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elpis 【1】

 冷たい石壁に囲まれたこの北棟は夏でも冷える。冬を間近にしたこの季節なら尚更だ。一度風邪をひいた囚人を診に訪れたことがあったが…あの時もそうだった。収賄の罪で辺境に飛ばされ強制労働の刑に服すことになったその囚人……、今は元気にしているのだろうか?いや、それ以前に生きているのかどうか……。


(まさか自分が同じ轍を踏むことになるとはな……)




 薄汚れた監獄で絶望と共に過ごした時間は確実に心身を摩耗させ、生きる気力を奪っていく。かつては清潔さが第一だとシミ一つ付けていなかったシャツには、泥やヘドロにも似た苔でそこかしこが染まっている。落ちくぼみ、光を無くしそうな瞳。乾いた唇のまわりには、髪と同じ色の髭が無造作に伸びていた。


 国内屈指の名医と言われる宮廷医師ガジンとの出会いはもう十数年も前のこと。

 彼の家は代々麦を育てる極々普通の農家だった。まだ幼かった頃、農作業中に倒れた母を、たまたま学会帰りのガジンが見つけて処置をした。

 泣き出さんばかりに感謝した父親が「せめてこれを」となけなしの銅貨をかき集めて渡したが、ガジンは丁重にそれを断り、「お子さんのためにも、まだまだ頑張らないといけませんよ」と笑って去っていった。

 小さくなっていくその背中を、少年はずっと見つめていた。


 月日が流れてもあの笑顔が忘れられず……。


 数年後、両親の反対を押し切り家を出た。持っていた蓄えは全て書類を工面した役人達に吸い取られてしまった。それでも……、憧れのガジン医師を目の前にした時は、それまでの苦労が泡のように消え、ただただこのチャンスを与えてくれた神に感謝した。

 ガジンは思い描いていた通りの素晴らしい医師であり、そして人格者だった。彼の元で多くを学び、いつか彼のような存在になる…そのはずだった。


(もう……遠い昔のようだ……)


 力なく持ち上げたのはこんな場所には珍しいほど綺麗な毛布。新品というわけではなく、むしろどこかで長く使われていたであろうことは察しが付く。しかし、破れやほつれは丁寧に補修してあり、目立った汚れもなかった。

 鼻先を近づければまだかすかに残る太陽の良い香り。きっと丹念に洗って天日干しをしたのだろう。


 数日前に突然「差し入れだ」と投げ込まれた。そう易々と物が持ち込まれる場所ではないのだが、差出人がそこそこ身分ある人物だったらしい。

 そんな連中は医療室ではなく自身の屋敷で治療を受けるのが通例……。青年には心当たりがない。

 毛布一枚があるかないかで随分と寒さは変わる。例え勘違いだとしても、青年はその毛布をずっと身体に巻いていた。


 数度うたた寝を繰り返し、突然響いた衛兵の怒鳴り声で目が覚める。

 それは青年を刑地へ送る迎えの呼び声だった。



 北棟の裏口は陽の光もろくに当たらない。雑草も所々に細々と生えるだけだ。飾り気のない格子付きの馬車が一台止まっていて、その前には数人の罪人が鎖に繋がれ並んでいた。衛兵の命令に従い、青年もその列の最後尾に付く。

 ゆっくりと馬車に吸い込まれていく薄汚れた男達を見ながら、青年は絶望に包まれた。


(なんで…こうなっちまったんだ……)


 確かに身分を偽ったことは悪かった。でも、バレないように自分でもこれ以上無いと言うほど上手く立ち回っていたつもりだ。勉強も実習もほぼ完璧にこなしていた。問題だって一つも起こしたことがないのに……。


(……陛下の事件が無ければ!)


 そうだ。あの事件の犯人が捕まっていれば、身辺を調べられることはなかった。自分も師であるガジンもこんな仕打ちを受けることはなかった。


 ――――あの時、王子の従者がちゃんと犯人を捕まえていれば……!


(兵士の癖に……!なんであと少し剣を構えていられなかったんだ……。犯人をなんで逃がしちまったんだ…!)


 鎖に繋がれている両手、悔しさが爪の跡で刻まれる。その間も一人、また一人と地獄行きの馬車に囚人が飲み込まれて行く。


「次、テオ・アーカー!入れ!」

「!」


 命令書を手にした衛兵が青年の名を叫ぶ。 気がつけば残る囚人は自分一人。ガクリと首を垂れ、静かに一歩踏み出した。


「――――――待て!」


 その場の空気を変えるような一声に、誰もが動きを止める。

 声の主を見た者は一様に驚きの表情を浮かべ、姿勢を正すと頭を下げた。


「フォ…フォルカー殿下……!?」

「邪魔をしてすまない」

「待って下さい…!少しだけ……!彼に届ける物があります…!」


 一緒に聞こえてきたのはなんともひ弱そうな少年とも少女とも思える声。

 ゆっくりと視線を向けると、そこには緋色の髪を持つ青年……王子フォルカーの姿。そしてその隣には見覚えのある少年がいた。衛兵や王子の近衛隊の中に埋もれてしまいそうな小さな背、しかし衛兵達と同じ赤いサーコートを身に纏っている。

 何より一目見たら忘れられない、濃く美しい金色の髪。『あの従者』だ。

 王子に制止されているのも聞かずにこちらに走ってきた。


「――――――ッ!」


 手の届く距離に少年が飛び込んできた、その瞬間、理性よりも早く身体が動いていた。

 じゃらんっと重く鳴る鎖が宙を跳ね、薄汚れた両手が従者の胸ぐらを掴む。


「お前が……!!お前があの時犯人を逃がさなければ……!!俺はこんなことにはならなかったっっ!お前のせいだ!!」

「!」


 従者は一瞬怯えた表情を浮かべると、身を強ばらせるように胸に抱いた何かを更に強く抱きしめる。


「止めろ!」


 フォルカーの後ろで控えていたローガンの声と同時に、衛兵達が踏み込む。しかし、何故か従者はそれを止めさせた。


(大人しく俺の怒りを受けると言うことか…!上等だ!!)


 感情に身を任せたまま、青年は思いつく限りの罵倒と屈辱の言葉を従者にぶつけた。時に首元を締め付けては苦渋に歪む従者の表情に空しい充足感を獲た。

 そのうち、満足に食事を取っていなかった青年の体力は尽き、荒々しい呼吸だけを繰り返すようになる。

 そこで初めて従者は青年に答えた。


「……本当に…申し訳ありません」


 途切れそうな声。

 てっきり悪態返しでもされるのかと思っていた青年は顔を上げる。


「私の…私の力が及ばなかったせいで……。貴方もガジン様も大変なめにあってしまいました……。本当に申し訳ありません」



「お・お前のせいで…俺の今までの苦労が全部無駄になっちまった!家族にだって合わせる顔が無くなった!どうしてくれるんだ!!お前が…お前が代わりにあの馬車に乗れ!!」

「っ!」

「俺はお前を一生許さない!向こうで俺が死んだら…呪い殺してやるからな!絶対に…絶対にだ!!」


 その言葉に従者はしばらくうつむく。

 しかし、次に顔を上げた時には表情がまるで違っていた。

 奥歯を噛みしめるように向けられた視線には、強い感情が込められている。


「死んだ人間には何も出来ません!力も言葉もなく、ただ土へ還るだけです……っ!」


 青年の呼吸と瞬きを止める。近くにいた衛兵達も、小さな少年から発せられた声に息を呑んだ。


「今まで貴方が看取った人々は、その後どうなりましたか?一人でも声を上げ、思い残したことを成した方はいたのですか?夜の闇に影を紛らわせ、風にかすかな声を乗せることはできるかもしれません。そんな霞のような消えかけた存在に、一体何が出来るというのですか……!貴方の刑期は八年と聞きました。呪うなんて不確定な手段を選ばず、八年後、この手で確実に私を殺しに来て下さい……!」


 胸に抱いていたある物を差しだす。生成の布に包まれていて、男は訳もわからないままそれを受け取った。

 それは立派な革の装丁をされた一冊の本。国教である「白の正教会」の教典だった。


「罪を犯した人間に説教ってわけか……!胸くそ悪い……!」

「これは貴方だけの特別な…特別な一冊です。これからの行く先々できっと道を照らす光に―――――……」

「ふざけんなッッ!!」


 荒々しい音を立てて、青年は聖典を地面に叩きつけた。神に対する冒涜とも言える行為に、衛兵達は青年の腕を掴みねじ上げる。無理矢理伸ばされる筋肉と骨のきしみに青年は思わず悲鳴を上げた。


「待って……!待って下さい……!」


 聖典を拾い砂埃を払うと、彼の胸元に聖典をぼふっと押しつける。


「本当にいらないなら、質に入れるなりトイレの紙にするなり、自由にしてください!」

「え?ちょ・従者殿!?」


 思わず聞き間違いを疑う衛兵。


「おいポチ、お前この後クラウスに何されても知らねーからな」

「で・殿下、どうかご内密に……」


 彼らの言葉に耳は貸さず、従者は青年へ歩み寄った。


「私は八年後も生きて待っています。だから貴方も…必ず……必ず帰ってきて下さい……!その手で見事思いを遂げて見せて下さい!」

「―――……っ……」

「約束ですよ……!」


  その声に押されたのか、無意識のうちに聖典を受け取っていた。

  まだ温もりが残るそれを胸に抱き……青年は馬車へと連れ込まれていった。


明日続きを更新します。

どうぞよろしくお願い致します。

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