【前】蘇る色
「――……」
身体を拭いた布を桶に放り投げシャツに袖を通した。次に湯が使えるのはしばらく先のことだろう。
出発の準備はできた。野盗のおかげで路銀も十分すぎるほど。明日からの長旅に備えてベッドの縁へと腰を下ろす。連日の復旧作業のおかげで疲労のベールが身体を包んでいる。眠りにつくのは早そうだ。
部屋の片隅においてある荷物は、村人達からの御礼の品や老人たちのお節介物資で小さな山になっている。妹は「自分達の食べる分だって大変でしょうに……」と嬉しくも悲しくもあるような言葉を落としていた。
自分も他人も彼らにとって一時の存在だ。それは通り過ぎた瞬間だけ気がつく風のようなもの。すぐに忘れてしまう。村人にとってもあの娘にとっても。
何故そんな存在に何故身を削るようなことをするのだろうか。
(――……。いや、今なら…少しは……)
野盗が襲撃に来た時、これは村の問題だと放っておくつもりだった。しかし宿主の妻に夫を迎えに行ってと頼まれ、結局その通りにしてしまった。理由はわからない。ただ独特の圧は感じた。あれが『母親』というもののせいなのだろうか?どう言った所で女は収まりそうもなく、離れようとしても捕まってしまいそうで。
結局逃げられないのだと本能が感じたのか身体が固まってしまい……。
ダーナーに雇われ城に出入りするようになってからというもの、周りの環境は一変した。
人が多く、中には用もないのに声をかけてくるメイドもいた。その際たるものが赤毛の王子の従者に収まっていた妹だろう。後半はとにかく付きまとわれた。付きまとわれすぎて、仕事に支障が出た程だ。この城は今まで仕事をしてきた中でも群を抜いて他人に馴れ馴れしすぎる。
ただ、ポルトは今後仕事で使えそうなので商売道具を傷つけられる前に連れてきたが……、それが良かったのか悪かったのかは今も判断しかねる。
(本当にあれと出会ってから…調子が狂う)
力で押さえつけても恐怖で黙らせても折れない、鋼のような女。
生意気なだけとは違う物言いは、同じ城に住むような女達…花とフリルで飾り立てられた偉そうな連中と比べても、随分と毛色が異なって見えた。
思い返せばロイターに襲われていた時もそうだった。自分の身に降りかかる火の粉も満足に払えなかったのに、何故かこちらのことになると「謝れ」と敵に喰い付いた。わからない。
――『私、今日を一生忘れないから。寂しくなったら思い出すから……。一緒にいてくれてありがとう、兄様……』
出産に付き合った朝もそうだ。何故自分に礼を言った?その意味とは?こちらに媚びを売るような言動で油断させ、逃げ出そうとしているのか?……いや、逃亡する機会ならいくらでもあった。
今この部屋に居ない彼女だが、“そのうち帰ってくる”と何故か確信に近い気持ちでいる。
(他人が俺の元へ帰ってくるだと……?いつからそんなことを思うようになった)
自分に向けられている感情、意識に心当たりはない。この感覚を例えるなら、初めて訪れた地で最初に嗅いだ風のよう。
すぐに不機嫌そうに目を細める。どうやら妹の浸かっていたぬるま湯がここまで来始めているらしい。
そういえばすでに夕食を終えたというのに、まだあの娘は部屋に帰ってこない。また母親に捕まっているのだろうか?お人好しで頼まれたら断れない損な性格が、余計な仕事を舞い込ませているのだろう。
明日の出立に響いたら迷惑だ。様子を見に立ち上がった時、ふと人の気配を感じて扉に顔を向ける。
……しかしそこには誰もいない。気のせいかと思ったが、明らかにさっきまでの雰囲気とは違う。
空気が勝手に動いているような違和感がある。
「――……誰だ?」
妹ならば姿を隠す必要はない。静かで、しかし弦をピンと張ったような声音は部屋に響き、その気配を探る。
静寂だけは変わらずその場を包んでいる。
暖炉とロウソクの炎の動きに合わせてゆれる影。ふいに黒い芯がジリッと燃え小さな火花が散った。
それは宙へ舞い、小さな小さなホタルの様に丸く輝きだした。
間を開けずジリッ、ジリッと燃える芯。その度に舞い上がる小さな小さな火の粉が、いつの間にかふんわりとした小さな光の珠になっていた。
暗闇の中で増え続けるそれは次第に小さな花畑のようにもなり、徐々に集まり始めた。
「!?」
まさか気体状の毒でも受けた?一瞬幻覚を疑ったが、目の前の光景はあまりにも現実的だ。驚きで見開いた瞳は、得体の知れない光から逸らせない。
カールトンの前でひとつにまとまった光の粒はやがて抱えられそうなほど大きくなり、繭から羽化するようにそれが現れた。
(女……?)
その姿形に思わず一歩身体が下る。心臓が耳の奥で鼓動を鳴らす。
「――っ……!?」
その女は…その姿は……間違いない。遠い日に一度だけ会った…あの館の女主人――……。
子を亡くし、心が壊れてしまった母親。
救いの手は伸ばされず、支えるべき夫は外で若い女を作った。そして邪魔になった妻を殺すために夫は酒場にいたゴロツキを雇ったのだ。若い頃の自分を。
光の女は星屑のような光をドレスのようにまとっていて、美しい黒髪を一つに結い上げていた。その姿は物語に出てくる妖精のようだ。
言葉を無くした自分に向けて、よく似た青い瞳があの日と同じ瞳で優しく微笑む。
しかし彼女は確かにあの日、仲間の刃によって命を絶たれた。生きているわけがない。
(亡霊…か?)
毎日どこかで望まない形で死を迎えている人間がいる。この村でもそうだった。自分だって今まで誰かに疎まれ、恨まれることを生業にしてきた。
いつ誰が、どんな形で目の前に現れたっておかしくはない。
……そう思うと変に気持ちが落ち着いてきた。
来たるべくして来た、その刻なのだと。
「……久しぶりだな」
『大きくなったわね』
女のまわりを両手で包める程のオーブがぴたりとひっついている。それを撫でる女の手、見つめる視線で、それがあの子供部屋の主だった赤ん坊だと気がつく。
「……会えたのか」
よく見れば落ち窪んでいた目も、痩せこけた頬もすっかり健常者のそれになっている。もう木の人形を抱く必要はないようだ。そのことを知った胸がふと安堵する。
「何故ここへ来た。自分の敵討ちか?」
薄紅色の唇で女は嬉しそうに口角を上げて微笑んだ。
『次は……貴方の番』




