1.破壊屋クラウ 03
「はぁ……何か疲れた」
ノーギャラに終わった前回の遺跡探索の結果に、そこから派生した新しい依頼。それだけでも十分げっそりくるのだが、毎度ながら、変態な質屋の店主から髪の毛をくれと言われるわ。日はまだ高く上っているのが憎たらしい。妙に疲れる一日であるが、驚くべきことに、まだその一日が終わっていないのだ。これからさっさと依頼をこなしてこなければならない。
広場のベンチに腰掛けて、屋台で買った鶏肉の串焼きを頬張る。鶏肉の串焼き。甘みを抑えた丸パン。公共水道から汲んできた水。簡単だが、今日の昼飯だ。食べ過ぎるとこれからの仕事に悪影響を及ぼす。
公共水道は、井戸からくみ上げてきた水を誰でも飲めるようにと国が整備しているので、安心して飲むことが出来る。宗教色の強い聖ルーファス大公国の最大の利点だ、とクラウは常日頃から感じている。タダ・無料というものは、この世の中でとても貴重だ。
聖ルーファス大公国の首都ダラス。
第一大陸の南西部に位置する、もっとも面積の広い国だ。
この世界で三つある大陸に、何故数字の番号が付けられているのか。理由は諸説ある。一番有力な説は、第一大陸出身の冒険者が、他の二つの大陸を発見した、というものである。自分が住んでいた大陸を一とし、発見した順に、第二、第三と名付けた。
第一大陸は、アレイス教を国教としている国が多い。
そのアレイス教の中心地で総本山があるのが、クラウが現在いる聖ルーファス大公国の首都だ。
ダラスの街は広場を中央にして道が整備されている。街は、上空から見ると円形で、主要道路が放射線状になっているのが分かる。放射線の中央、広場を見下ろす様に存在するのが、アレイス教宗主ルカ二世がいる、アントニオ聖教会だ。
この国は宗教が最大権威であり、その中心地が首都のダラスということだ。
白亜の大理石で作られた聖教会を、緻密に掘られた彫刻や聖人の銅像が飾っている。宗教信仰を特に持ち合わせていないクラウにも、神聖なものであるという錯覚を覚えさせる。あくまでも錯覚であるが。
「あー……」
空を仰ぐと、一定のペースで流れる雲と共に、聖堂の高い尖塔アーチが視界の端に入ってくる。今現在は、神聖なものどころか、自業自得なのは分かってはいるがケチくさいものの象徴として映っている。
金は欲しいがぶっちゃけ言うと……
「……仕事行きたくねぇー」
「こらこら」
ぱこん、と丸めた雑誌で叩かれた。
「アザエル……何すんだよ」
叩いた張本人を振り向く。
「いやぁ、こんな真っ昼間っからの働きたくないでござる発言は、聞き捨てならなくってね」
座っているベンチの隣には、串焼き屋が、いや、串焼き屋を兼業している同業者が店を構えている。少しばかり癖のある銀髪の、二十前後の男。どことなく猫を連想させる顔立ちと、ほっそりとした優雅にも見える物腰。
アザエルだ。彼は丸めた雑誌を手に握っていた。
彼は、クラウの専門学校時代からの親友だ。よく組んで遺跡探索を受けたりしたが、半年前に「遺跡探索だけじゃ飯が食えん!」と言って、屋台の串焼き屋を始めた。これが意外にもヒットし、今では広場の名物となっている。盛況しているだけあって、中々美味い。
決め手はタレだ。アザエルは串に刺した豚肉に、塩と長ネギと生姜を混ぜて作ったタレを塗っている。ネギは混ぜ込むと、甘い水分が出てくる。本人いわく「普通のネギより甘いものを使っている」というが、クラウもここまで甘いネギはみた事が無い。そしてネギと生姜でさっぱりとした甘辛さを持つタレと、肉との相性は抜群だった。リピーターも最近いるらしいが、それも納得だった。
「まぁ、遺跡大好き人間の君がそういうって、大体見当はついているけどね」
返事をするかわりに、クラウは無言で串焼きにかぶりつく。それだけでアザエルは彼に何があったか、そして何を頼まれたかを理解した。
あの手の依頼がクラウに大量にくることを、アザエルは知っていた。クラウがそれを、あまり好んでいないことも、好まずにいながらも受け入れていることも。
アザエルはいつも、金なら少しぐらい(金貨3枚まで)なら貸すと言ってくれている。しかし、クラウは頑として受け取らない。結果、金に困るとクラウは、関わりたくない質屋で金を借り、受けることに抵抗のある仕事をこなしている。金を友人から借りるのと質屋で借りるのは、どっちがましなのだろうと真剣に考えることもある。そうすると、友人に頼るのは「あの手の依頼」を受けること以上に抵抗があるのだった。
遺跡探索には金が掛かる。そしてハイリスクローリターンな職業だ。金銭面を考えると余り現実的な職業ではないと思うが、それでも追い求めるのを止められない。
つくづく、夢を追いかけることの楽しみと、夢じゃ飯は食えないという、二つのことを教えてくれる職業だと感じる。遺跡探索一本に絞って常に金欠の自分を見ると、アザエルは懸命だ、と最近は思う。真似をしようとは思わないが。
「そういえば、聖ガブリエラの石像をぶっ壊したんだって」
「……何で知ってんだよ」
「石像」「破壊」の二つの単語に、クラウは反応した。
まだ二日前の出来ごとだ。アレイス教の上位聖職者と、聖職者に土下座してきたヴァシリーと、実際に壊してきたクラウしか知らない筈だ。
「誰って、そりゃあヴァシリーさん聞いたんさ」
同業者の口からは、当然といえば当然の人物の名前が出てきた。今はこんななりだが、一応は遺跡探索者であるアザエルは、ヴァシリーとは顔見知りだ。そのヴァシリーが、アザエルの串焼き屋の常連であることを失念していた。アザエルの前では、何故かヴァシリーは口が軽くなる。
「にやにやしながら来て気味悪かったから、何かあったんですかー? って聞いたら、笑いを堪えながら教えてくれたよ。司教達に怒られた直後だっていうのに、面白いことがあってねって言ってくるんだから、奇特な人だよね」
「……あのブタ野郎」
こっちは全然面白くない。というよりも、人の失態をペラペラと周りに吹聴しないでほしい。お陰でさらに仕事をする気が無くなった。あのブタ野郎は俺の機嫌を悪くすることに関しては天才なのではないか、と思えてくる。
専門学校を卒業して2年。それなりに遺跡探索を受けはしたが、壊し癖は直っていない。
「僕はさすがだなぁと思ったけどね。肝心なものは発見してくるけど、やっぱり壊してくるあたり。そうじゃなきゃ、君じゃないよね」
「嬉しくねぇよ」
今月、アレイス教の聖人である、聖ガブリエラを祝った祭りがダラスで行われる。規模が大きい祭りで、毎年その際に、聖堂に置くためにサルマ聖墳墓跡から司教達がわざわざ石像を持ってくる、という話を聞いたことがある。『聖ガブリエラの涙』もその祭りの為に公開したいのだという。
遺物を見つけてきたのはいいが、その重要な石像を真っ二つにしてしまったのである。
「聖ガブリエラの石像なんて、よっぽどの信者や聖職者じゃなければ大切じゃないから。ここはダラスだけど、それほど熱心な人はいないでしょ。大体、石像公開は一日目だけで、後は鍵かけてしまっちゃうんでしょ? 信仰心薄い人や一般人なんて、気になんかしないよ。こんなこと聞かれたら、教父たちは激怒するだろうけど」
親友の、このどうでもよさそうな発言の細部に気遣いを感じる。
「そうだろうけどね……」
その心は嬉しいが、それでも金にならなかった事やこれからの仕事を考えると、気分が暗くなる。
「……そんなに機嫌悪いんだったら、少しでも良くなってから仕事行けば?」
「はぁ? いきなり何を言い出すんだ」
「人助けでもしてきなよっつってんだよ。ホラ、丁度ピンチになってる女の子がいるみたいだし。広場であーゆうことやられると、僕としては困るんだよねぇ。営業妨害されているようなもんだし。人から感謝してもらえば機嫌だって少しはよくなるだろ」
アザエルが顎で指した方に顔を向ける。五メートル先に、確かにがらの悪い複数の男に絡まれている少女の姿があった。時折会話が聞こえてくるが、少女の声は、男たちのだみ声でかき消されている。他の屋台なり芸人なりは迷惑そうに見ているだけで、止めようともしない。面倒事に関わりたくないのだろう。
確かにピンチではあるし、少女ががらの悪い男に囲まれている図というのは、見ていて決して気持ちのいいものではない。しかし……
「やだ」
きっぱりと断った。助けたところで、自分の気分が晴れる保証なんてどこにもない。
「君って時々酷いよね。あ、いつもか」
「うるせえな。生きてりゃこーゆうこともあるんだから、自分で何とかしやがれってんだ」
「――やめてください!」
クラウの言葉に応えるかのように、絡まれている少女は声を張り上げた。そのすぐ後だった。ゴン、と重くて鈍い音が響いたのは。驚いて少女の手元を見ると、大ぶりのフライパンが握られていた。対比するように、一人の男が地面に落ちて行くのが目に入る。
少女はフライパンをめちゃくちゃに振りまわして、男たちを近づけまいとしている。実にけなげな行動だと思うが……。
「……何でフライパン常備してるんだ?」
フライパンとは持ち歩くものではないのではないか、とクラウは主張したい。それともそれは、自分の中だけの常識なのか。
「さあねぇ。彼女にとってのフライパンは、持ち歩くものかも知れない」
アザエルはちらちらと様子を見ながら、豚肉ではなく今度は鳥の手羽先にタレを塗る。二人はすっかり、観戦モードに入っていた。
フライパンで善戦していたが、限界が近づいてきた。振り回す力が強すぎた為か、フライパンの持ち手がするっと滑った。唯一自分を守るものである、フライパンを落としてしまったのである。
「そろそろやばそうだねぇ」
「……そんなに気になるなら、お前が行けばどうだ?」
「無理。死んじゃう。大体今の僕、串焼き屋だし。目離したら、焦げる」
死んじゃう、は冗談だろうが、お前も十分人でなしだという台詞を必死で飲み込んだ。アザエルの自他共に認める腕っ節の弱さを、クラウは思い起こさずにはいられなかったからだ。止めに行ってもボコボコにされて返ってくる可能性が高い。専門学校での「武術」の成績は、五段階評価で常に二だった。
「……串焼き一本、タダで食べていいって言ったら行く?」
「乗った」
タダ、に反応して、すぐさまクラウはベンチから立ち上がる。
世界平和と神の愛を信じるアレイス教総本山の街は、銃剣に対する規則が厳しい。まず、帯刀許可証を持つ人間以外の武器の所持は固く禁じられている。許可証を持っていても、登録されていない銃剣類は基本的に持ち歩けない。武器を所持するハンターや遺跡探索者は、この街に来たらまず、警察で自分の武器を登録しなければならない。そして、理由なき武器の所持、発砲・抜刀は警察での厄介の元になる。
クラウの武器は一応、警察で登録されているし、帯刀許可証も常に携帯している。婦女暴行の仲裁の為、という一応の名目は付くのだろうが……。
簡単に退治出来て、且つ疲れない方法は無いかと思考を巡らせ――食べ終わった串焼きの串を、未だに持っていたことに気が付く。これを使わない手はないだろう。
男たちはフライパンでぶっ倒されて昏倒した一人を入れて、総勢五人。残り四人いるが、大したハンデにはならないだろう。
「まあ、仕事前の準備運動にはなるか」
近くで見れば見るほど、脳みその代わりに腐ったヨーグルトでも詰まってそうな連中だな、と思う。
近づいてきたクラウを、一人が目ざとく発見した。
「誰だ、お前」
「通りすがりの王子様です」
我ながら素晴らしい嘘だ、と感心する。
直後、男の一人に、手首を利かせて串を投げつける。狙ったのは喉元だ。
投擲する瞬間。僅かな隙が男たちの間で生まれる。少女からもクラウからも注意がそれ、投げられた串に気が集まる。喉を狙った相手が、刺さる前に串を掴むその一瞬。
生まれた隙を、クラウは逃さなかった。
まず一番近い相手の懐に入って、みぞおちに肘をめり込ませた。肘は、うまく使えば、力をそれほど入れなくても簡単に肋骨を折ることが出来る。当たった時に、折れた様ないやな感触はしなかったが、男は口の端から胃液を出しながら昏倒した。
「あの串焼き屋のとこまで逃げとけ」
これ以上巻き込まれる前に、少女の背中を押して逃げるようにと促す。アザエルのところまで行けば、安全は十分保障されるはずだ。少女は躊躇わずに駆けだした。これで何も心配せずに動ける。
真後ろで気配が動いた。振り向くと、一人が鉄棒を振りかぶっていた。鉄棒が自分の顔面に当たる前に、避けるより受けた方がいいと判断したクラウは、手近に倒れていた男の襟首を掴んで盾にした。一番最初に、少女のフライパンをくらった男である。鉄棒は盾にした男の額に当たった。鉄棒を持った男の顔が驚きに染まる。盾にした男を退け、右のこめかみに突き手を食らわせた。平衡感覚を失ってよろけた男に、足払いをかけてとどめをさしておく。
一人がクラウの右横に移動する。ぎりぎり、視界に入るか入らないかの位置だ。そこから突きを飛ばしてきた。クラウは身体を逸らして軽くかわし、その腕に手刀を叩きこむ。直後、左足で踏み切って、身体を縦に回して飛んだ。本来、正面の相手に繰り出す技だが、左足の踏み切る直前に身体の向きを変えて、真横にいる相手に使えるようにと応用させた。左足を軸に、右足が半円を描く。右の踵が、男の額に当たった。男はそのまま仰向けに倒れこみ、次いで後頭部を地面におもい切り打ちつけた。
これで残るのはあと一人。
身体と共に、被っていた帽子が外れて宙を舞う。刹那、帽子によって抑えられていた後頭部の髪が、ばさりと踊った。
赤毛とも黒髪とも取れ、どちらとも取れない微妙な色彩は、日の当たり具合や陰影、また、人一人の感覚の違いによって見方が変わる。赤銅色と評する人もいれば、黒褐色と表現する人もいる。
真南についた太陽に照らされた今のクラウの髪は、赤の要素が強い。それが完全な赤にならないように、黒がアクセントを加えている。
静かに燃える黒い炎のようだった。
男は知っているようだった。黒眼で、赤とも黒ともいえる髪を持つ、自分のことを。否、その特徴を持った人間の、負の通り名を。
色彩変化したクラウの髪を見て、最後に残った一人が叫んだ。
「お前、『破壊屋』クラウか!」
「誰が『破壊屋』だ!」
実に不名誉極まりないあだ名だ、と憤りを感じる。しかし事実が混ざっているのが悲しい。自分で言っておいて嘘だと思ったが、これなら王子様の方が数倍ましだ。
破壊屋、と叫んだ最後の一人の顎に掌を当てて、もう片方の手で押し上げる。使い手自身の力はそれほど必要としないが、相手へのダメージとそれは比例しない。顎に重い一撃をくらった男は、そのまま気絶して地に落ちた。
「手ごたえのない連中だ」
全員が地面に転がるまで、それほど時間はかからなかった。
一応力を抜いたので、命に別状もなければ重い怪我もないはずだ。軽く見聞してみると、目立った傷は見当たらない。フライパンと鉄棒を食らった男が一番重傷だったが、それでも打撲である。顎を強打した男は……問題はない。首が弱い相手には絶対に出来ないが、男の首は頑丈だったらしい。
「まぁ、放っておけば起きるだろ、そのうち」
この広場の秩序を乱した罰として、しばらくそのまま転がしておくことにする。
それにしても、『破壊屋』という不名誉な通り名が、一般にも浸透しているとは。それとも一般人ではなく少女に絡んできた集団は、実はハンターだったり傭兵だったり同業者だったりするだろうか。そこまで考えて、少なくとも同業者ではないなと直感が語った。
帽子を拾って被りなおす。赤毛を隠す為ではなく、ただ単に、被っている方が落ち着くのである。少女が持っていたフライパンも拾う。
戻ってきたクラウを、アザエルの陽気な声が迎え入れた。
「いやぁ、見事だったね。特に、倒れた人を盾にするとこ。僕には真似出来ないや」
「反省してはいるぞ、あれ」
クラウは心の中ですまんと謝った。
少女は、クラウが座っていたベンチに腰をかけている。十五歳ぐらいで、自分よりは少しばっかり年下だろうとクラウは判断した。柔らかいクリーム色の髪を、黒いリボンで溌剌に纏めている。隣には布製の肩に掛けるタイプの鞄が置かれていた。買い物や持ち歩き用とするには、大きい。
観光者か、もしくは一人旅か。旅慣れしていないのかもしれない。何にせよ、不用心過ぎる。
「平気か?」
「はい。……ありがとうございます。本当に、どうしようかと」
心の底から安堵したようだ。少女は、クラウに頭を下げて感謝の言葉を言う。鈴の音を連想させるような、綺麗な声だった。
「旅行者か?」
聞きながら、フライパンを彼女に渡す。
「えっと、それに近いです。一人旅です」
「この街は初めてか?」
「はい。先ほど、着いたところなんです」
そうか、と頷いて、クラウは少女の頭に手を置いた。少女の肩が小さく跳ねた。予想していなかったらしく、驚いたように目を開いている。
「気をつけろよ。大きい街だから、こうゆう事だって起こる。そうなった時、今回みたいに誰かが助けてくれるとは限らないからな」
「そうそう、こいつだって僕がタダっていう餌を釣んなきゃ動かなかっ」
アザエルの顔面に突きを食らわせる。
「……痛いなぁ」
「お前の目の前に巨大なスズメバチがいたから潰したんだよ」
当然の抗議を、嘘八百でスルーする。事実だが、わざわざ本人の前で言う必要もなかろう。
当の少女は意味が分からないといったようにきょとんとしていたが、やがてくすくすと笑いだした。
「な、何だよ」
「ひどい人たちですね、って、思っただけです」
つまり少女はアザエルの一言で、周囲の冷たい人間と同類だ、と認識したのだった。
アザエルはともかく、助けた本人から言われると、自分は本当に酷くて冷たい人間のような気がしてくる。否定する要素が見つからず、クラウは苦い笑いを返す。否定できずに苦い思いをするのを、今日に入ってから何度しただろう。
「でも本当に助かりました。ありがとうございます」
再度、丁寧に少女はお辞儀をする。その真っ直ぐさに、罪悪感を覚えずにはいられない。こっちは見過ごそうとした上に、タダに釣られて重い腰を上げたのだから。とても申し訳ない気がする。
「……悪かったな」
「いいえ、とんでもないです。よくある事なのは分かっているつもりでしたけど、わたしにも用心が足りなかったですし」
少女の言葉に、そうか、と頷いてそれ以上卑屈に考えるのを止めた。何がどうであれ少女は助かったのだから、深く暗く考える必要はない。そうも思えてきたからだ。
笑っているうちに、少女に本来の明るさが戻ってきたようだった。穏やかなその微笑には、周りの人間も笑顔にしてしまう、不思議な魅力を持っていた。彼女の隣は心地の良い時間が流れるのだろうな、と客観的にクラウは評した。
もっとも、今後会うこともないだろうが。
「あんたも、念のためあいつらが復活する前にここから逃げな」
言うまでもなく、転がっているちんぴらのことである。はい、と首を振った少女の頭に、もう一度手を乗せる。
一瞬の出来事、そして一瞬の出会いだ。
すっと手を離して、懐にしまった懐中時計で時間を確かめる。随分長居をしてしまった。
「アザエル、勘定」
「銅貨二枚だよ。――行くのかい?」
「ああ。日が暮れる前に全部終わらせたいからな。お前の奢りは後でいい」
串焼き代を渡し、アザエルに背を向けて歩きだした。背中で、誰かが呼びとめる声を聞いたような気がしたが――別の誰かに向かってだろうと判断した。
これから害獣を退治せねばならない。
*
別れは、あまりにもあっさりしていた。
「待ってください!」
去っていく背中に慌てて呼びかけたが、彼が気付くことはなかった。
名前を聞く前に、行ってしまった。
ひどい、と言ってしまったからだろうか。何か、話す内容が欲しかっただけなのに。
二回触れられた頭が、まだ熱い気がする。恐らく、彼の掌の温度を覚えているからだろう。思い出すと、顔が赤くなるのを感じた。
黒褐色の髪と、黒曜石の瞳を持った青年。
「あのひとが、わたしの……」
熱っぽく呟いた少女の言葉は、誰にも聞かれることなく通り過ぎていった。