2.王子様と再会したよ! 04
――転がる石が足元にやってきた。転がる、ではなく、自分に向かって全力投球された、というほうが正しいのかもしれない。その石を、どう対処したらいいのか、よくわからない。
「――王子様!」
見間違えようにない。つい数時間前に、ちんぴらに絡まれていた少女だった。少女はクラウの存在を確かめると、クリーム色の髪をなびかせて一直線に飛びついてきた。
「うわっ」
想像したよりも勢いがあったので、そのまま尻餅をついて倒れる。床の上で抱き合う形になってしまった。
「情けないねぇ。普通女性って、押し倒すものだろ?」
アザエルの極めてばかばかしい言葉を聞き流す。何故こうなったのか、とにかく問い質したい。が、この姿勢では、クラウは思ったように身動きが取れない。ぴったりと密着した少女の体は少しも動きそうにもなく、温かい息を胸に感じる。ついでに体温も。それらを意識している余裕など皆無であり、ただただ鬱陶しいだけではあったが。
「おい、いい加減離れろ! おい、おい! ……あれ?」
自分の上にいる少女の体から、力が抜けていることに気がついた。クラウの胸に預けている少女の顔を見てみると……
「……寝てやがる……」
両の瞳はしっかりと閉じられていた。
「あー。そういや夜通し歩いてダラスに来たから、寝てないって言ってたなー」
アザエルの呑気な声が、妙に腹立たしく響いた。
年間を通して、ダラスの夜は外気が冷たくなる。眠ってしまった少女を抱えて、とりあえず自分のベッドに横たえる。闖入者は彼女のほうだが、床にそのまま放置しておくわけにもいかない。外に放り出すことも一瞬だけ考えたが……無防備な少女を放り出すのも人間としてどうなのだろう。
「アザエル。どういうことだ」
この現実を作ったであろう張本人に詰め寄る。彼女を連れてきたのは友人なのだ。アザエルは肩をすくめて、困ったように笑うだけだった。
「話すと長いんだけどねぇ」
「長くてもいいから説明しろ。意味わかんねぇぞ」
お手上げだ、というようにアザエルは両手を挙げる。
「じゃあ説明しよう。僕がいるのは、合鍵持っているから。このお嬢さんがいるのは、君にお礼がしたいって言うから連れてきた。以上、終わり」
「全っ然長くねぇ短ぇよ! それぐらいで連れてくるな! 百歩譲って連れてきても隣のお前の部屋に入れときゃいいだろうが! ていうかお前、何で合鍵なんて持ってんだよ!」
「そりゃ、結構前に来たとき、君が眼を離してる隙に粘土で型とっといたからさ。自分の部屋に手っ取り早い飯がないとき、君のとこから干し芋盗めるからね」
アザエルは最後の問いにだけ返答した。慌てて食料庫のほうを見やる。非常食の干し芋の袋は空だ。最近は食べていないのにめりめりと減っていっている理由は……
「お前が原因だったのか!」
「あたりー。最近あの干し芋の、噛めば噛むほど甘さが出る感じに病み付きなんだよねぇ」
アザエルは人差し指で鍵(勝手に作った合鍵とやらだ)をくるくると回す。おかげでこっちは食糧難にあっていたのだ。金はない。食料はない。いざというときの非常食もない。あるのは僅かな調味料と公共水道で汲んできた水のみ。家賃は滞納中。本気で餓死するかと思った。
「お前なぁ! 俺はあの依頼受けるまでの数日、砂糖水しか口に入れてなかったんだぞ!」
「食っちゃったしー。まぁ、お詫びに今日の飯は、僕が奢ってやろう」
ありがたい申し出だが、ついでに勝手に食った分も買ってくれと思う。そして、まだ貰ってない串焼き分もくれよと思う。
だが、最早なくなったもののことを言っていても仕方がない。ぐっと押し黙って、了承する。
しかし食べに出るのだとしたら、ただひとつ問題が起こる。
「……こいつどうするんだよ」
自分のベッドを占拠している少女を顎で指す。何が安心なのか、弛緩しきった表情で眠る少女が憎たらしい。
「……僕が、何か適当に買ってくるよ。寝ているけど、ほとんど面識ない人間を自分の部屋で一人にさせたくないだろ」
後半部分はもっともなことだが、お前が勝手に連れてきたんだがろうが、と心の中だけで突っ込みを入れた。そして、今度管理人に頼んで鍵とドアノブを変えてもらおう、と決意した。
*
アザエルが出かけていった。眠る少女はベッドの上。状況は奇妙だが、こうなった以上考えても仕方がない。この場につれて来たのはアザエルだが、そもそも彼女を助けたのは自分自身だ。
起きる気配は全くないので、少し眼を離しても大丈夫だろうと判断した。風呂場に直行し、衣服を脱いで蛇口をひねる。
思った以上に擦り傷と打撲痕が目立った。額に貰ったオークの爪をはじめ、細々とした軽傷のほかには、額と肩にもらったオークの爪が一番目立つ傷になっている。害獣退治は常に死と隣あわせだが、ヴァシリーが持ってくるこの手の依頼の中で、今回がもっとも苦戦した。
二十体の害獣を一気に相手したことはない。数ももちろん原因の一つだろうが、一番はどうも、体が鈍っているような気がしてならない。
頭から湯を被り、さっぱりしたところで長袖のシャツとブラックジーンズに着替える。額をはじめとして、傷口の手当も忘れない。
風呂に入り、手当をし終わったところで、アザエルが帰ってくるまで何もやることがなくなってしまった。
暇になってしまったクラウは、暫くサボっていた日課のトレーニングを行うことにする。簡単な柔軟運動で筋肉をほぐし、部屋の隅に置いたサンドバックを天井から吊るす。
一回体が鈍ってしまったら、取り戻すのに時間がかかる。金欠と飢餓状態が続いていたため、最近は体を動かすことも億劫になっていた。これ以上の怠りはやばい。今日という日が、依頼に失敗していようが、害獣と戦って疲れ果てていようが、知らない少女と何故か部屋で二人っきりという謎の状況に身が置かれていようが、己の身を鍛えるという前では関係のない事実だ。
机の上に放置されているグローブを嵌める。レザー生地で、指に穴が開いて手首を固定する形のグローブだ。サンドバックを、まず左右から拳の連打。それから下段から中段、上段での蹴りの連打を行っていく。突く、もしくは蹴るだけではなく、掌底打、肘打ちなどもバリエーションも入れて。
打つたびにサンドバックは大きく揺れた。これが人体ならば、今頃は骨折と打撲で大変なことになっているだろう。
ヴァシリーのいうように、クラウは運動能力や格闘のセンスには不思議なほど恵まれていた。だが、天性のものだけでは手に入らないもの、そして恵まれなかったものはたくさんある。基礎体力。筋力。体格によるアドバンテージ。身長はけして低くはなく、鍛えているので筋力は平均以上を保っており、体は相当引き締まっている。体力も問題はない。しかし元来線が細く、思った以上に体格は大きくはならなかった。その年の男性にしては華奢な印象を与えてしまっている。
劣るもの、恵まれなかったものを補うのは、日々の鍛錬他ならない。そうしているうちに、元々の才能も磨かれ研ぎ澄まされてくるものだ。
若干の矛盾を感じざるを得ない。遺跡探索者には確かにそれなりの戦闘能力が不可欠だが、害獣退治の依頼がわざわざ手元に来る探索者も珍しい。発掘や冒険だけに仕事を搾りたいと思いつつ、金に困ると引き受けてしまう。そして勤勉に鍛錬を続けている。
左右、手足をバランスよく、リズミカルに殴打していく。そのうちにサンドバックに限界が訪れた。殴打を繰り返していたら、縫い目が解けていたのだ。右の拳が、サンドバックを貫いた。
サンドバックが破れて、中の砂が溢れ出す。床一帯に、茶色の絨毯が広がった。
「あー……、やっちまった」
後ろ頭をかいた。
引き出しの中から裁縫道具を取り出した。砂を集めて、サンドバックを縫い合わせないといけない。
激しい打撃音が響いていたにもかかわらず、少女は安心しきった表情で眠り続けていた。そして、起きたら追い出そう、とやはり密かに決意したのだった。