
腰から崩れ落ちそうになり慌てて顔を覆い、視界を遮った。そしてなんとか体勢を保とうと背筋を伸ばす…が、やっぱり腰に力がうまく入らなくて、仰け反るような形のまま硬直してしまう。
荒々しく夜の空気を吸っては吐き、なんとか気持ちを落ち着かせた。指の隙間からもう一度声のする方向を見ると……なんとローガンが天使を抱っこしているではないか!!しかも何度も何度も頬ずりをし、すでに顔の筋肉は崩壊寸前。そしてこちらは我慢の限界。
「あ、あの……!わ…私も触ってよろしいでしょうか……っ?」
言ってしまった……。
なるべく顔が見えないようにフードを押さえながら、高い声を意識しつつ話しかけてみた。
だってズルいでしょ!先に待っていたのはこちらだというのに!!え?馬鹿王子??そんなものは後で良い!!
ポルトの気持ちを知ってか知らずか、ローガンは笑顔で頷いた。
「ああ、勿論だとも!彼らの愛らしさは人類共通の財産だからね!…でもこの子は後かな。ホラ、後ろ。」
「!!!」
促されるように振り向いて、ポルトは硬直する。なんということだ……。小屋の中から兄弟犬が顔を出しているではないか……!!丸くてモコモコでヨタヨタでプニプニな小っちゃワンコワンコワンコ!!
(嗚呼…やばい……意識が飛ぶ……)
シーザーとカロンというかなり大きいサイズのワンコ(と同じ形をした狼)しか相手にしていないポルトには、キュン死必至の幼獣だ。
その視聴覚攻撃に必死に耐えながら、膝から崩れ落ちるように腰を下ろした。
「ここの店主は猟犬を育てていてね、私の家もここで何匹か買ったことがある。この子達も今はこんなに小さく愛らしいが、そのうち立派に獲物を追うようになるよ」
可愛い上に猟犬になるだなんて、どれだけ有能な生き物なんだ。いっそ世界を征服すればいい。出来ることなら今ここで自分を獲物に見立てて狩りの練習をして欲しいくらいだ。歯があるのか無いのかわからないような小っちゃなお口であぐあぐされる……そんな姿を想像すると理性が飛んで行きそうになる。
「そう…なんですか。母犬は……」
目線を移すと小屋の入り口からこちらを見ている母犬がいた。見たところシーザーやカロン達より年上に見える。既に何度か出産を経験しているのだろう。抱き上げられた子供を視線で追いはするが、人間に歯を見せたりはしない。
ポルトは手を伸ばし、挨拶をするかのように匂いを嗅がせる。母犬は大人しく、優しく指先を舐めた。
「可愛くて穏やかな目…。普通ならちょっと神経質になるんですけど…優しい性格なんですね。……よく頑張ったね、お母さん。」
子犬と同じ茶色い頭を撫でる。そして足下で鼻を鳴らす子犬の一匹を膝に乗せ、もう一匹を抱き上げた。まだ肉球は春先の花弁のように柔らかく、色は淡いピンク色。
我慢出来ずに子犬を抱きしめると、その身体は小さくて小さくて、温かくて…とても柔らかい。胴を覆う手の平から力強い鼓動がドッドッドッと響いてくる。
頬を舐められると愛おしくて泣いてしまいそうだった。実際出そうになったのは涙ではなくヨダレかも知れないが。
その姿を見ていたローガンの表情も緩む。
「犬、好きかい?」
「はい…!あ…っ、こら…!」
揺れるイヤリングを玩具と勘違いしたのか子犬が胸元をよじ登ってきた。もし間違ってイヤリングを食べてしまっては大変だ。慌てて顔を遠ざけた……その拍子にフードはパサリと脱げ、ローガンと思いっきり目が合う。
「「!?!?」」
「……あれ?ポルト?」
(…………や…ば……っ!)
こんな背筋の凍り付きは、久しぶりだった。
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