お題『コーヒー』
ごり。ごり。ごり。
固いもの同士が擦れあう。それは、音の記憶。
ぽたり。ぽたり。ぽたり。
鼻をくすぐる炒った香り。それは、匂いの記憶。
こぽり。こぽり。こぽり。
寝ぼけた私を目覚めさせてくれる。それは、毎朝の記憶。
ぱんぱんに膨らんだ袋にはさみを入れる。
空気が抜ける音とともに広がる、炒りによって生まれた芳香。
新しい豆を開けたときだけの贅沢な瞬間。
深呼吸でひとしきりそれを堪能してから、私は次の儀式に手をつけることにした。
戸棚から取り出す、古びた器具。彼のくれた数少ない贈り物のひとつだった。
くすんだ色の木製の土台と、その上に乗る椀を連想させる金具、そして、取っ手。
いまどきあまり店では見かけない、手回し式のコーヒーミル、コーヒー豆を挽いて粉にする道具だ。
ざらざらと、金属製の注ぎ口に豆を注ぎ込む。
豆がだいたい底から7割を占めたらストップ。彼ならばともかく、私の腕力ではこれ以上入れると取っ手が回らなくなってしまう。
ミルを揺すって、コーヒー豆がほぼ水平にミルの中に行き渡ったのを確認して、私はとってを握り締めた。
深呼吸をひとつ。えいやとばかりに腕に力をこめる。
豆の形が完全に残っている一回転目は、何度やってもスムーズにまわすことができない。
なんどもつっかえながら、ぎこちなく、少しずつ、取っ手を回していく。
一回転、二回転、四回転……やがて豆は少しずつ磨り潰され、滑らかに取っ手が回る。
リズムを刻み、豆と金具が奏でる音が部屋に鳴り響く。
ごり。ごり。ごり。
固いもの同士が擦れあう。それは、音の記憶。
寝ぼけた意識の中、毎朝響いていた音。
この摩擦音と、スピーカーから聞こえてくる題名も知らないクラシックが、朝に弱い私を幾度も夢から引きずり出したものだった。
また、この音は彼のその日の機嫌を図る指標でもあった。
軽やかなリズムを刻む日。何か別のことに気を取られているように落ち着かないリズムの日。ゆるゆると、眠たげなスローペースの日。
それを聞きながら、朝一番でどんな言葉をかけようか、色々と考えたりもしたものだ。
そんなことを考えながら、気がつけば取っ手にかかる重さはほとんどなくなっていた。
豆が全て粉となって、ミルの下へと落ちきった証拠だ。
またミルを軽く揺すり、粉を全て下へ落としきる。
そして、ミルの底につけられた取っ手を引くと、土色の粉が詰まっている。
出来は上々。道具の手柄ではあるけれど、自分の腕でこれを挽いたのだと思うと少しばかり誇らしい気分になる。
コーヒーメーカーの注ぎ口に紙のフィルターを入れ込み、その上から、コーヒーの粉を投入。
ちょうど沸いた湯を、フィルターの淵から円を描くように注いでいく。
土色の粉が水を吸ってその色を濃く変えていく。
しばし待つと、砂時計状のコーヒーメーカーの下部に、褐色の液体が一滴、また一滴と垂れてきた。
ぽたり。ぽたり。ぽたり。
鼻をくすぐる炒った香り。それは、匂いの記憶。
この香りがしてきたら、彼が声をかけてくるのはもうすぐだ。
ねぼすけはこちらの責任なのに、まどろみを邪魔することをためらうように、遠慮がちに投げかけられる言葉。
それが好きで、音と匂いで目が覚めていても、私はわざと眠った振りをすることがあったりもした。
今は逆。起きているのは私で、寝ているのは彼の方。
湯を注いでは落ちるのを待ってを繰り返しているうちに、
いつか褐色の雫はたまりにたまって、2人でやっと飲み干してしまえるほどの量が、コーヒーメーカーになみなみと満ちていた。
用意するカップは2つ。
湯を注いで温めて、一度捨ててから、コーヒーを注ぐ。
こぽり。こぽり。こぽり。
寝ぼけた私を目覚めさせてくれる。それは、毎朝の記憶。
おはよう、と記憶の中の彼が言う。
その口調を真似して、私は眠ったままの彼に呼びかけた。
今の彼は昔の私よりもねぼすけで、コーヒーでは目を覚ましてくれないけれど。
きっと私は、この毎朝の儀式をやめることはしないのだろう。
写真の中の彼に朝をつげるコーヒーを淹れる、意味のない儀式を。
いつか、私の涙の雫がコーヒーメーカーを満たして、飲み干してしまえるようになる日まで。