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ワンアワー・シーフ・キャット

 記念すべき初作品です。一度、一人称Verのデータがふっとびましたが、それでよかったのかなと今では思っています。

2011年夏執筆

「ねえ優子。校舎裏の雑木林って、切り倒して何か建てたりしないのかな?」

「ああ、フェンス超えたとこにある雑木林?」

「うん。だって何か暗いし、人気が無いから怖いじゃん。廊下とか歩いているときに見えたりすると嫌なんだ」

 そこで区切ると、花本鈴歌はごくりとコップの水を飲んで旨そうに唸った。そんな鈴歌を見て目の前に座る藤園優子は笑いながらお手製の弁当の唐揚げを口に運ぶ。二人はざわつく学生食堂で束の間のランチタイムをとっていた。優子は小柄なのに良く食べる。それなのに全く太る気配が無い。それが鈴歌には不思議でならなかった。

「あそこね、実は意外と良い場所なんだよ。あまり知られてないけど、あの中に綺麗な池があるの」

「へえー、そんなとこが。なんでそんなこと知ってるの?」

「私もあの林にちょっと興味があったから、夏休み前に入ったことあるんだ」

「ほうほう」

 鈴歌は相槌を打ち、日替わり定食の熱々の煮物を一口。若者好みな濃いめの味付けはご飯が進む。

「そしたら案外悪い所じゃなかったって話。静かだし、暗いけど落ち着くし。今でもたまに行くよ」

「一人で?」

「うん。自分の部屋が無いから一人でボーっとしたい時とかに。カフェって柄でもないし、公園は他の人来るし」

「ああ、アパートだっけ」

「引っ越しの話もあるけど――」

「えええっ引っ越し!」

 がたりと鈴歌は立ち上がった。引っ越しなんて初耳だ。どうして言わなかった。くそ、こんなことならアカベコなんぞ興味本位で買うべきじゃなかった。餞別に何も買えない。あれか、アカベコを優子に贈るか? いやそんな心配ではなく、まずそんな大事な話を何故今まで……

「そうじゃないよ。まだ先の話だし転校もしないから」

 可笑しそうに優子は手をひらひらさせる。……おお、とんだ早とちりだったみたいだ。鈴歌はこほんと咳払いをして、椅子に座りなおす。

「なんだ安心した。それはそうと、一人でそういうとこにふらふら行くのは止めときなって。変質者に遭ってからじゃ遅いんだから」

「変質者なんてあの場所にはいないよ。それに変質者は私なんか興味無いでしょ」

「いやそんなことないね。私が変質者なら優子をマークする」

「うわぁ……」

「ドン引き止めて!」

 ひとしきり笑いあった後、鈴歌なりの真剣な眼差しをこしらえ、優子を諭す。

「だっていつも部活で帰りが遅いでしょ。冗談じゃなくてマジで危ないから。せめて誰かと一緒に行きなよ。例えば私とか、部活の友達とか……綾野くんとか」

 彼の名が出た瞬間、優子がきんぴらでむせた。はあ、と大げさにため息をついて鈴歌は前髪を抑える。食事中に髪を触るなど御法度だが、生憎そこまでお上品な娘ではないと自覚していた。

「ほんっとに好きだよね綾野くんのことさ」

「いやいやそんなそんな」

「だって、優子は綾野くんのことは何でも覚えているし、彼のことを話している時が一番イキイキしてる」

「えー」

 優子は箸を持っていない方の手で、真っ赤な顔を隠す。それを見て「優子、顔赤―い」と茶化した。少しウザかったか。

「体育祭の時もずっと見てたし。リレーの時さ」

「あれはマネージャーとして、手を抜かないで参加してるか見ていただけで……」

「へーそう……告らないの?」

「ええ、なんで!」

「だって中学の時から好きなんでしょ。私としちゃあ、どうして告らないかが分かんない。マネージャーも綾野くん追っかけて始めたんでしょ? 部活の後とかに告りゃあ一発でしょーが」

「だって恥ずかしいし。今でもう幸せだし」

「なんじゃそら」

「だってえ」

 優子は俯いたまま、再び箸を動かし始めた。ちまちまと食べる様は小動物のように可愛らしい。

「もー。あんたの話を聞く身にもなってよ」

「う……」

「のろけは聞き飽きたわ」

「のっ、のろけてない」優子が必死に首を振った。

「いや、のろけだね」

「付き合ってないと、のろけっていわないらしいよ」

「え、そうなの? ……ってそんなのどうでもいいの。優子との世間話の三割は綾野くんのこと、ってのが重要なの」

「そんなことないよ!」

「事実でございます。話したこともないのに綾野くんの天然デリカシー不足の件から好きなガムまで知ってる。そんなのは私ぐらいだよ」

 一呼吸ついて鈴歌は続けた。

「何とかした方が良いからね。ただでさえ彼人気あるのに。今に誰かにとられちゃうから」

「……考えてみる」

「そうしなさい」

 鈴歌はうんうんとゆっくり二度頷いて見せた。そしてふう、と息をつくと、水のお代わり貰ってくるね、と優子に告げ笑顔で席を立った。しかし、優子に背を向けて歩き始めた途端笑顔のキープが出来なくなる。視界にグレーの影がかかった。

――酷いなあ。あんな簡単にすらすらと口にしちゃって。優子の幸せは願うよ。でも、辛い。私だってさ……

冷水器の前で目を閉じると、リレーでトップを走る彼の姿が浮かんだ。その姿に人知れず心が弾んだ自分にまた嫌気がさした。






 校舎裏の雑木林にはフェンスを乗り越えて小道を渡ることで簡単に行くことができる。かといって、実際に訪れる生徒は数少ない。別に行って得をするわけでもないし、知的好奇心をそそられる噂話があるわけでもなかったからだ。だからここは灯台下暗しな良スポット。知る人ぞ知る安らぎスポットだ。妖しい雰囲気に負けずに勇気を出して枯葉を踏みしめ奥に入っていった者は、訪れる者に安らぎを与える美しい池に迎えられるのだった。

 池の淵で一人の少女が左腕に着けた蛍光発光する時計を確認していた。少女は顔を上げては辺りをきょろきょろ見回し、また腕時計を見つめることを繰り返す。その度に彼女の一つに束ねた髪が揺れる。

 不意に木枯らしが吹いてざわざわと木々を騒がせ、池の水面が波立った。地面に溜まった落ち葉が風に乗り、スカートを押さえ身をすくめた少女の足元を通っていった。少女の制服はブレザーで長袖の冬服だが、オシャレとしてなのか、はたまた周りに合わせただけか、スカートが腿の中程まで短かった。明らかに寒さを防げるような長さでないが、その代わりに少女は学校指定の黒いタイツを身に着けていた。

「あと一分……」

 少女――花本鈴歌は再度腕時計を確認し呟いた。時計は午後四時五十九分を回っていた。







 がさがさという足音が鈴歌の背後から聞こえてきた。振り向くと、一人の男子生徒が小走りで駆けてきているのが見えた。心臓が跳ね上がったように鈴歌はピクリと身を縮め、きた、と小さく呟いた。鈴歌の近くまで来るとその少年は徐々に速度を落とし、向かい合う位置で立ち止まって、ふう、と一息ついた。

陸上部期待の新人、綾野涼哉だ。

綾野はすらっとして、百八十センチ程ある長身の持ち主だった。俳優のように眉目秀麗。鈴歌とは同学年であるのだが、若干大人びて見える。ちなみに第一学年だ。

「間に合って……ないね。ごめん遅れた」

 時間が、という意味だろう。綾野は尋ねた。

「え……あ、いやセーフ、セーフです。大丈夫です」

 どもりながらも、鈴歌は顔を真っ赤にして両手をぶんぶん振って答えた。さっき確認した時計の針は五時四分三十二秒を指していた。

「一応確認するけど花本鈴歌さん、だよね」

「はい、そうです。綾野くん来てくれてあの、ありがとうございます」

 鈴歌は慌ただしく感謝を告げた。

「……でもなんでここに呼び出しを?」

「ええと、ここ静かだし、暗いけど落ちつけるし」

 人が来ないから邪魔されないし、と口には出さずにこっそり付け足す。

「ふーん、確かに落ち着く……かな。そうだね、ここ良い所――」

 ひゅう! と木枯らしが吹き、二人は同時に身をすくめた。

「……まあ、寒いけど」

「はは……すみませんこんな場所に」

「いや、大丈夫だから」

 つられたように綾野も笑った。鈴歌は緊張で跳ね続けていた心が落ち着くのが分かった。こうして会話が出来るだけで幸せだ。なんだか寒さも気にならなくなってきた。病は気からではないが、心が体を左右するというのはとても良く理解できた。

「それで、何の用事? 俺待たせている人いるからさ」

「あ、はい」

 鈴歌は改めて、手早く身なりを整えた。スカートを軽く叩き、腕に付いた見えない塵を落とし、髪を流すように払って、びしっと手を前で重ねて気を付けの姿勢をとった。ふと優子のことが頭によぎったが忘れることにした。恋は、早い者勝ちが世の常だ。

「綾野くん、あの……」

「うん?」

「えあ……」

「え?」

「…………」

「花本さん?」

 がくがくと口だけ動かし続ける鈴歌。こんな状況にすっかり混乱しきっていた。ぐるぐるしている頭の中で、数パーセント残った冷静な部分が、落ち着け私、頑張れ私、などと自分を鼓舞する。しかしそんなエールも真っ白に塗り潰されていってしまう。でも、ここで退くわけにはいかなかった。

「……た」

 自分の思いを、言葉をひねり出す。しっかりと伝わるように目を見て。自分の気持ちに嘘をつかないように。

「体育祭のときに、ひ、一目惚れしました。好きです……綾野くんのことが好きです。私と、お、お付き合いして、ください!」

 がばりと頭を下げる。言えた。言えた言えた! 練習とは違ったけれど、月並みな言葉だけど! そんな幾分の後悔もあったが、それも気にならない束の間の高揚感が鈴歌を包んだ。

「……ありがとう花本さん」

 数秒の間があり、ようやく声が聞こえた。

「でもごめん」

「え……」

 綾野を見上げた。そこには申し訳なさそうに、でもどこか幸せそうに首筋をかく綾野の姿があった。

「俺彼女いるんだ」

一瞬の思考の空白が生まれ、ついにその意味を悟った瞬間。高いところから落下するような感覚に襲われた。恐ろしい底知れぬ虚無感。前後不覚に陥る心。

「嬉しいけど、気持ちには答えられない」

 これが絶望とかいうやつなのか。

「彼女……いたんだ」

 勢いよく頭を下げたせいで乱れた前髪をいじり、パニックになりそうな気持ちを抑えて会話を振った。

「うん。一週間前に告白されてオーケーした」

「……そうだったの」

「最初は驚いたけどね。前から知っていたけど、あんな良い奴だなんて知らなかった。正直恋愛対象として見ていなかったし――」

 なんの悪意も持たずに軽く話し続ける綾野を見て、段々腹が立ってきた。若干デリカシーに欠けている部分があることは、優子からも聞いたことがあった。でもまさかこの場面で現場に出くわすなんて。綾野くんはちょっと天然入っているから……でも、それ以上に優しいんだよー、と付け加えられた優子情報は、幾らか補正があったに違いない。だって、こんなにもこっちはズッタズタなのに、そうやって話すなんて、いくらなんでも酷すぎる。

「綾野くんが幸せなら何よりです」

「ん? ありがとう……って、花本さん?」

 鈴歌は顔を伏せ、ゆっくり枯葉を踏みしめ、自分と池で挟み込むように綾野と向かい合った。

「もしかして泣いて……ああ俺の馬鹿! またやっちゃったんだ。花本さんごめんなさい! ほんとにすみません! 俺酷い態度とっちゃって、花本さんの気持ちも考えないで――」

「最っ低!」

 気が付いたら綾野のことを突き飛ばしていた。綾野がどれほど陸上で鍛えていても、本気になった人間の不意打ちに耐えられるはずもなく。

「うわあ!」

 綾野は盛大な水しぶきを上げ、池の中に飛び込んだ。








 鈴歌が冷静になった時にはもう手遅れだった。

「……私はなんてことを」

 すぐさま池の淵にしゃがみ込んで、手を付き、綾野の影を探した。

「綾野くん! 綾野くん!」

 鈴歌がいくらその目で覗き込んでも、わずかに波立つ水面の向こうは、ただただ暗緑色が広がっているだけだった。深さは全く分からない。次第に水面は静まり返り、水泡一つ浮かんでこなくなった。

震える右手で濁った水を掬ってみる。針が突き刺さっているように痛くて、冷たかった。さらさらと指の隙間から零れ落ち、器から消えていくそれを、鈴歌は呆然と眺めることしかできなかった。

 助けなくちゃ。ハッと気づいた鈴歌は立ち上がってブレザーを脱ぎ、それを放り投げた。勇気を出し、靴を履いたままに池の中へ足を入れようとした。

 そのときだった。

 突然に池が輝き始めた。水面全体が光を放ち始めたのだ。

「な……なに?」

 鈴歌は思わず後ずさった。余りにも非現実的な光景に、頬をつねってみる。鈍い痛みが残った。

 日光と蛍光グリーンが混ざったような、不思議な温かさを持った光。それは周囲の木々を色づけ、その場をすっかり幻想的な世界にしてしまった。一体何が起きているんだ。鈴歌は怖くもあったが、このファンタジーに魅せられ、目を離せなかった。

 池の中央、鈴歌からおよそ三メートル程の所から、何十もの波紋が広がり始めた。そして、波紋の中心から何かが浮かび上がってきた。目を閉じた人の頭だった。しかしそれは綾野ではなく、美しい金髪の、陶磁器のような美しい女性だった。

 その女性は奈落から上がってくる役者のように、ゆっくり全身の姿を現した。純白のドレスに身を包み、銀色の髪飾りを付けている。腰上辺りまで伸びた金色は、緩やかにウェーブし輝きを放っていた。そして、鈴歌が見たことのないような、完璧なスタイルの持ち主だった。

 池が放つ光が少し弱まった。

 呆気にとられ知らぬ間に見惚れていると、その女性は伏せていた顔を上げ、透き通ったヒスイの瞳で鈴歌を見た。

「私は泉の精です」

 心に沁みる透明な声で、その女性は名乗った。

 泉の精? 鈴歌は聞き返した。

「はい、はるばる北欧スウェーデンの田舎町より、この日本にやってきた泉の精なのです。木こりと斧の童話に出てくるの、あれ私のおばあちゃんなのです」

「はあ……」

「この時期の日本担当が私なのです」

「そうなんですか……」

 当たり障りのない返答しか出来ない鈴歌。予想以上の親しみやすさに若干面くらっていた。

「そしたらなんなのですかこの立地条件は!」

 泉の精がいきなり声を荒らげた。びくりと鈴歌の肩が跳ねた。

「日本語も勉強して、意気揚々と日本に来たのですよ! 何が落ちてくるのかな。綺麗な民芸品がいいな。アカベコもいいな。伊万里焼を見てみたいな。そばを食べてみたいな。そんな期待に胸膨らませていたのに、何も落ちてきやしない! 更にはだーれも訪ねてこない。たまに誰かほとりに来たかと思うと、私に気づかずにボーっとして引き上げていく。ええそうですよ、寂しかったのですよ。心の平静が保てませんでした。お陰さまで一人指相撲は、二万六百三十二勝で右手が勝ち越しています。あ、独り言は一切言っていませんよ。言ったら負けだと思っていますから、ええ」

 一気にまくしたてた泉の精は一呼吸置き、深く息を吐き出した。なんだこの人。いや、人で括っていいのか? 鈴歌は上手くこの状況が処理できていなかった。

「あーやっぱり話すのは楽しいですね。さて、仕事しますか。あなた、落とし物しましたね?」

「落とし物?」

 鈴歌は何事かと思ったが、すぐに理解した。

「綾野くん!」

 鈴歌が突き落としてしまった綾野が、いわゆる『鈴歌の落とし物』とされてしまったらしい。

「綾野くんは無事なんですか?」

「生きているか、という意味でしょうか? ええ、生きていますよ」

 鈴歌はその言葉に安堵し、膝から崩れ落ちた。

「良かった……」

「大丈夫ですか?」

 泉の精が心配そうに訊く。

 はい、とだけ答え、鈴歌は再度立ち上がった。

「ではお尋ねします」

 さっきまでとは違う、初めに名乗った時のような落ち着いた声に、鈴歌は緊張する。

 泉の精は右手で、彼女の右隣を指し示した。するとそこに、泉の精と同サイズ程ある光の塊が現れた。光から目を守るため、鈴歌が手を前にかざして目を細めていると、徐々に光は弱くなり、中から影が見えてきた。光が収まり、そこにいたのは、どこか綾野に似た小男だった。

「貴方が(突き)落としたのは、この柔くて丸みのある、崩れた綾野涼哉ですか?」

 真面目に問いかける泉の精。それに反し、鈴歌は思いっきり吹き出してしまった。突き落としたとか言われた気もするがどうでもいい。

「これが綾野くん! 冗談にも程がありますよ!」

 鈴歌は綾野らしき男を指さす。男は何の反応もしなかった。

「綾野くんはこんな不細工じゃないです。背も高くて、足も長いです。筋肉質ですらっとしています。いやいやいや、これはあまりにも…………だって、まるでがんもみたいじゃないですか」

 制服着たがんもどき。脳裏によぎった言葉に再度吹き出してしまう。緊張が完全に和らいだ。そして、彼女の祖母だという泉の精と木こりの昔話を思い出した。

 森で木を切っていた木こりは誤って斧を泉に落としてしまった。中から現れた泉の精は〝金の斧〟と〝銀の斧〟という二つのお宝を持ってくるが、木こりは欲に屈せず正直に「鉄の斧を落とした」と答えた。その心に感銘を受けた泉の精は木こりが落とした斧を返し、さらに金と銀の二つの斧を授けた。そんな話。

 きっとさっきの問いもそれだろう。落し物をした人間が正直に答えるかのテスト。――でも悩む必要もない。これは欲を試すのでなくネタだ。完全にネタだ。

「私が落としたのはこの綾野くんではありません」

 きっぱりと言い切る。早く返して貰おう。

「そうですか……」

 泉の精が持ち上げていた右手を下ろすと、等身大スケール綾野涼哉タイプがんもどきは光の泡となり消えていった。そうやって魔法みたいに消えるんだ、なんて考えられるようになってきていた。案外適応力はあるみたいだ。衣装ダンスの向こうに行ってもやっていけるんじゃないか、なんて冷静に分析。ちょっといい気分だ。

「それでは」

先程と同じように今度は左を示す泉の精。今度は泉の精より一回り大きい光の塊が出現、中からは正真正銘本物の綾野が出てきた。オッケイ、と心の中で呟く。よしよし。ここでイエスと答えれば――

「貴方が落としたのはこの〝花本鈴歌の彼氏である綾野涼哉〟ですか?」

 …………なんですって? 完全に虚を突かれ、鈴歌の時が停止した。

「うん? どうかしましたか?」

 なんだと? 彼氏だって? もし、もしここでそうだと言ったらどうなるんだ? 泉の精とやらはその通りの綾野を返してくれて、それでそのまま……

 いや、だからなんだというのか。鈴歌は大きく頭を振る。ここで肯定したってそれは嘘であって、嘘をついたら二度と彼は帰って来ないだろうが。

「あ、言い忘れていました。私はあくまでも相手の意見を尊重するスタンスなので、貴方の答えを真実としますよ」

 泉の精は鈴歌に大きな笑顔をぶつけた。その笑顔はまるで天使のようであったが、今の鈴歌には悪魔のようにも見えた。鈴歌は思わず息を呑んだ。

 鈴歌は綾野に振られたからといって、デリカシーの無い態度を取られたからといって、まだ彼のことが好きだった。勢いで池に突き落としてしまったが、ただ頭に血が上りすぎただけであって、嫌いになった訳ではない。けど……と鈴歌は悩む。泉の精の話を鵜呑みにすれば、彼のことを彼氏にすることができる。付き合うことができる。でもそうしたら彼の本当の気持ちはどうなるのか。彼と付き合っている娘はどうなるのか。――都合良く書き換えられるの? それでも全部むちゃくちゃにしてしまう。そんなことは……

 ふと、綾野と鈴歌の目が合った。ほんの少しだけ、綾野が鈴歌に向け微笑んだような気がした。幻想的に光る池の上に佇む綾野は一層綺麗で、より鈴歌の心を虜にした。そう、虜になってしまった。

「さあ答えを」

「――そ……す」

「んん? 聞こえませんでした。もう一度お願いします」

「――そうです、その通りです。私が落としたのは、その、綾野くんです。私の彼氏の、綾野くんです」

 言ってしまった。強い後悔のようなものが鈴歌を襲った。しかし、訂正することは無かった。

「ふむふむ、貴方は正直ですね。立派な正直者です」

「…………」

 鈴歌は泉の精を直視できない。そんな鈴歌を余所に、泉の精は明るい声で言った。

「では正直に答えた貴方には、この〝花本鈴歌の彼氏である綾野涼哉〟を返してあげましょう」

 泉の精がすうっと左手を前に滑らせると、それに押されたかのように、綾野が鈴歌の元へ直立のまま近づいていく。そして岸まで来ると、立ちすくんでいた鈴歌のことを強く抱え込んだ。綾野の使っている何かの爽やかな香りと、使い慣らされ始めた制服の落ち着く匂いが鈴歌を満たした。

「きゃ、ああ、あ、綾野くん?」

 鈴歌の顔が真っ赤に染まった。離れて貰えるように腕に力を込めるが、全く離れない。もう一度体を揺するようにして全身に力を込める。離れない。ちょ、力強い、少し苦しい。鈴歌はあたふたと動揺するが、一部の冷静な自分が、今の状況に少し酔っていることに気付いた。

 綾野の肩越しに再び池の輝きが強まったのが分かった。

「ではお仕事も済みましたし、私は帰りますね。まあ一応担当期間はまだ残っていますし、ここにいることにはなっていますけど。ではさようなら。もう落し物はしないでくださいね。でもまた来てくださいね」

 そう言い残した泉の精は、視界が遮られている鈴歌に対し、手を振りながらゆっくりと光の中に沈んでいった。そして姿が見えなくなると池は輝きを失い、辺りに宵闇が帰ってきた。今この場にいるのは、また鈴歌と綾野の二人だけになった。ただ、二人の関係は大きく、大きく異なっているが。

「綾野くん、苦しい……」

「あ、ごめん」

 そう漏らした鈴歌を綾野はすぐに解放した。圧迫から解かれた鈴歌はよたよたと数歩後ずさってしまう。

「び、びっくりした……」

「足がもつれたんだ」

 絶対嘘だ。そう思ったが、不思議と嫌ではなかった。

 綾野はガシガシと頭をかいた。人懐っこそうな笑みを浮かべ、幸せそうに鈴歌を見ている。それは好きな人と同じ時間を過ごしている顔だ。そう、好きな人。彼女。今笑みを向けられているのは鈴歌。鈴歌が綾野の彼女。

 鈴歌はまだ半信半疑ではあったが、綾野の笑顔と、無作法な抱擁を考えれば、それは明らかだった。

 抱擁から解放されはしたが、何だか異常に寒い。綾野が温かかったからなのだろうか? そう考えると良く分からないがとても恥ずかしかった。

「いつの間にブレザー脱いだの?」

 指摘されて気づいた。先程池に入ろうとした時のまま脱ぎっ放しだった。鈴歌はさっと拾い上げ、枯葉を払って袖を通した。

「あー、太陽が脱ぐよう圧力をかけてきたの」

「季節的には北風じゃ……じゃなくて誤魔化すなって。まあ風邪引かなきゃいいけど。てか、さっき苗字呼びしたでしょ」

 不満そうに唇を尖らせる綾野。

「いきなり他人行儀とかちょっと嫌なんだけど。笑えないよ」

「え、でも」

「でもじゃないって。こちとら死活問題」

 そんな急に名前呼びなんて。鈴歌は気後れする。男子と話すのに物怖じする性格ではない。しかし鈴歌の巡り会わせが無かったのか、住んでいる場所の環境のせいか、鈴歌には今まで従兄弟も名前で呼び合う男友達もいなかった。

「……どうしたの?」

「は……うん。えっと……」

 確か彼の名は涼哉。つまりどう呼ぶべきかというと――

「りょ、涼哉くん」

「おし、オッケー」

 赤い顔を更に赤くして彼氏の名を呼んだ鈴歌は、ワシワシと頭を撫でられた。とても温かい手。いきなり抱きついてきたことを踏まえても、彼は案外ボディタッチが好きなのかもしれない。

 なんだか小慣れてるなあ。そう感じた鈴歌だったが、彼のスペックから考えても何度か彼女ができたことがあるのだろう。それでどうコミュニケーションをとれば良いのか分かっているのだろう。と結論付けた。どうでも良い奴にやられるとムカッとするが、好きな人にやられるとこそばゆくて堪らない。これが計算ならとんでもない男だ。

「よし、そろそろ帰ろうか。ここ良い所なんだけど、この時期寒いのがね」

 そう言った綾野はするりと鈴歌の手を取り、繋いだまま自身のブレザーのポケットに入れた。自然と行われたその動作にまたどきりとしてしまう。彼の温もりがとても心地良かった。

「いこ、鈴歌」

 胸が一杯になった。綾野くん……いや涼哉くんが名前で呼んでくれた。

「うん、涼哉くん」

 鈴歌は笑って答えた。今度はどもらずに呼ぶことができた。鈴歌と綾野は校舎に置いてきた荷物を取りに戻るため並んで歩きだした。寄り添うその後ろ姿は、どこからどう見ても幸せそうなカップルだった。










 フェンスを乗り越え学校に戻り、一旦それぞれが教室に帰って自分の荷物を持って合流した。綾野はエナメルのスポーツバッグを、鈴歌は学校指定のスクールバッグを肩にかけて昇降口から出てきた。今何時? という綾野の問いに鈴歌は腕時計を確認した。丁度五時四十分だと綾野に教えると、もうそんな時間か……と綾野は呟いた。今日は部活が休みなのだという。

 まだそんなしか経っていないのか。鈴歌は内心驚いた。池のほとりで待ち合わせたのが五時だから、まだ一時間経っていない。色々なことがありすぎた。告白して、初めて人を池に突き飛ばし、ファンタジーに遭遇して、彼氏が出来た。最高に幸せな気分だ。諸々の不安要素なんてどこかに飛んで行ってしまっていた。

「涼哉くんって、案外駄菓子好きなんだねー。あ、じゃあさ、至高のふまい棒といったら?」

「めんたい味っ」

「流石! でも私はチョコも外せないな」

「おいおい、あれは邪道だって」

「そんな!」

 けらけらと下らない世間話に花を咲かせながら、サッカー部と野球部が活動する校庭を迂回して校門を目指す。鈴歌はどちらかと言うと歩くのが遅い方だと自負していたが、綾野は鈴歌に合わせて歩いた。会話の隙間をついて、綾野が思い出したように尋ねた。

「鈴歌、日曜の遠征って何時集合だっけ?」

 遠征?

「え、私知らないけど」

 鈴歌は首をかしげた。陸上部の予定なんて知るはずがない。だって帰宅部だし。

「あれ、なんで? スケジュール管理って三年生が引退してから鈴歌と大谷先輩がしてなかったっけ?」

「してないよ。というより、大谷先輩って?」

「二年の大谷先輩に決まってるじゃん」

 鈴歌はますます分からなくなった。全く話が見えない。しかし、このまま正直にそう話してしまえば何かがおかしくなる気がした。

「――あ、大谷先輩ね! うんうん、ど忘れしてた。ごめん、集合時間が何時だったか忘れちゃった。ノートに纏めてあるから、家に帰って確認するね」鈴歌は嘘をついた。

「ど忘れ? でも、鈴歌がスケジュールを忘れるなんて珍しいな。記憶力は良いんじゃなかったっけ。じゃあ分かったらメールか電話して」

「了解」

 そう言ってから鈴歌は綾野のアドレスを知らないことに気付いた。鞄から携帯を取り出して開くと、アドレス帳を確認。うん、女友達ばっかりだ。

「涼哉くん、アドレス教えて」

「ええ、何で登録されてないの? 鈴歌操作ミスか何かで消しちゃったの?」

「まさか! そんなことするはずないじゃない」

 鈴歌は携帯から顔を上げて綾野を見た。好きな人のアドレスなんて持っていたら消すはずがない。後生取っておく。

「そうか……じゃあどうして」

 綾野は怪訝そうな顔で自分の携帯を操作し始めた。

「だって昨日だって電話したし……あれ、鈴歌の履歴がない」

 消してないはずだけど、と呟いて綾野は操作を続ける。面識自体昨日まで無かった。電話なんてしているはずがないというのに。

「アドレスも無い! どうして……」

 当然あるはずがない。鈴歌と綾野は一度もアドレスの交換をしたことがない。先ほどからの綾野の不思議な言動の意味が分からなかった。しかし、段々と不安になっていく自分には気づいていた。何か、何か抜けているような。

「あれ、メールも……てか、何で俺あいつとこんなメールを――」

「涼哉くん!」

 正面からの呼びかけに綾野の言葉は途切れた。鈴歌は声の聞こえたほうを見た。聞き覚えのある声。というより、いつも聞いていた声。

 声の主は校門からこちらに走ってきた。おとなしそうな顔。低い身長。大切な友人。

 優子だった。

「藤園?」

 綾野が眉をひそめたのが分かった。藤園は優子の名字だ。

「涼哉くん遅いよ……用事って何だったの? あれ、鈴歌も一緒?」

 二人の前まできた優子は綾野と鈴歌の二人を見比べた。

「遅い? 藤園は俺を待っていたってことなのか?」

「当たり前だよ。……涼哉くん、その、藤園って呼び方は……?」

「何かおかしいか?」

「え……うん」

「どこが」

「だって……涼哉くん」

「何だよ」

 鈴歌は何も言えずに成り行きを見守るしかできなかった。段々と不穏な空気に包まれていく二人。鈴歌はもうこれがどういうことなのか、何となくだが頭では分かっていた。でも、それを認めるのが怖くて動けなかった。

『俺待たせている人いるからさ』

「それに大体、何で俺のことを下の名前で呼んでるの?」

「どうして駄目なの?」

「構いはしないけどあまり良い気分しない」

「そう呼べって言ったのは涼哉くんじゃない!」

「知らねえよ」

 不快そうな綾野の声が大きくなる。穏やかなはずの目の間には皺が寄り、先程まで笑顔だった頬が引き攣っている。綾野は優子を完全に敵視していた。優子の目に涙が浮かぶ。

「何でいきなりそう冷たくするの……? 昨日まであんなに優しかったのに」

「あ? 昨日? そうだ、お前のメールばっかり大量にあったんだけど、お前俺の携帯に何かしたか?」

「私と涼哉くんで昨日メールしたもの」

『何で俺あいつとこんなメールを――』

――ああ、私が馬鹿で、最低の人間だったんだ。

「意味が分からない」

「私だって意味分かんないよ……」

「もういいや、帰ろう」

「……うん」

「お前に言ってない。鈴歌に言ったんだ」

「どういうこと? 私は?」

「二人で帰るつもりだったから」

「――私達、付き合ってるよね?」

『俺、彼女いるんだ』

――こうなることくらい分かっていたじゃないか。

「お前は何を言ってんの?俺の彼女は鈴歌だ。お前じゃない」

 綾野は鈴歌の手を握った。その温かさは鈴歌に与えられるものではないというのに。鈴歌の目の前が真っ白になった。今すぐに振り払わなくてはならないのに、すぐさま行動に移すことが出来なかった。

「何で…………」

 優子は踵を返すと、校門を抜けて走り去ってしまった。

 待って。タイムラグの後に頭が回りだした鈴歌は即座に後を追おうとする。しかし、綾野はそんな鈴歌の手を離さなかった。

「離して。優子の所に行かなきゃ」

 綾野はゆっくり首を振った。

「追わない方が良い。藤園も頭を冷やす時間がいるだろ」

物憂げにため息もついた。

「あいついきなりどうしたんだろ。確かあんな奴じゃなかったと思うけど……鈴歌は藤園と仲良かったよね。何か気付いた?」

「違うの」

「違うって何が? てか、なんで鈴歌が泣いてるのさ」

 鈴歌の目には涙が浮かんでいた。今すぐ泣き叫びたかった。悲しみと後悔を洗い流したかった。しかし、ただ自己満足で吹っ切ることは許されない。全て元に戻すまで、罪を清算するまでそうすることは、できない。

「私が全部悪いの。ごめんなさい。私は貴方の彼女なんかじゃないの」

「は?」

 ごめんなさい。もう一度その言葉を口にし、ほんの少しだけ力が緩んだ綾野の手を振りほどき、綾野と歩いてきた道を逆向きに駆けだした。

「鈴歌!」

 綾野が鈴歌を呼ぶ声がしたが、立ち止まり振り返ることはしなかった。どういうことだよ、という声も聞こえたが、後を追ってくる足音は聞こえてこなかった。

「早く、優子の所に……」

 優子のいる所……きっとあの場所だ。









「優子!」

 直感は当たっていた。優子はあの林の中、池のほとりに座っていた。

「鈴歌、何で来たの?」

 優子は膝に顔を埋めたまま問いかけた。声はまだ震え、鈴歌を拒絶していた。

「鈴歌は綾野くんの傍にいないといけないでしょ。早く帰ってよ」

 鈴歌は肩のバッグを荒っぽく落とし、優子の傍に座り込んだ。

「ごめんなさい優子。私が全部悪いの。綾野くんは一つも悪くない。私を許してなんて言わないから、話を聞いて」

「鈴歌のせいじゃないよ。鈴歌にとられちゃった私にも責任があるもの。だから、放っておいて」

「違う、本当の綾野くんは今でも優子のことを好きで、大切に思っている。あの綾野くんは、本当の綾野くんじゃない」

「訳が分かんないよ」

 優子は小さく首を振った。綾野は自分を見限って鈴歌を選んだと本気で思っているようだ。当たり前だ、鈴歌だって同じ状況ならそう考える。しかし今回のことはそれと違うのだ。だからこそ何とか話を聞いて貰わないといけない。早くその苦しみから助け出さなくてはいけない。

「何があったのか全部話す。信じられないこともあると思うけど――」

「今でも信じられないのに、そんな話聞けないよ!」

 優子が立ち上がって鈴歌の方を向いた。その赤く腫れた目からは、涙が零れ続けていた。

しまった。そう悟った時すでに遅し、優子の心を一層傷つけてしまった。

「ずっと、ずっと涼哉くんのことが好きで、ずっと追いかけてきて、鈴歌にも応援してもらって……勇気を出して思いを伝えた。オーケーをもらった時は死ぬほど嬉しかった。なのに! まだ付き合い始めたばかりなのに、その応援してくれた鈴歌に涼哉くんをとられたのよ! 信じられる訳ないじゃない…………」

 優子が膝から崩れ落ちて地にへたり込んだ。依然として雨は零れ続ける。今この時にファンタジーの混ざった信じがたい話をしても、余計彼女を苦しめるだけかもしれない。しかしその錯誤を一刻も早く正してあげることこそ、優子の、そして綾野の救いになるはずだ。

 その時、がさがさと枯葉を蹴飛ばす足音が辺りに響いた。

「ここにいたのか鈴歌。……藤園も一緒か」

「涼哉くん?」

 優子が顔を上げ、綾野を見た。ただ、その表情は諦めと悲しみに沈んだままだった。ゆっくりと鈴歌は立ち上がり、綾野と向かい合った。自分がやるべきことは決めていた。

「少し探したよ。すぐ追えなかった俺が馬鹿だった。さっきの言葉、鈴歌が俺の彼女じゃないってどういうことだよ」

「綾野くん、その通りの意味なの。ごめんなさい。綾野くんにも悪いことしちゃった」

「だからそういうのが意味分からないんだって」

「綾野くんの本当の彼女は私ではなくて、優子の方。綾野くんは、私の自分勝手のせいで記憶がすり替わっていたの」

「はあ?」

「どうしてそうなったのか。それを今から話す。嘘は絶対言わない」

 綾野の眉間に皺が寄った。一応鈴歌が何をするつもりか分かったのか、どさりとその場にエナメルを下ろした。優子はまだ理解できていない様子。ただ、少し落ち着きを取り戻してきてはいるようだ。

鈴歌は自分の言葉の意味が通じるものでないと分かっていながらも話し始めた。

「私は優子が付き合っているなんて知らず、綾野くんについさっき告白した。もちろん結果は駄目だった。それで、本人の前で言うのもアレだけど、綾野くんの言葉にイライラしちゃって、かっとなって綾野くんを池に突き落としちゃったの」

「告白? 池に落ちた? 俺が?」

「うん。綾野くんが覚えてないだけで、間違いなく」

「それで?」

 鈴歌は少しだけ躊躇ったが続けた。

「綾野くんは浮かんでこないで、泉の精が現れたの」

 そう鈴歌が真実を告げると、優子が何か言いたげな目で鈴歌をじっと見た。

「鈴歌って電波さんだったの?」

「違う! ……それから泉の精は私に問いかけてきた。細かいことは省かせてもらうと、『貴方が落としたのは花本鈴歌の彼氏である綾野涼哉か』なんてことを。綾野くんには彼女がいることをその時には知っていたのに――私は自分の衝動に負けた。泉の精は嘘をついたにも関わらず綾野くんを返してくれた。そして、戻ってきた綾野くんは私のことを彼女として扱った」

「それが、今の俺だっていうのか?」

「そう。綾野くんと私の話が噛み合わなかったことがさっきあったでしょ。多分、記憶の中で〝高校に入ってからの優子と私の立ち位置が逆転した〟んだと思う」

「そんな馬鹿な」

「〝立ち位置だけ変わった〟から携帯のデータが優子のものばかりで、私とのやり取りとアドレスが無かったのが証拠になるはず。それと優子、大谷先輩って分かる?」

「……うん。陸上部の女子の先輩で、マネージャーの仕事が分からなかった私に優しく教えてくれた」

 優子に尋ねると、彼女はゆっくりと答えた。少しは落ち着いてきたようだった。

「綾野くん。陸上部のマネージャーも優子なの」

 綾野が右手で頭を抱えた。

「今の俺が本当の俺じゃないっていうのか」

「信じられないよねこんな話。でも嘘じゃないの」

 ごめんなさい、と鈴歌は今日何度目になるであろうか分からない謝罪を口にし、頭を下げた。

「――それで、俺が元に戻るためにはどうすればいいんだ」

 綾野は鈴歌に問うた。

「言いにくいけど、もう一度綾野くんを池に落として、泉の精に本当の綾野くんに戻してもらう。これしかないと思う。多分、記憶喪失とかじゃないから病院じゃどうにもならないかも」

 十秒程綾野はうつむき黙り込んでいたが、やがて顔を上げた。

「分かった、信じる。鈴歌が本気で話したんだ。彼氏の俺が信じなくてどうする」

「だから彼女は私じゃなくて優子で……」

「分かっているけど、今の俺は鈴歌が好きで、鈴歌と付き合っているんだ。それは曲げられない」

 そう言ってのけた綾野は、池の淵に鈴歌に背を向け立った。まだそんなことを言えるなんて、と苦笑しながらも、鈴歌は綾野の後ろでそっと手を当てた。

「綾野くん。短い間だったけど幸せだった。……って優子の前で言うことじゃないか」

 優子は立ち上がって静かにかぶりを振った。

「ううん。実はね、鈴歌が涼哉くんのこと好きなこと気づいてた。けど、口にするのが怖かった。ずっと涼哉くんのことでノロケた話をしてた。私こそごめんなさい」

「いいよ、許す。でもこれからは隠し事は無しね」

「うん」

「綾野くんのこと幸せにしてよね」

 優子は頷いた後にゆっくりと立ち上がり、鈴歌に微笑みかけた。鈴歌も素直に笑うことができた。もう二人の心のわだかまりは無くなっていた。

「……じゃあいくよ綾野くん」

「ああ」

「優子のことちゃんと幸せにしてよ」

「分かってる。……でもやっぱりまだ信じられない。今は鈴歌の幸せが気になる。鈴歌は、結果がどうなろうとこれで幸せなのか?」

 鈴歌は息を吐いた。しかしその顔には笑みが浮かんでいた。何を言うか。これで幸せなんだよ。優子は頼んだから。そこまで自分の気持ちを話せるのは凄いよ。でも自重も覚えるように。鈴歌はそれらの思いをひとことに込めた。

「デリカシー無いね」

 鈴歌は力いっぱいに綾野涼哉を突き飛ばした。








 神々しく池が輝き、再び現れた泉の精は相も変わらず美しかった。

「私は泉の精です……ってまた貴方ですか。あ、今度はお友達も一緒なのですね! 初めましてー」

「本当に泉の精が……」

 まるでアイドルのように泉の精は優子に手を振った。優子は頬を引き攣らせながらも手を振り返す。

「鈴歌、本当に涼哉くんは大丈夫なんだよね?」

「うん、無事なはず。でしょ?」

「ええ生きていますよ。しかし何故また落し物をしますかね。あれですか、構いに来てくれたのですか? 私とお話をしますか! 今は色々忙しかったりしますが、そういうことなら私は大歓迎です! ではでは――」

 鈴歌は泉の精の話を遮るように手の平を突き出した。

「綾野くんを、返してください」

 はう、と大げさに息を呑み、泉の精は肩を落とした。

「私に仕事しろと言うのですか。そうですか残念です。非常に残念です。でも仕方ないですよね。それが私の役割ですものね。はあー。よし、切り替えました。では、貴方が落としたのは」

「崩れた涼哉くんではありません。ふざけないでください」

 泉の精が右手で示した先に生まれた光の塊の大きさと流れから鈴歌は判断し、先んじて即答した。それを聞くと泉の精は、へっ、とかふん、とか言いながら渋々と光の塊を消した。優子が鈴歌に「崩れた……って何?」と尋ねたが、鈴歌はただ、あとでね、とだけ答えておいた。

「ああ調子狂いますね全く。もうちょっとゆるりとしましょうよ。うーん仕方ないですね……では」

 表情を引き締め、再度泉の精が示した右手側に光の塊が生まれ、中から綾野が現れた。泉の精の顔はいつの間にか引き締まっていた。

「貴方が(突き)落としたのはこの〝花本鈴歌の彼氏である綾野涼哉〟ですか?」

 その姿は、やっぱり格好良いと鈴歌は思った。しかし、鈴歌が今望むのは自分の幸せでなかった。鈴歌は首を振り、泉の精を見据えた。

「いいえ、違います。私が本当に落としたのは、優子の彼氏の綾野くんです」

 泉の精はただ鈴歌を見つめた。

「本当に、ですか?」

「はい」

「……ぶっちゃけてしまうと今落としたのは〝花本鈴歌の彼氏である綾野涼哉〟ですよね?」

「はい」

もしかしてこの人全部分かってやっていたのか。

「それで貴方は後悔しないのですか?」

「もう後悔していますので。きっと、綾野くんの彼女が優子でなかったとしても、こうして元に戻す選択をしていたと思います」

その言葉を最後に、お互いに目を逸らさないままで、長かったような短かったような沈黙が続いた。

「あーもう分かりましたよ。そうですよね。私が話しましたものね、貴方の答えが真実です。本当に貴方は事実を言ってくれない人ですね」

 泉の精が少し笑ったような気がした。泉の精は左手を示すと、もう一人の綾野が光の中より現れた。本当の綾野涼哉だ。優子の彼氏である綾野涼哉だ。泉の精を挟んで二人の綾野涼哉が池に立っている。同じ人間が二人いるのを目の当たりにするのはもちろん人生初体験。中々シュールな光景だ。

 ……うん? あれ、何かおかしい気が…………

「では、貴方は正直者なので」

〝両方返してあげましょう。〟そう言い放った泉の精の顔はとても良い顔をしていた。

「こっ、これ以上話をややこしくするなあああ!」

 鈴歌は泉の精を怒鳴りつけると同時に驚愕した。そうだ、〝崩れた綾野涼哉〟を出したじゃないか。この泉の精は記憶を書き換えたわけではない。〝花本鈴歌の彼氏である綾野涼哉〟を創ったのだ。泉の精は、人を生み出せるのだ。

 そうこうしているうちに鈴歌と優子のもとに二人の綾野が辿り着き、それぞれをぎゅうと抱きしめた。

「足がもつれた」

「もうそれはいいから!」

鈴歌はちらりと優子を見やると幸せそうな顔をしている。状況のカオスに気付いていないのか!

「あ、時間です。私はノルウェーの担当にこれからなるのです。久々の北欧なのです! ではさようなら。お幸せにー」

「あ、待てこの!」

何とか綾野の腕から抜け出した鈴歌が見たのは、女神の皮を被った地獄王が光に消えた瞬間だった。そして、間もなく池は輝くのをやめた。

「出てこい! ほら話し相手になるぞ! 私の家からアカベコ持ってきてくれてやる! 泉の精! ああくそ、出てこーい!」

 返事はなかった。

「涼哉くん」

「優子、何だかすごく久し振りな気がする」

「鈴歌ー、無理矢理抜け出されるなんて俺思わなかったよ。俺にも非はあるけどなんか傷ついた」

「……あれ」

「うん?」

「俺がもう一人いる!」綾野が驚き。

「うわあ!」もう一人の綾野が悲鳴を上げる。

「涼哉くんが増えたああ!」優子の絶叫。

鈴歌にはもうこのカオスの収集の付け方が分からなかった。一体……これからどうなるの?          おしまい(?)

いま読み返すと、反省事項が両手では足りないです。

しかし、話の発想とオチだけはちょっぴり気に入っています。

おしまい(?)ですが、続きは全く考えていないので「おしまい」です


では、ここまで読んで頂きありがとうございました。

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