お題『ゆびきり』
――ゆびきりげんまん うそついたら はりせんぼん のます
――ゆびきった
切り裂かれた。
右の腕に走る熱に混乱しながら、一歩距離をとった。
何が起きた。
単に、振るわれた相手の左手刀を廻手からの動きでいなしただけのはず。
相手は無手。こちらも無手。条件は互角。それに間違いはない。
なれば、何が起きたのか。
左右の手を緩く開いたまま構える相手を見やる。
その指先は、赤黒く濡れていた。間違いない。奴はその指で、こちらの腕を「斬った」のだ。
鉄指功という錬があるのは聞き及んでいる。
鉄弾や目の粗い岩の中で長期にわたり指を鍛え、その皮膚と肉とを硬質化する荒行だ。
十年以上の錬を経た達人の指先は、容易く皮膚を裂き肉を抉る凶器と化すとも言われている。
もちろん、多大な苦痛を伴うその錬を成し遂げるものなどほとんどいない。故に、荒唐無稽な噂話でしかないと考えていた。
だが、その体現者が眼前にいる。
「大した手品じゃねぇか」
「約束だ。これくらいはする」
交わす言葉は断片だけ。それでいい。
もはや声で、言葉で、どうにかなる段階は十年も前に過ぎ去った。
あのとき結んだ約束だけが、今の二人を繋げている。
――ゆびきりげんまん うそついたら はりせんぼん のます
――ゆびきった
嘘だけはつけない。
そんなことをすれば、悔悟が千の針となって心の臓を穿つだろう。
故に、この肉体で語るのみ。
ただ、積み重ねた時間の象徴である套路の果てを交わすのみ。
愚かなのは百も承知。
しかして言の葉が意味を成さぬならば、事の刃にて互いの意思を刻み合うほかないのだから。
乱れた息を二つ呼吸で整える。
緩く開いた腕と手から組み付きと極めこそ相手の功夫の要諦と見たのが誤り。幸い、腕の腱はまだ生きている。
なればどうする。
触れれば斬れる十の指。対してこちらは正真正銘ただの拳骨しか持ち合わせておらぬ。
閉じた拳と開いた指。制しうる僅かな空圏の差は、独闘において圧倒的な有利不利を生み出す。
一歩踏み込むか。さすれば一閃、刀にも似た必殺の斬撃が振り下ろされる。
一歩退きやるか。しかしてそれでは、己の拳は遠く空をも掴む頼りなきものとなる。
こちらの逡巡を手にとったか、無造作に相手が距離を詰めてくる。
振るわれる左右の手。その指先は都合二十の刃となって突き出される。
半身に裁き軌道を限定。交差する左右の腕を突き出した手甲で流す。
熱。痛。刺された。斬られた。抉られた。
どれも傷は浅い。しかし、指という明確な太さを持つもので裂かれた皮膚は、醜く爛れ濡れていく。
長くは戦えない。じりじりと血と肉を削られれば、いずれこちらは死に体となる。
赤く濡れた腕を下ろし、退きかけた右の足で地を蹴った。
まっすぐに、赤く染まった鉄の指の使い手の懐へ。
相手の表情に、僅かに驚きが浮かぶ。当然だ。相手の内へ潜りこまんとする自分は今、敵の指刀で袈裟懸けにするに最も適当な位置へ身を置いているのだ。
たった数瞬とはいえ、それを見逃す相手ではない。
表情を強張らせ、奴は左右の腕を振り下ろした。肩口から、胸へと。異物が、体内に侵入する嫌悪感。そして、追って駆け抜ける衝撃。
叫びを殺す。咆哮を潰す。悲鳴を消す。苦悶を捨てる。
白く消えそうな意識を、無理に五体へと繋ぎとめる。四苦を、三界の不条理を、二つの瞳に刻み込むように、一閃された傷口を睨み付ける。
止まらない。止まれない。この程度で、止まっていいはずがない。
拳を振り上げる。
その拳を受けようにも、相手の両の指は、自分の肉にめり込んで外れない。
その拳を避けようにも、相手の両の指は、自分の骨が絡め取って外れない。
そう。奴がこの十年で、指で全てを断ち切る「指切」の功を身につけたように。
自分にも身につけた、一芸があっただけのこと。
技というのもおこがましい。力というほど誇れもしない。
ただ、降り注ぐ拳の万にすら耐え続けてきた、痛みに耐えぬく肉体。この「拳万」の功こそが、自分の十年の証。
――ゆびきりげんまん うそついたら はりせんぼん のます
積み重ねた功は、嘘をつかない。
「指切」は、確かにこの身に奴の十年を刻み込んだ。
ならば次は、こちらの番。これが、自分。「拳万」の一撃。
華麗な一閃ではなく。ただ、耐えて忍んで、待ち続けて叩き込む、一発きりの下手糞の拳――。
――ゆびきった
めり込む、拳骨。
からみついた、指が、離れていく。
あのときと同じように。
あのときとは、まったく違う速度で。
あの日は、離れたくなくて離れた指。
今は、自らの手でその指を、切る。
「……トドメを、刺さないのか」
「しねぇよ。別に憎いわけじゃない。こりゃ、ただのケジメだ」
倒れこんだかつての家族に背を向ける。
もう、会うこともないだろう。
「指を切るってのはいつだって、ケジメのためにやることだろう?」