愛しい人
リガルティアの出現に関する一連の出来事は、ファールン王ウルリヒにとっても青天の霹靂だった。
(国境近くで発見か……。恐らく他の聖神具の影響地へ入る前に、娘の動きを封じたのだろうな)
聖神具に謁見させて伴侶を選ぶのは他三国も同じ。他の神具に魅入られる前に、娘を手元に置いておくことを指輪が望んだに違いない。歴史を遡ってもそんな記録を見た覚えはなく、そういう点では指輪の愛子という名もあながち嘘ではないのかもしれない。
息子と共に娘が戻った後、あれほど荒れていた指輪は嘘の様に静まり、今は聖堂の奥深く…指輪の間に納まっている。
二人の仲を認めたわけではないが、以前のように声を荒げてまで反対する気も起こらず、しばらくは行く末を見守ることにした。
この先、あの娘には多くの困難が待ち構えているだろう。好いた惚れただけの感情で居続けることが出来るほど、ここは甘い場所ではないのだから。
ウルリヒは口元のひげを指先でなぞる。
「……それにしても、エルゼには可哀想なことをした。今度ゆっくり話を聞いてやるとしよう」
城で一番日当たりの良い部屋には一番濃い影が出来る。床石には窓枠が作る影が落ち、部屋の奥まで伸びていた。
ふいに自分以外の人の気配を感じて、辺りを見回す。この部屋に声もかけず入ってこれる者などいない。それは実子フォルカーといえども許されることではない。
豊穣祭を思い出し、部屋に出来た暗い影を見た。
「………?」
見たこともない光景に目をみはる。先ほどまでは無かった蛍のような小さな光の珠がいくつも浮かんでいるではないか。
それだけではない。中心から生まれた光は大きくなり、そこからまた新たな光の玉が生まれる。そしてその数はみるみるうちに大きくなり人の形を為していく。
注意深く見つめていたが、その光源の正体がわかると熱いため息を吐き嬉しそうに微笑んだ。
「……フォルカーの髪、母親と同じ…見事な銀色だな。あれは君の仕業か?」
光源は片方の口角だけを上げて微笑んだ。白い衣装に身を包んだ女だ。そしてひときわ目を引くのは長い白銀の髪。
何度指を通し口付けをしたことだろう。
毎日見上げている肖像画は四大陸でも名のある画家に描かせた傑作だ。それでも、目の前の彼女の方が何倍も何倍も美しい。
「シュテファーニア」
いじわるそうに上がる口唇は、いつ触れても温かく柔らかで何度理性を失ったかわからない。
「何も言えなくなるだろう。その顔で微笑まれたら」
懐かしさと愛おしさで息が止まりそうだった。年甲斐もなくと言われてもかまわない。熱い想いは初めて唇を重ねた日のまま、今も彼女を求めて止むことを知らない。
『……子はいつか親の手から離れるものだ。寂しければ早く次の王妃を娶れば良い』
一歩、また一歩と、二人は距離を縮めていく。
「君以上の女性がいたらね」
『皆無』
「だからひとりでいる」
ウルリヒの言葉に妻シュテファーニアはいたずらっ子のように笑って手を伸ばした。白い髭の混じる頬に手を当てようとするが、肉体を持たない彼女の身体はすり抜けてしまう。ウルリヒは苦しそうに目を細めた。
「このまま…私を君の元へと連れて行ってくれないか?息子は立派に成長したし、もうすぐ妻も出来るかも知れない。あの子なら赤ん坊が出来るのも早いだろう。それに比べ私達は長く離れすぎた。今も……今も君が愛おしい」
懇願するような声に、シュテファーニアは首を振る。思わず「何故」と言葉が零れた。
『指輪が静けさを取り戻した今、私もじきに消える。どうせ遅かれ早かれお前も死ぬ。そう慌てるな。短気は損気だと言ったのはお前だぞ』
「しかし……っ」
細いつま先を上げ、シュテファーニアは自分の唇をそっとウルリヒのそれに重ねた。淡く透ける彼女とのキスは空気が触れ合ったような程度のものだったが……。その気配も甘い香りも、全て記憶の中のものと同じ。心臓はその鼓動を止めてしまいそうな程ぎゅうっと締った。
そんな息苦しさを知ってか知らずか、シュテファーニアは優しく弓月のように目を細める。
『愛してるよウルリヒ。幾年月重ねても、私の夫はお前だけ』
まばゆいプラチナの髪、陶器のような真っ白な肌、深い海のような蒼い瞳……。生きていた時のままだ。
視界全てが彼女になる。
『泣いて喜べ』
「……勘弁してくれ。本当に泣きそうだ」
情けなく笑うウルリヒが思わず目元を拭う。
顔を上げた時にはもう、愛しい妻の姿は消えていた。




