序 創造と虚構の絵本
昔、世界は一本の木であり、全てのものはその木から生まれた。
少女が小さい頃、読んだ絵本にはそう書いてあった。
もっともそれは、ただのお伽話の一つだと認識されている。世界のなりたちは、他の絵本によって変わっていた。例えば、噴火した火山から始まった、と書いてあるものもあれば、七日間で神様が作った、というものもあった。
少女の周りの、大体の大人はこう信じている。世界とは、宇宙上に存在する星の一つで、元々からまるい。球体の形を持っていた。その球体に降り立った二足歩行の生命体が、人間の祖先となったと。
多様にあってどれが本当なのか、少女には分からなかった。どれも抽象的で、現実味がないような気もしてくる。たくさんある話の中で、どれか一つが真実ならいいのではないか。そんな風にも思うのだ。今生きている中で、世界の成り立ちというものは、それほど重要ではない。
ただ、もし、事実が一つ、本当にあるのなら。
昔、今よりも幼い頃に手あかが付くほど読んだ、あの話だったらいいな、と何となく思うのだ。
そして想像してみる。
もしも、本当に世界が木から始まったなら。今でもその木は存在するのではないか。その木は何処にあるのだろうか。
眠れなくなった夜は布団の中で、少女はそんな想像をして楽しんだ。
* * *
――と、少女は眠る努力をしようとした。
だが、妙に目がさえてしまっている。興奮した頭は冷めず、熱くなるばかりだ。眠りたいし、もう真夜中だから眠らないといけない。だけど眠れないし、何だか眠りたくない。今の自分は、矛盾しているようだがそんな心地だった。自室のベッドに潜りながら、少女は眠れない夜を過ごしていた。
今日はいろんなことを試してみた。叔母さんの手伝いだけじゃなくて、台所でご飯もつくった。店に出て接客もした。胃腸にいいという薬の作り方も教わった。それから、一週間前から続けていたことの実験を行うことにした。
枕元には、豆粒ほどの大きさの種がある。茶色の種を、水を含ませた脱脂綿に下に敷いて、それを、プリンを焼くときのココットの上に大事においておいた。
うまくいけば、今晩か、明け方にかけて発芽させるはず。うまくいかなかったら、そのままだ。
この種に芽は出るのだろうか。発芽したら、どうなるのだろうか。葉の形はどんなもので、咲かせる花は、どんな色で形になるのだろうか。
――あるいは、一つの世界が始まるのだろうか。
「……これは珍しい」
じっと種を眺めていたら、誰もいない筈の部屋に、少女以外の声が響いた。
部屋の中に、一人の少年が立っていた。
少女は今、十三になろうとしたところだった。その年齢よりも、少年の外見は少しだけ上だった。只者ではないことはすぐに見て取れた。体が、ぼんやりとした青白い光を放っていたのと、向こう側が透けて見えていたからだ。
「あなたは誰?」
尋ねる少女に、少年は淡々と答えた。
「僕のことを説明するのは難しい。名前がないから。ある一人からは主と呼ばれているけれど、その一人以外僕の事を知る人はいないからね」
忘れ去られているし、と語る少年は、少女の眼からはさびしげに見えた。
何故、この少年は人の部屋に勝手に入っていたのだろうか。気配すらなかった。だが、少女は勝手に部屋に入ってきたことに関して、怒らなかった。怒っても無意味なことのように思えたからだ。
すると少年は、自分から少女のもとに来た理由を語った。
「ここに来たのは、強い種の気配があったから」
種。種と言った。この部屋にある種は、ただ一つしかない。少女は枕元の種を、少年に見せてみた。
「これの事?」
少年はゆっくりと頷いた。少年のしぐさに、静謐な、孤独のなかで育まれたうつくしさを少女は感じてしまった。それは、他者や世の中から隔絶されたもののみが、持ちうるものだった。
「これはどうして作ってみたの?」
夢みたいな、おとぎ話みたいなことをやってみたかったから、と少女は答えた。
「私はいつも考えていたの。本当に、一本の樹からせかいが始まったら、一本の樹がかみさまだったらって。ただの花が咲くのでもいいし、そうならなくてもいい。わたしが、そう思って作ったことが大事だもの」
「……珍しいね。人間はあんまりそういうことは考えないと思っていた」
だってどうでもいいことだろう、と彼は続ける。
確かに、人間が生きていくうえで、別に知らなくてもいい事実かもしれない。世界の成り立ちを知らなくても、そこで生きていくことは可能だ。この世界のかたちは歪でも、きっと誰かがいれば問題はない。
それでも、と少女は思う。
「変なことかもしれないけど、あれこれ考えるのは楽しいことだもの」
もし世界が一本の樹から出来ていたら。その一本が神だとしたら、今まで絵本で見てきた、いわゆる神という形の常識は覆されることになる。
夢のような話だと思う。だけど、その想像をするのは自由で、双であってほしいと思うことも自由なはずだ。たとえそれが、世界の常識から外れていても。
少年は種を眺めたあと、少女に告げた。
「残念だけど、この種から花は咲かない」
「どうして?」
少女は小さく聞いた。
「未熟だから。種事態に、発芽させる力がない」
「なあんだ」
失敗しちゃったのか。残念だけど、思ったほどの落胆はなかった。
「でも、君には興味ある。君みたいな若い子が、どうやってこれを作れたのか」
若い子、と目の前の少年は言う。同じ年ぐらいなのに、年輪を重ねたかのような口ぶりだった。
だが少女は気にならなかった。その少年が、そういった言葉づかいなのが当たり前のような雰囲気を持っていたからだ。
「叔母さんの手伝いなの」
全ては、その手伝いから始まった。
「叔母さんの家は、花屋なの。私はそこでちょっと、手伝いしてて。叔母さんは花を売るだけではなくて、新種を作ったりしているの」
叔母の家は、代々続く花売りの家系だった。少女の母は、叔母のことをいつも褒めていた。妹の生み出す花は美しい、私もその才能に恵まれたかったとも。妹の花をほめたたえながらも、母は自身の持つたぐいまれな才能も誇らしげにふるっていた。今思えば、叔母と母は真逆の才能に恵まれていたのだ。
――神話の中の、アンナとマルタの姉妹のように。
「へぇ……」
興味深そうに、少年が頷く。
「君、名前は?」
少女は自分の名前を告げた。目の前の少年は、その名前をかみしめる。
そして、少女に向かってこう告げた。
「――その種の、完璧な形を作ってみない?」
少女は目を輝かせた。
そこから眠れない少女と青い光の少年は、いつまでもいつまでも話を続けていた。