後日談:【前】ローガンの場合(★)
青く連なるニウエ山脈は白い衣を身にまとい、すっかり冬の装いになっていた。柔らかなクッションの敷かれた長椅子に身を預け、シナモン香るワインを口に含む。青灰色の瞳に暖炉の炎が静かに揺らいでいた。
久しぶりに私邸で時間を過ごしているのはローガン=ネイシ=エーヘル。一連の事件は解決したという判断により王子の護衛体勢も通常形態に戻った。
護衛は衛兵に任せることも出来るようにもなり、付きそう近衛隊の人数も減った。結果、休みが出来た。
近衛隊の中でも若手であるローガンは勤務日数が多かったこともあり、一番に休みが与えられたのだ。
――あの日、辺境の村で見つかったポルトは最後に会った時に比べて随分と痩せて見えた。投獄されて以降、厳しい日々を過ごしていたのだろう。
タイミングを見て少し言葉を交わしたが、元気そうで表情も柔らかくなったように感じる。
(多分…殿下のおかげなんだろうな……)
ポルトを連れ狼達の元へ案内した時は、冬毛の上からでもわかる体型の変化に彼女が大泣きした。「ごめんなさい、ごめんなさい」と二匹に謝り、二匹は会えた喜びと今まで会えなかった寂しさから鳴きまくり跳ね回り顔中舐めまくったりと大騒ぎになった。
白い雪の中、傍らに二匹を座らせ「一緒に食べよう」と大きな肉の塊を噛みちぎって二匹に与える姿は……まるで母犬のようだった。
(――……っ……)
種を超えた慈愛を見た。
脳裏に浮かべては今もぎゅっと締め付ける胸の痛みに、青灰色の目を細める。
大好きな人だった。愛していた。
いや、今も愛している。
再び彼女に出会えた喜びも、彼女の幸せを願う気持ちにも嘘偽りはない。
でも心は重く冷たく曇っていて、陽の光は何処かへ消えてしまったかのようだ。
折角の休日だというのに気晴らしに馬を走らせる気も起こらない。
今日は暖炉の前で何を考えるでもなく、ただぼんやりと時間を潰している。
こんなやる気のない情けない姿、ポルトどころか一般市民にも見せられない。
そんな時、扉をノックする音でローガンはふと我に返る。
「どうぞ」
扉が開き入ってきたのは執事の一人。初老の男が銀のトレイに乗せた手紙を渡した。差出人は知り合いの画商。
ポルトが北塔から姿を消してから数日後、クラウス司教の使者から知らせが届いていた。
『例の少女が他の者と出立した。提案は白紙に』、と。
本当なら自分が彼女を北のスキュラド国まで連れて行くはずだった。……でももうその必要はなくなった。
匿ってくれる予定だった画商にはその旨伝えていた。今日届いた手紙はその返事。『穏やかで健やかなエーヘル卿の生活を神々にお祈りいたしております』と、几帳面な文字が綴られている。
「穏やかで…健やかな生活か……」
確かに家族と離れ離れにならずに済んだことは少しホッとしている。生きるための猟もしたことがないし、絵の商売だって両親や兄任せだ。
爵位を捨て、一人の下級市民として生活が送れるのかどうか…不安がないといえば嘘だった。
現にポルトが拷問にかけられると知った時、『王の命令』の前に屈し、この手で彼女を助けられなかった。
後先考えない王子の行動があの時ほど眩しく見えたことはない。
そしてその強い光は、自分の中に黒い黒い後悔と自責の念を作り出している。
(……気にするな。彼女とのことはもう終わったことだ……)
もう何度こうして自分に言い聞かせてただろうか。今思えば始まってすらなかったのかもしれないのに。
これからもずっと今までどおりの生活が続く、それはそれで幸せなことだ。
しかし、胸には大切な炎を奪われたような……ぽっかりと穴が空いたような空虚感が消えることは無かった。
グラスが空になり、少し熱を持った身体でワインを満たしに立ち上がる。そこでまた扉のノックオンがした。
「坊ちゃま、クロエでございます。モリトール様がお見えになっておりますよ」
「え!?だ・団長!?」
確か今日彼は勤務日だったはず。何か急用でもできたのかと慌てて乱れていたシャツを直す。
「すぐお通ししてくれ!あと何か飲み物を…!」
「いや、それは不要だ」
その声は扉の方からした。上司であるアレクシス=リヒャルト=フォン=モリトールがいつもの険しい表情を向けている。六十を越えるクロエは小さく「ひゃぁ」と叫んで身を震わせた。
「だ・団長!こんな急に……どうされたのですか!?何か火急の指令でも……」
「いや、俺も早めに引き上げて来ただけだ。どうせお前が家で腐っているだろうから、様子を見に来てやったのだ」
「う……」
「使用人はもう下がっていい。あとで荷物を運んできてくれ。ああ、ローガン、手土産にワインを持ってきてやった。こいつを開ければいいだろ」
放り投げられたそれをローガンは危なげなく受け取ると、「は…はい……」と小さく答えた。
ローガンがグラスを用意している間、モリトール卿は南向きの大きな窓から外の風景を眺める。
エーヘル家の本邸に比べれば規模は小さいものの、この私邸も落ち着いた雰囲気のある良い屋敷だ。
「――馬鹿な女だ。お前を選べば、ここで楽に生きられただろうに」
「ぶはっ!?」
卿の言葉にローガンが思わず吹き出し、手に当たったグラスが危うく落ちそうになった。
「な…なにを仰っているのですか…!?」
「やっと勤務状況も元通りになって幾分負担も減っているはずなのに、ここの所ずっと顔色が悪い。いや、厳密にいえばあの女が幽閉されてからか?」
「な…っ…あ…あの……っ」
「まぁ良い。座れ」
「………」
明らかに動揺しているローガンを椅子に座らせ、空のグラスにワインを注ぐ。さながらこの屋敷の主のような落ち着きである。
「……そう…ですか。俺、そんなにおかしいですか?」
「良くも悪くもお前は素直だからな。恐らく隊の全員がわかってるさ」
「ぜ・全員!?」
「何故お前が白獅子騎士団に受かったのか疑問も良い所だな」
鼻先でグラスを揺らすと赤い水面が心地良さそうにゆっくりと回る。
「悪いことは言わん。早く次を探せ」
「う……っっ!」
相談の余地もない、直球の言葉が矢のようにローガンの胸に刺さる。
「言い訳があるなら聞くが?」
「言い訳もなにも……。そもそも俺と彼女の間には何も無かったんですから。その……本当に、本当に…何も……」
勢いに比例しているのかローガンの頭がだんだんと下がっていく。
「……彼女は学は無いが馬鹿な娘じゃない。人を見る目もあると思います。彼女が選んだ相手ならきっとその相手で正しいんだと思うのですが……、でも…胸の奥がずっと重くて……」
「………」
「俺のものではなかったのに、取られた気分です。おかしいでしょう?はは……っ」
力なく笑うローガンは一口もワインを口にすることなく、ただ手の中で温めているだけだ。




