ウィスパー・ハッピー ~会長、現る~
窓の外は依然として雨が降り続き、時折り思い出したように青白い光が煌めく。控えめに言っても豪雨で、それに加えて風は強く、雷まで鳴っているとあっちゃ、今日の講義は全て終っているといっても帰りたくなくなってくる。
携帯で調べた天気予報によると、集中的な激しい雷雨で、あと一時間もすればやむらしい。ま、どこまで信用できるか分からないが、少なくとも一、ニ時間は足止めだろう。
俺は一人、クーラーの効いた所属するサークルの文芸研究会の部室にいた。十畳ほどの部屋には雑誌や漫画ばかりの本棚。ロッカーが十本。事務机にパイプイスが十脚前後。小さな冷蔵庫に十七インチのテレビ。それに繋がれたビデオデッキにDVDデッキ。あと、なぜか海外メーカーの黒いハードと、もう製造中止になった白いハードがある。ちなみに、会長命令で前者は『ガウェイン』、後者は『ランスロット』と呼ばないといけない。
ちょっと雨宿りで寄った部室だったけれど、もうしばらくは長居しないといけないようだし――久しぶりにゲームでもやりますか。
俺は部室のカーテンを閉め――テレビが窓際にあるため、こうしないと微妙に画面が見にくくなる――Xボ……じゃなかった、『ガウェイン』をテレビに繋ぎ、ソフトをセットする。さて、上手くすればワンランク上のプロデューサーになれるんだけれど……がんばれ、千早。
久しぶりにプレイするゲームに思いを馳せながらスイッチに手を伸ばした時、部室のドアがいきなり開いた。
「いっやー! すっごい雨だねぇー! おねーさん、びっくりだ」
陽気な声と共に入ってきたのは誰あろう、会長だった。
「あ、会長。こんち――!」
挨拶しようと入口に顔を向けたのも束の間、俺はすぐに会長から目を逸らし、そのまま背を向けてしまう。
「およ? 日下部クン? その態度はちょっとつれないというか失礼なんじゃないかい? おねーさん、キミに何か嫌われることしたかな?」
背中に不機嫌な会長の声が突き刺さる。おっしゃる通りです、会長。普段ならこんな態度取ったりしませんとも。でも今は別ですよ。なぜって、会長。それは……
「会長の服、下着が透けてますよ」
この豪雨と風だ。傘をさしても意味がなかったんだろうけれど……
「そんなことだったのかい? 日下部クンは意外にウブだねぇ」
そう言って会長は愉快そうにコロコロ笑った。次いでロッカーを開ける音がし、濡れた服を脱ぐ音が続く。
……なんか想像がしちまうな。こう、見えないだけにエロいというか。さっきの淡いピンクのブラが印象に残ってる分リアルに……
「もうこっち見てもいいよ」
言われ、ちょっとヤバイとこまで行きそうだった妄想が打ち切られる。
胸中で安堵の息をつきながら、会長へと振り返る。
「がっ!!」
瞬間、雷に撃たれてような衝撃を受け、思わず俺は仰け反った。
な、な、な、な……何で、は、裸エプロン……!
「いぇーい。男のロマーン!」
グラビアアイドルのようなポーズを取り、親指を立てた拳を突き出す会長。
「冗談は止めて下さい!」
ものすっごく見てたい欲望を振り払うように声をあげ、再び窓側へ身体を向ける。
「あれ? 気に入らない? うーん、おねーさん自信あったんだけどなー」
残念気味な声を出す会長。
破壊力は抜群でした。背が高くってスタイル良くて、やや童顔気味なほんわか美人のそんな姿を見られなんて、もう死んでも悔いはありません。見つめていたいのはやまやまです。けれど、やっぱり、そのためには俺の意気地が足りないようです……
「うーん、じゃ、せっかくだから日下部クンの好みにしようか。何がいい? メイドさん? 巫女さん? ナース? バニー? 女教師もあるよ。あ、もしかしてスク水とか? きゃ、やだなぁ、日下部クン」
「何でもいいですから、とにかく服を着て下さい」
勝手に人の嗜好を想像して勝手に照れないで欲しいなぁ……
ぶー、つまらないなぁ、とかぼやく声と一緒に衣ずれの音がしばらく続き――
「もう、いぃーよぉー」
かくれんぼしてる子供のような節をつけて会長は着替えの終了を告げてきた。だけれどさっきのことがある。油断は出来ない。
「本当ですか? ちなみに今、どんな格好ですか?」
「露出の少ない格好」
一番のネックがそれだから、及第点の返答ではある。
やれやれと思いつつ、俺はゆっくりと会長へと身体を向けた。
――サンタがいた。
絵本の中にいるようなスタンダートなものではなく、同じ本でも成人向け雑誌の表紙を飾りそうな、ノースリーブのヘソ出しミニスカサンタだ。
「………………」
言葉が無い。裸エプロンよりおとなしいけれど、これはこれでやっぱり異様だ。
「ほら、日下部クン。感想は?」
満面の笑顔で訊いてくる。
「……よくお似合いです」
「やったー! おねーさんの勝ちぃ!」
何が勝ちかは分からないが、どうでもいいような得体の知れない敗北を感じたのは確かだった。
◆
「そういえば吉永ちゃんはどうしたの? 別れちゃった?」
俺の前に座った会長は、突然そう切り出した。
「いきなり滅多な事を言わないで下さい」
今更改めて言う事ではないと思うけれど、吉永はまあ、世間で言うところの俺の彼女だ。
「キミ達いつも一緒にいるじゃない。それが今日はキミ一人だけ。誰だってフラれたって思うわよ」
確かに最近は二人でいる事が多いから、吉永が隣りにいないというのは周りから見れば珍しいことかもしれない。だからって、俺がフラれたと決め付けるのは、何気に酷くないだろうか?
「吉永は親戚の結婚式だとかで家族と一緒に地元に戻ってますよ。帰ってくるのは明後日です」
「そうなんだ。ちょっとつまらないな」
「つまらなくていいんです。俺の恋路を何だと思ってるんですか」
「んー? 教えて欲しい?」
「……遠慮しときます」
ニタリ、とした笑みと共に言う会長。癒し系の顔のため、こういう表情をされると見えない刃に囲まれているような妙な怖さがある。
「それじゃさ。吉永ちゃんとはどうなの?」
「どうと言われても……まあ、普通に」
興味津々に目を輝かせてミニスカサンタが聞いてくる。が、詳しく答えるのもあれなので適当にぼやかした。
「日下部クン。人のやる事に『普通』とか『標準的』なんてものはないんだよ?」
人指し指を立て、会長は妙に大人びた顔で言ってくる。
言わんとする意味が分からない俺を察してか、会長は続けて二の句を継いだ。
「例えばテストなんかでさ。日下部クンが出来た出来ないを客観的に判断しようとした時、何を使う?」
「そうですね……平均点、でしょうか?」
とりあえず、素直に質問に答える俺。
「だろうね。平均点が一番分かりやすい『普通』で『標準』だね。じゃあ、クラスに全教科平均点の子がいたとしたら……その子は普通かな?」
表情こそにこにこした笑顔だけれど、目にはどこか探るような光をたたえて俺を見る会長。
もし、仮にそんなやつがいたとしたら――そいつはきっと『普通』じゃない。そこまで平たいのは異質だ。異質はもう、普通にも標準にもなりえない。
「そういうこと。普通なんてのは概念だけであって実体はない。数字のゼロみたいなもんだよ。ないのにあるってね」
おねーさんはゼロって好きだけどね、と付け足した。
「で、実際どうなの? チューくらいはしたんでしょ? それともその先まで? やん、日下部クンたら」
だから想像を捏造して頬を赤らめないで下さい。
「会長が考えているようなことは何もありませんよ。残念ながら」
隠しても仕方ないので正直にそう言った。
吉永が他人とこういう関係になった経験は皆無だし、俺にしたって……情けないことだけれど経験は少ない。なので、まあ、そういうことだ。
「嘘……本当に何も無いの? キスもしてないの?」
意外そうに目を丸くして会長にそう言われると……なぜだろうね。何だか悪い事をしているような気分になってくるのはどういうことだろうね? 全然悪くないのに目の前で女の子に泣かれてしまった時に感じる罪悪感のような感覚だ。
「もしかして……日下部クン…………不能?」
「なんてこと言うんですかあんたは!?」
心底哀れむような顔で言われ、思わず立ち上がり、叫んでしまう。こ、この人言うに事欠いてよりにもよってそんなことを言うのかよ……!
「だって……」
「だってもロッテもないです。そんな事実はまったくもってこれっぽっちもありません!」
力いっぱいに否定する。と、会長は何か考えるような顔を作り、
「ふぅん……なら、日下部クンに根性が無いだけ?」
くっ! この人は次から次に人の心をえぐるようなことばかりを……!
「あ、ごめん。気にしてた?」
だから逆に聞いちゃいけなかったかしら的な心配気というか、哀れむような顔をされると余計にヘコむんですって。
この人は絶対計算してわざとやってるよ……
「へーへー、そうですよ。俺はヘタレで意気地ナシで甲斐性ナシで根性ナシですよ。よく吉永にも言われます」
開き直って憮然とし、俺は不愉快な顔を作る。
「へぇ。……吉永ちゃんはそんなこと言うんだ……」
てっきり、かさにかけて茶化してくると思ったんだけれど、どういう訳か会長は真面目な顔をし、伏せ目がちに考え込むように呟いた。
「……会長?」
意外な反応に眉をしかめながら声をかける。と、会長は顔を上げて真正面から俺を見た。
「おねーさんと練習しよっか?」
「え? 練習?」
急に出てきた予想もしなかった言葉を、俺は鸚鵡返しする。
「んー? とりあえずキスの」
……何を言い出すんだろうね、この人は。どう考えればそんな話になる? 会長の思考回路は俺のような凡百な凡人には及びもつかないものなのは前から知っていたけれど、だけどその発想はどこのエロゲですか?
これからの展開に期待するどころか、逆に軽く引いてしまっている俺に構わず会長は言葉を続ける。
「やっぱり物事ってのは才能が占める部分も確かにあるけど、練習と経験も欠かすことの出来ない重要なファクターなのは間違いないことだし。日下部クンに足りない、そんな才能や経験を補うためにおねーさんが一肌脱いであげようってこと。うーん、おねーさんってばなんて後輩思いっ!」
さも名案のように提案されても困ってしまう。おそらくは一も二も無く飛び込んでしまうような状況なのかもしれないが……やっぱりなぁ……
煮えきらず、どうしたもんかと思案して逡巡していると、
「おねーさんじゃ……嫌?」
弱々しい、半ば泣きそうな震える声で会長は表情を曇らせた。
「い、いや……そんなことはないですけれど……」
俺には吉永がいる。だから、ここは断る場面であるのは間違いない。だけれど、思ってもみなかった会長の反応に俺は戸惑い、曖昧に答えて口ごもってしまう。
「なら、さ」
妙に色っぽい、妖艶とも言える表情と口調と息遣い、そして動作で以って会長は俺の隣に座り――――瞳を閉じた。
うるさかった雨音が急に静かになった。全身に響く心臓の音しか聞こえなくなり、全速力で走るよりも鼓動が早くなる。
ナンダ? ヤバイ? コレハ? ドウスル? ナゼダ? イクノカ? ダメ? ケレド?
頭の中が真っ白に、そして疑問詞だけが答えの無い問いをぶつけてくる。
Be or not to be. いやさDead or alive.
――だめだ。
据え膳喰わぬは何とやらとは言うけれど、それはやっぱりだめなんだ。
結論し、俺は会長の柔らかそうな唇に自分のそれを重ねたい欲望を必死に抑え込む。
と、いきなり会長は目を開けた。
「ていっ!」
言うや、会長はやや広めの額を突き出してきた。完全に不意を突かれた結果、俺はヘッドバッドをくらってしまう。
痛みは全然たいしたことはないけれど、会長の突然の奇行に驚き、言葉が出ない。
「ふふん? ひっかかったね、日下部クン?」
会長は得意満面に言ってくる。
「おねーさんはそんな簡単に身売りするような安い女じゃないんだよ?」
渾身のいたずらが成功したかのように笑いながら会長は俺から離れるとロッカーを開けた。続けて中から黒いサマーコートを取り出して羽織る。
「おねーさんはもう帰るよ。雨も止んだみたいだしね」
その時になって、ようやくまとまな思考を取り戻した俺は、緩慢な動きで確かめるようにカーテンを開けた。
雨は嘘のようにあがっていた。それどころか雲の切れ間から光が差し込んでさえいる。
「それじゃ、日下部クン。またね」
「あ、はい。お疲れ様です」
いつの間にか部室の入口まで歩いていた会長に、半ば反射的な動きで挨拶を返す。
「あ、そうだ日下部クン」
ドアノブに手をかけ、扉を開けながら会長は振り返る。コートの前はしっかりと閉ざされていた。いかに会長といえど、さすがにあの格好で外は歩かないらしい。
「おねーさんは安い女じゃないけれど――日下部クンがもう少し積極的だったら、分からなかったんだよ?」
え? それってどういう……?
疑問を言葉にする前に、会長は外へと出てしまっていた。
「…………ふう」
開きかけた口を閉じ、出かけた言葉を飲み込むと、代わりにとばかりに軽く息だけを吐く。
からかわれた――んだよな? 最初から最後まで手抜かり無く、一から十まで余すところ無くからかわれたんだよな? 腹を立てるべきシーンだよな?
もしかして、なんていう可能性を考えるのは傲慢だよな、うん。
期待しちゃいけない。希望を持っちゃいけない。
期待なんてのは実体の無い気体と音が一緒だし、希望なんて世界の災いを閉じ込めたパンドラの箱の一番奥に入っていたくらいにタチが悪いシロモノだ。
何となく重くなった腰を上げ、机の上に置いてあったリュックを背負う。家に帰ったら吉永に電話をしようと考えながら、俺は部室を後にした。