【後】蘇る色(★)
女の言葉の意味がわからず表情が曇る。
そっちの世界へ行くということだろうか?
死を迎える直前、死んだはずの知人らの幻想…俗にいう『お迎え』が見えると聞いたことがある。それならこの状況にも納得だ。
「あの日…お前を殺すように依頼され、引き受けた。……呪われようと殺されようと、俺は抗う気はない。好きにしろ」
毎日が死と隣り合わせ。ただ今を生きているだけの時間を長く過ごしてきた。自分が死ぬのはそう遠くない未来、もしかしたら明日にでもと思っていたし、今更この世に思い残すことも無い。
自分一人居なくなった所で気にする者など――……
(――……)
一瞬金色の髪が脳裏をよぎった。
もし自分がこの世界から消えたとして、彼女だけは…小さな涙の雫を一つでも落とすのだろうか?……いや、例えそうだとしても、彼女は一人でも上手くやっていける。あれの芯の強さは今更疑うまでもない。
女はカールトンの言葉に応えるかのように、その白い手をゆっくりとゆっくりと伸ばす。
「………」
首元に絡まる細い指。青い瞳はゆっくりと閉じられ静かにその瞬間を待つ。
しかし女は、自分の腕を青年の首にまわし、そのまま抱きしめた。羽根のような感触と共に懐かしい匂いがふわりと鼻孔をくすぐる。
「……な……っ」
あの日の夜の出来事が走馬灯のように駆け巡った。
もうずっと昔のことなのに、今も時折夢に出てきては徒に胸をかき乱す記憶。
女はそれを察しているかのように優しくカールトンを腕で包んだ。
『……あの日、貴方は私を助けようとしてくれた。血の繋がらない私を…私の望むまま“母”と呼んでくれた。死んでしまった息子の替わりに……』
あの日、彼女が正気を失っていることはすぐにわかった。その理由も。
そしてもう、彼女に出来ることは何もないのだということも。
「……ち…違う。俺はお前を……っ……」
助けられなかった。
振りかざされた刃が空気と共に彼女の背中を切り裂くのを、見ていることしかできなかった。
ただ子供を愛していただけの母親だった。心を壊してまで我が子を求めていた。
神も人もあれだけ愛を賛美しているのなら、親もなく道で死ぬ子供の運命…そのたったひとつを変えて彼女の元へ送ってやれば良かったのだ。
何故この世で罪無き彼女が独りになった。
死ぬべき人間は他にいくらでもいた。これが天の定めた運命だというのなら、神というのは途方もない大馬鹿野郎だ。
『ありがとう』
「――……っ…」
『本当に…ありがとうね』
それは思ってもみなかった言葉。声を発しない唇が小さく震えて息を吐く。
胸の奥が熱を持ち、視界が滲んだ。そんな青年の心情を察するように抱きしめたままの女が首元に額を置く。
『今も昔も貴方だけだわ……。私が死んで泣いてくれたのは……』
「……………」
何故だ?彼女には家族もいただろうに。
夫だけでなく、血を分けた家族にも捨てられた正当な理由などあるものか。
『あの日……、一人になった後、貴方は今みたいに泣いてくれた。見ず知らずの私のためにその心を痛めてくれた』
そのたった一人が殺しに来たゴロツキだったのか。
女の優しい声に誘われるように、今まで言えなかった言葉を喉の奥から絞り出した。
「……すまない」
『どうして……貴方が謝るの?』
「お前は…何も悪くない……。本当に…すまなかった……」
力が無くて。
助けられなくて。
屍を埋めてやることもできなかった。
自分だけが全てを知っていたのに、皆に知らせようともしなかった。
「…俺は……何もできなかった……。何も……何も…っ……」
女はまるで我が子を慰めるように黒髪を撫でる。体格の差は明らかに違うというのに、自分がひどく小さくなったように感じた。
『子供を失ってから……世界は空っぽになってしまった。ただ時が過ぎるだけの生活を送っていたわ。……貴方が目の前に現れるまでは』
「…………」
『あの子が帰ってきたと思ったの。一瞬で世界がバラ色になったわ。貴方を抱きしめたとき、生きていて本当に良かったと思った』
「……所詮偽物だ……」
『それでも嬉しかった。本当よ。こうして…ここに出てくるくらい』
「………」
『それにもうひとり……、貴方に救われた子がいるわね』
女は目尻を下げてふふっと笑う。
身に覚えはない。言葉の意味がわからず眉をひそめた。
『すぐ側に』
白く輝くオーブがふわりと宙に舞い上がる。母親の後ろまで飛ぶと形を現した。……それは幼子が成長した姿。ストレートの黒髪が肩にかかった十歳程の少年で、その姿は若き日の自分に似ていた。
『貴方は私たちの分まで生きなくちゃね』
ふいに少年が袖を引っ張り窓の外を指す。
「……?」
促されるように鎧戸を開き、月明かりに照らされる村を見る。宿の前に目をやると、真っ白な雪原の中に小さなランタンの明かりが見えた。光が倒れている人影をわずかに照らしている。
あれは先日の騒動で傷を追った村人か?目を凝らした瞬間――……
「っ!?」
息を呑んだ。
ローブを羽織ることも忘れて部屋を飛び出しす。
その背中を嬉しそうに見送りながら、親子はゆっくり光の世界へと溶けていった。
カールトンの足音が雷のように響く。
ロビーにある扉を蹴破るようにして開くと、冬独特の匂いを含んだ風が強く吹き込んだ。
「ポルト……ッ!!」
入り口から十数メートル離れた場所でうずくまるように少女が倒れていた。
駆け寄り様子を見る。怪我はないようだが反応もない。首筋に指を当ててみた。幸い鼓動は打っているようだが……
(何があったんだ……)
すっかり冷たくなった身体を抱き上げようとしたとき、女が言っていた言葉を思い出した。
――『それにもうひとり……、貴方に救われた子供がいるわ』
少年が指を指した方向を考えれば、女が言っていたのは妹のことだろう。
……城の牢から出したことか?
いや、あの場にはすでに赤毛の王子がいた。放っておいてもどうにかしていたに違いない。
城にいた間は、この娘とはなるべく接触をしないように心がけていた。例えば自分とは別に依頼を受けていた誰かが居たとしても、厳重警戒態勢の中、王子の従者であるポルトが危険な目にあうことなどあったのだろうか?
「…………」
真っ当な依頼なんて来た試しがない。
自分が誰かを助けた?なんの利益もない面倒事に自分が関わった覚えは――……
刹那、記憶の扉が音もなく開く。
幼き日、皆で住んでいた古い屋敷は赤黒く燃え落ちていた。
まだ子供で、今よりも身体が小さかった自分は生き残るために崩れ落ちた瓦礫の中を這いずり回っていた。
そしてやっと窓のある部屋までたどり着いた先で――……逃げ出すことを諦め壁に飾られた帰らぬ男の絵の前で、祈り手を作っていた幼子を見つけたのだ。
木の皮がパチンと弾け、赤い火の粉が舞う。熱を帯びた風が髪を舞上げる。
幼子の背では窓は乗り越えられない。乗り越え窓の外へ出たとしてもその先は崖だった。廊下は炎とともに竜巻のような風が渦巻いていて……。
だが、道はひとつしか無い。
最後の力を振りしぼり近くにあったチェストを倒して足場を作ると、幼子を抱え窓枠を越える。そして、訳もわからない顔をしているその子を崖から突き落とした。「生きろ」、そう叫んだ。
炎で死ぬか、水で死ぬか、岩に強打して死ぬか……万に一つの軌跡が起きるか。運命に委ねるしか無かった。
ふいにモノクロームの記憶に光が差し、急速に色を取り戻す。
過去の記憶が目の前の現実と繋がる。
崖の上からすがるように両手を広げたまま落ちていった幼子は…春の陽のような金色の髪と瞳を持っていた。
「お前……まさか……!?」
ドンと脈打つ鼓動。
妹を抱き上げ宿へと引き返す。驚いた店主が様子を見に来たが、ポルトの様子を見ると宿で一番大きな暖炉がある部屋のベッドを貸してくれた。
「嬢ちゃん……っ、おい……!しっかりしろ……!おい、どうしたんだ?まさかこの前の戦いで何処かに怪我でもしてたのかっ?」
「――……っ」
怪我をした話など彼女からは聞いていない。ベッドに寝かされたポルトは苦しそうな表情など欠片も見せず、ただ静かに眠っている。
神経系の毒を疑い、もう一度首筋に指を当ててみたが今も脈拍、呼吸は正常だ。
「もしかして…働きすぎて爆睡してるとかそんなオチか……?」
「――…………」
亡霊が現れたと思ったらこの娘が意識をなくした。もしかして、迎えが来たのは自分ではなく……。
頭をよぎる可能性に思わず握った拳が上がる。強い衝撃を与えれば嫌でも反応する。目を覚ます可能性を証明できる。
「に、兄ちゃん!?」
「――っ……」
カールトンの強さは店主も知っている。それがこんな少女に向けられるのかと驚いたが……。その手は上がったままで振り下ろされることは無く、躊躇するように止まった。
淡く表情を歪ませながら奥歯を噛み締め、しばらく少女の姿を見つめると――……ゆっくりと手を下ろした。代わりに金色の髪に指を通すと頭部の曲線を撫でるようになぞる。
こうしてゆっくりと触れたのは初めてかもしれない。その髪は柔らかく、絡まることもなかった。
「き…きっと嬢ちゃんも徹夜して疲れてたのさ。ずっと働き詰めだったしな。明日になれば目を覚ますよ。まだ体調が悪けりゃ、出発を伸ばしたって良い。あんたには命を助けてもらった恩もあるし、こっちは構わねぇからさ」
励ますように青年の肩を二三度叩く。そのうち静かになった様子に安堵し、店主は彼らが朝まで凍えないように薪を取りに部屋を出ていった。
一方、カールトンはそのままベッドの縁に腰を下ろしていて、立ち上がる気配はない。
暖炉の淡い光がオレンジ色の温かい陰影を照らし出す。そこで白い頬に見つけたのはかすかに残った涙の跡……。そういえば出産の時も自分のことではないのにボロボロと涙をこぼしていた。
いつから泣くことを思い出したのだろうか。
――……そういえば自分も今日、十何年ぶりに自分の涙を見た。
「お前も…何か見たのか……?」
城に居た時も共に馬を走らせていた時も、あれほど話しかけてきた妹は、その問いかけに返答することはなかった。




