【後】私が選んだもの(★)
たとえ『女』としてじゃなくて良い。僕でも良い。犬でも良い。側にいられるのなら何だってしようと思った。でもそれは自分が思っていたよりもずっとずっと難しいことで……。生まれて初めての感情に、その熱に浮かされて…何もわかっていなかった。いや、気づきそうになったから目をそらして見えないふりをしていただけ。逃げていただけだ。
「……――ごめんなさい……。殿下……ごめんなさい……っ」
この手はあまりにも小さくて、こぼれ落ちるのは涙だけでは済まなかった。
どれほどの人に迷惑を掛けただろう。どれだけ彼を裏切り傷つけた?
最後には目をそらされ、この存在を拒絶された。当然だ。大切な人ですら傷つけてしまう自分なんて、誰が想ってくれる?全ては自業自得の結果じゃないか。
――何が『大丈夫』だ。
これから新しい相手に出会う度に思い出すだろう。
新しい季節を迎える度に空を仰ぎ、幸福を感じた瞬間、瞼の裏に失った時間を描くだろう。
プツン、と何かが小さく途切れた。
嗚咽だけだった泣き声は叫びになり、虚空の空に消えていく。
振りまくのは無駄なものばかりなのに、止めることは出来ない。
(どうすれば良いの)
こんなにも息苦しい想いを…これからもずっとずっと引きずっていかねばならないのか。
終わらない贖罪に身も心も軋ませながら…これからも…ずっとずっと……このまま……。
どうすればいい。いや、どうしようもない。
種は知らない内に小さな双葉を芽吹かせていた。
目覚めた想いは、今や心の奥深くまで根を張っていて――……。
熱い息を飲み込んで握りしめた拳をゆっくりと胸に置いた。
氷のような空気をゆっくりと肺いっぱいに吸い込む。
(――石になれ)
痛みに耐えながらも暴れる鼓動を押さえ込むように力を入れた。
(――石になれ。石になれ……。石になれ……)
温かい記憶は胸を刺す。面影は孤独を連れてくる。全てを受け入れるには、この身体と心は幼すぎた。
いつか成長を遂げる日まで、大人になる日まで……、この感覚、感情全てを無機質な石にしてしまえばいい。
それは幼き日、兄妹達に教えられた方法だった。そうして今まで生きてこられた。
今一度、ここで。
何度も何度も呟いた。祈りを捧げるように、呪いをかけるように。
(石になれ。石になれ。石になれ。石になれ……)
それは雨に濡れても、風に吹かれても、蹴られても、火をくべられても……何も感じないただの塊。
(石になれ、石になれ、石になれ、石になれ……)
幾度と無く繰り返せば、その度にインクで塗りつぶすかのように息苦しさが消えていく。
痛いと思う感覚も愛おしいと思う感覚も、自分を自分と思う心ごと闇色に染めていく。
(石になれ。石になれ。石になれ。石になれ。石に、なれ……)
石は寒さを感じない。
石は痛みを感じない。
石は何も思わない。
ただそこに在るだけの存在。
石になれ。石に、なれ。
石に、石に、石に、石、に。石、に。
石、に、石、に、石、に、石、に、石、に………、石……いし……い……
しばらくすると頭の奥がぼんやりとして、全てが遠いおとぎ話のように思えてきた。
めくられた本のページを見ていただけだったのかもしれない。
色を失っていく記憶を惜しいとすら思わない。
嗚呼、なんて懐かしい世界の拒絶。
底なしで堕ちる虚無の海。形の無い混沌の大地。静寂の漆黒。
曖昧になる意識の中で、いつか夢で見た廃墟がぼんやりと輪郭を現し、出会った幼子が赤い口を広げて笑ったような気がした。
水の流れに身を任せるように、飲み込まれるように、瞼を下ろしていく。
光を失っていく瞳から最後の滴が落ちた。
温かいそれは凍る風に触れて瞬く間に冷たくなる。
頬からすべり落ち、白い地面に跳ねた瞬間――……、小さな光が宿った。
宙に浮かんだままのそれは海に眠る真珠のように優しい銀色を放ちながら、ゆっくりと舞い上がり増えていく。
「――……」
虚ろになった瞳はどこでもない空だけを見つめ、追いかけることもしなかった。その前で、さざ波が砂の形を変えるように、風が枝を揺らぐように、光は増え、集まり、少女よりも大きく人の形に成る。
旋風が起きた。
裾が舞い上がったのは肢体の緩やかなラインをかたどる真っ白なローブ。銀の光で出来た長い髪が流星のように真っ直ぐ流れた。淡い陰影を浮かばせるそれは、もう『光』ではなく一人の女――……。
幻獣を模したような仮面で目元が覆われていたが、その姿を空洞の瞳が映すことはない。
女は少女に向かい、形の良い赤い唇で静かに空気を揺らす。
『――己が選んだ道ならば、滅びもまた答えとなるだろう。しかし、もう誰も傷つかなくて良いと……そう願ったのはお前自身ではなかったか?』
「――……」
その声が少女の記憶のページをめくる。それは牢の前、尋問に連れて行かれる時のこと。全ての希望を絶たれたような石造りの仄暗い部屋の中で膝を抱えた。
辛いことが多すぎた。もう誰も傷つかなくて良い。巡る季節を、心許せる者と穏やかに過ごせればそれで十分だ、と。
今となっては、それは本当に自分だったのかどうかすらわからない。
『……一人の手で変えられるものなど僅かなものだ。その弱さを恐れるな。頑なになるな。自分と皆を信じろ。そうすれば、二度と心を凍らせる必要など無いとわかる』
額にかかった前髪をかき分けられ、唇が優しく触れた。
『本当に…阿呆な娘だな』
意地悪な言葉。でも優しい声音。どこかで………。
淡く戻った瞳の光。視線が銀に輝く仮面の奥…その瞳を捕らえた。見覚えはあったが……頭がぼんやりとして上手く働かない。
透き通るような白い肌、明けの空にも深い海にも似た深い蒼の瞳。やんちゃな子供のように口角が上がった。
それはまるであの人と同じ笑い方で――……。
金色の瞳の奥にある瞳孔がきゅうっと小さくなる。
深い深い穴に落ちるように意識が遠くなり、少女は雪原の中に音もなく倒れた。




