指輪の見せた世界-8
『――待て』
場に似合わぬ女の声が剣筋を止めた。
黒騎士の手がフォルカーの周りの囲む靄の前で、硬直したかのように止まっている。
カツン、というヒールの音が場の空気を一瞬で鎮めたように響く。
騎士のそれとは違うのは足音だけではない。その姿もまるで対照的である。
絡み合う蔦のような文様に縁取られた簡素なドレスに真っ白なローブで身を包んでいる。
唯一顔周りにある仮面のような覆いがだけが白銀の金属で造られていて、額には一本の長い角の装飾がされていた。
黒い影を宿す風の中で、女の白銀の長い髪は流星のように輝き、淡く美しく光を放つ。
女性らしいなだらかな曲線はこの場で浮いているようにさえ感じられた。
武器一つ持たない身で露程の恐れも見せず、黒騎士の目の前に立つ。
『これ以上の干渉は見過ごせん。剣を収めよ』
『――………』
一方、フォルカーは靄を払うように両手を動かしながら、ぷはっと霧の中から顔を出した。……いや、霧だと思っていたものはすでにその形を本来の姿に戻っていた。
十数人はいるだろうという幼子達だ。
フォルカーにしがみついている者もいれば、黒騎士との間で立ちふさがるように両手を広げている子もいる。その小さな背中には心無い雇い主の鞭打ちにあったのだろう、数え切れない程の裂傷が刻まれていた。
『おとうさまに いじわるするな!』
『とぅと いじめるやつ あっちいけ!!』
傍らには怯えてフォルカーの背に隠れる子もいた。人の姿になりきれずフォルカーの影の中に入り込もうとする子、腕にしがみついて震える子……。
今まで多くの大人に傷つけられ、騙されて来ただろうに。それでもフォルカーから離れようとはしない。
ぎゅっと上着を掴む小さな手にフォルカーはその心情を察した。
彼らはまだ思い焦がれているのだ。
肉体を失っても尚、自分を包み込み、愛してくれる存在を求めているのだ。
こんな姿になっても、尚、人を信じ続けて――――……
「――……っ……」
無意識に両腕が子供達を抱き寄せていた。理由はわからない。ここにあるものが薄いガラスのように儚く思えた。
これ以上壊れるのを見ることを心と身体が拒んだ。
女は黒騎士を見上げながら穏やかな声で語りかける。
『ここでやり合う気はない。今日の所は下がってくれないか』
『――……』
『お前が引かねば私も引けない。それも壊れてしまうぞ』
女が暗に少女を示唆する。
二人は無言で見つめ合ったままだったが、しばらくすると黒騎士がゆっくりと剣を鞘に直した。そして二三歩後ろへ下がると端から煙へと変わり瞬く間に姿を消す。ポルトも力が抜けたようにその場に膝をついた。
『とぅと……』
彼らの後ろで心配そうにフォルカーを見上げる子供。可哀想に、この子は顔に大きな切り傷が残っている。口から頬骨にかけて肌が一筋に窪んでいた。
何があったのかなんて……容易に聞けるわけもない。
鼻の奥がツンとして声が一瞬上ずりそうになる。
その傷に触れないよう、大きな手でその頬を包んだ。
「大丈夫、一緒に帰るぞ」
『……ほんと…?』
「ああ、本当だ」
驚いたように目を丸くする子供。同じ言葉を待つ子供達がじっとフォルカーの顔を見上げた。
身を削り、自分が呼ばれるその日を待ち続けた。
差し出されなかった手に、何度絶望を味わったことだろう。
家から連れられていく兄妹の背中をどんな気持ちで見つめていただろう。
(俺様の目の前で、そんなこと二度とさせねぇ……!!)
不安を帯びた瞳を向ける一人一人に「お前も、お前もお前もお前も……!」と指差す。そしてより遠く、より広く聞こえるように大声で叫んだ。
「あーっ!もう!まどろっこしい!おおおい!!この辺にいるお前ら聞いてるかーーー!?!?俺様がまとめて面倒みてやる!!父でも兄でも好きに呼べ!!全員だ!!全員まとめてついてこおぉぉおぉぉぉぉおお――――いッッ!!!」
その言葉に一斉に咲く満面の笑顔。
黄色い歓声が上がったかと思うと建物の壁にある隙間という隙間から黒い影が飛び出してきた。
煙にも液体にも見えるそれは、中でザワザワと赤い目と口が何かを訴えている。
建物だけではない、崖の下、そして丘の土壌からも間欠泉のように湧き出し、そしてフォルカーに向かって一直線に飛びかかる。
「ッ!」
向かってくる黒い塊に鼓動は爆発しそうなほど荒ぶる。
その様は聖典に書かれたこの世の終わりに現れるという虫の大群を思わせた。脂汗がじわりと滲む。
しかし逃げることはしなかった。
片側の口角を不敵に上げ、影達に向かって「来い」というように右手を差し伸べる。
一瞬煽られたかのように強い強い突風が吹き、赤い髪が空へと舞い上がる。
黒い塊はフォルカーを完全に覆い隠し、スピードを上げながら周囲を竜巻のように回り始めた。
「くッ!!」
視界が閉ざされた瞬間、吐き気を感じるほどの激しい頭痛に襲われた。と、同時に、脳裏に見たこともない風景が滝のように流れる。
一瞬忘れていた自分の記憶かと思うそれは、まとわりつく影達が…皆が思い思いの言葉を、感情を、こちらのことなど全く気遣うこともなく脳に流し込んできたものだった。
ビジョンは彼らが経験したのだろう血と汚泥と涙に……地獄に溢れていた。
笑いながら鞭を手にした男に、顔を大きく歪ませて鎌を振り上げた中年女に、棒を手にした老人に、鎧を来た衛兵に、そして表情を無くした兄妹に、殺された。
子供達は自分達がどれだけ傷つき悲しんだのか、どれだけ耐え偲んでここまで来たのか、傷つき、傷つけ、そして朽ち果てていったのかを必死に訴えてきたのだ。
「――っっ……!!」
処理しきれない情報量に脳みそが爆発してしまいそうだ。目の裏の血管まで強く鼓動し、気を抜いたら血の涙が流れてしまうのではないだろうか。
しかし、これは悪意を仕掛けられているのではないこともわかっている。
彼らはただ知って欲しいだけなのだ。自分達の悲しみを、無念を。ここで何が起きていたのかを。
わかっていても、臓腑がひっくり返っているのかと思うほどの止まらない吐き気、身が引き千切れる感覚に気が飛びそうになる。。
絶望しか無い世界で、無残に迎える『死の瞬間』を何度も何度も何度も味わう。
(こんなもの、正気でいられるわけが――――……!!)
―――『まともな感情は心を壊すだけ。』
刹那、少女の言葉をが脳裏を過る。
――――『私は…私達は、傷つく痛みから逃れるために<傷つくもの>を手放した。身体を捨てる者もいた。身体を捨てられない者は心を捨てた。腐り溶けて土に還るか…全てを閉ざし石と化すか……、そうやって私たちは自分を守った』
(………頑張ったんだな、お前達……。本当に…本当に頑張ったんだな。それなのに俺がここで倒れるわけにもいかねぇよな……!!)
フォルカーは決して逃げようとはしない。倒れそうになる身体を、心配そうに見上げる幼子等が支える。
影達の数は時が過ぎるほどに増えていった。




