第14話 卯ノ花さゆりは、尽くしたい
放課後の生徒会室には、いつもより静かな空気が満ちていた。
窓から差し込む冬の夕陽が、磨き上げられた机の上を橙色に染めている。今日は、さら会長が理事会関連の面談で不在、海寧先輩も弓道部の合同練習が長引いているとのことで、まだ生徒会室に顔を出していなかった。残されたのは、書類の整理を続けるさゆり先輩と、その手伝いをする私の二人だけ。
いつもなら賑やかな声が飛び交うこの部屋も、今日ばかりは、ページをめくる音と、ペン先が紙を滑る音だけが、静かに響いていた。
「今日は、随分と静かですね」
私がぽつりと呟くと、さゆり先輩は手元の書類から顔を上げ、くすりと笑った。
「そうね。会長がいると賑やかだし、海寧ちゃんがいると、なんだか気が引き締まるから、いないとなんだか物足りないくらい」
「分かります。生徒会室って、あの二人がいてこそ、って感じがします。もちろん、さゆり先輩も!」
「ふふ、梅沢さんも、すっかり生徒会に馴染んだのね」
最後の書類を綴じ終えると、さゆり先輩は伸びをするように肩をほぐし、カップを片付け始めた。
「今日も、お疲れさま。梅沢さん」
「いえ、私はいつも手伝わせてもらってるだけなので。むしろ、ありがとうございます!」
「そんな謙遜しなくていいのに」
さゆり先輩は、ふとこちらを振り返った。窓辺に立つその姿に、夕暮れの光がやわらかな輪郭を与えている。
「ねえ、梅沢さん」
「はい?」
「いつも生徒会のお手伝い、ありがとう。そのお礼も兼ねて……近いうちに、私の家にご飯でも食べに来ない?」
不意打ちのような誘いに、私は目を瞬かせた。
「え、いいんですか!?」
「もちろん。前にも一度、紫苑と一緒に来てもらったことがあったでしょう?あの時みたいにまた、ゆっくりあなたとお話したいって思っていたのよ」
さゆり先輩は、内緒話をするように、少しだけ声のトーンを落とした。
「今度は、二人だけで、どうかな?」
その言葉には、いつもの穏やかな微笑みの奥に、ほんの少し、悪戯っぽい響きが滲んでいた。
「ぜひ、お邪魔させてください!」
私が笑顔で答えると、さゆり先輩は満足そうに目を細めた。
夕暮れの空には、一番星がぽつりと瞬き始めていた。
「それじゃあ、日程はまた連絡するね」
「はい!楽しみにしてます」
連絡先を交換し、戸締りを終えて、二人並んで生徒会室をあとにする。人気の少なくなった廊下に、私たちの足音だけが規則正しく響いていた。いつもと変わらないはずのやり取りなのに、なんだか少しだけ、特別な約束を交わしたような、くすぐったい気持ちが胸に残っていた。
◇
約束の休日。
さゆり先輩のマンションを訪れるのは、今回で二度目。エントランスの重厚な扉をくぐり、案内された部屋の前に立つと、以前と変わらない、ほんのりと甘い香りが扉の隙間から漂ってくる。
インターホンを押すと少し弾んだ足音がして、すぐに扉が開いた。
「いらっしゃい、梅沢さん」
出迎えてくれたさゆり先輩は、家庭的なフリル付きの可愛らしいエプロン姿だった。淡いピンク色の髪を今日は緩やかに編み込んで一つにまとめている。その柔らかな雰囲気は、生徒会室で見せる姿とはまた違う、素の彼女らしさを感じさせた。
「お邪魔します!」
靴を脱ぎ、リビングへ足を踏み入れると、キッチンのコンロには、蓋をされた鍋がことこと弱火にかけられていた。ふわりと漂う出汁の香りに、お腹が小さく鳴る。
「スープは、あとで温め直してから出すね。今のうちに、デザートを仕上げてしまいましょう」
さゆり先輩は、ダイニングテーブルの上を指し示した。彩り豊かな前菜が並ぶ横に、これから仕上げるのだろう、生地の準備されたタルト皿が置かれている。
「うわあ……!もうこんなに用意してくれたんですか!?」
「まだ全部じゃないのよ。デザートは、これから梅沢さんと一緒に作ろうと思って」
「一緒に、ですか?」
「ええ。手伝ってもらえたら、嬉しいな」
促されるまま、私はエプロンを借りて、さゆり先輩の隣に立った。少し大きめのエプロンは、以前さゆり先輩が使っていたものなのか、袖口からふわりと同じ柔軟剤の香りがした。
「梅沢さん、こういうお菓子作り、したことある?」
「それが、あんまり……。家では、パパが張り切ってオムライスとか作ってくれるんですけど、お菓子はほとんど」
「あら、それも素敵ね。今度、そのお話も聞かせてほしいな」
さゆり先輩は、手早くボウルへ材料を量り入れていく。
キッチンに並ぶと、さゆり先輩の手際の良さに、つい見惚れてしまう。フルーツを均等な厚さにスライスする包丁さばき、生クリームを泡立てる手首の返し方、どれをとっても、無駄な動きが一つもなかった。
「さゆり先輩、本当にお料理お上手なんですね!」
「小さい頃から、家でよく手伝っていたの。……それに」
さゆり先輩は、クリームを絞りつつ、少しだけ照れくさそうに笑った。
「誰かに美味しいって言ってもらえるの、単純に嬉しいから。それだけよ」
その表情は、噂に聞いていた通りの優しくて、家庭的で、女の子の憧れそのものだった。
(本当に、理想のお姉さんって感じの人だ)
私はさゆり先輩の隣で、フルーツを丁寧に並べていく。慣れない手つきで苺を並べていると、さゆり先輩がそっと私の手元を覗き込んだ。
「そこはもう少し、間隔を詰めた方が綺麗に見えるわよ」
「あ、本当だ」
「上手、上手」
さゆり先輩は、私の頭を軽く撫でる。子ども扱いされているようで少し照れくさかったものの、その手つきがあまりに自然で優しいから、嫌な気持ちには少しもならなかった。
一方のさゆり先輩は、そんな私の横顔を、時折そっと盗み見ていた。
(海寧ちゃんも、さらちゃんも……。以前から、二人の様子には気づいていた。海寧ちゃんが珍しく感情を露わにする瞬間も、さらちゃんが見せる年相応の無邪気な笑い方も、すべて、梅沢さんが現れてから増えたものだった。大切な二人が心を許す相手なら、自分の目でも見ておきたい)
さゆり先輩は、小さく首を傾げ、生クリームを絞る手を動かし続けていた。
タルト生地に、丁寧に並べられたフルーツ。その上から、さゆり先輩が艶やかなナパージュを刷毛で塗っていく。仕上げに添えられたミントの葉一枚にまで、彼女らしい丁寧さが宿っていた。
「わあ……お店に並んでるみたいです!」
「大袈裟よ。でも、そんなふうに言ってもらえると嬉しいな」
完成したタルトを眺め、さゆり先輩は満足気に頬を緩めた。
窓の外では、冬の澄んだ午後の光が、キッチンいっぱいに柔らかく降り注いでいた。
タルトが無事に仕上がると、さゆり先輩はキッチンの端に置かれていたもう一つのボウルを引き寄せた。
「さて、こっちも仕上げてしまいましょうか。前菜はもう並べてあるから、あとはメインに添えるちょっとしたピクルスだけ」
「あ、それなら私がやります!」
せっかく手伝いに来たのだから、少しでも役に立ちたい。そんな気持ちで、私はまな板の上に置かれた人参を手に取った。
「梅沢さん、細切りにできる?」
「はい、任せてください!」
自信満々に請け合ったものの、実際に包丁を握ってみると、思っていたよりも上手くいかなかった。人参の硬さに手こずり、力の加減が定まらない。
「あ、危ないから、もう少しゆっくりで大丈夫よ!」
さゆり先輩の声が聞こえた、まさにその瞬間だった。
包丁の刃先が、力の入りすぎた勢いのまま、指先をかすめる。
「──っ、痛……!」
思わず小さな声が漏れた。左手の人差し指に、じんわりと赤い線が滲んでいく。
「梅沢さん!」
さゆり先輩の声が、一瞬で鋭さを帯びた。普段の柔らかな口調とはまるで違う切迫した響き。彼女は包丁を取り上げるように私の手からそっと外すとすぐさま私の手を自分の両手で包み込んだ。
「大丈夫?見せて」
「あ、あの、大した傷じゃ……」
「いいから、見せて」
有無を言わせない声だった。私はおずおずと、傷ついた指を差し出す。
さゆり先輩は蛇口をひねり、流れる水の下へ、私の手を優しく導いた。冷たい水が傷口を伝う感触に、身をすくめる。
「痛かったでしょう。ごめんなさい、目を離してしまって」
「い、いえ、私の不注意だっただけで……!」
気丈に取り繕ってみせながらも、私は内心少し戸惑っていた。さゆり先輩の顔が、思いのほか近い。水を止め、清潔なガーゼで傷口を押さえるその手つきは、丁寧を通り越して、どこか必死ささえ感じさせるものだった。
「絆創膏、こっちにあるから」
さゆり先輩は私の手を引くようにして、洗面所へと促す。救急箱を取り出す手つきにも、迷いがなかった。
「さゆり先輩、応急処置、慣れてますね」
「……昔、よく怪我をする友達がいたの」
その言葉を口にした瞬間、さゆり先輩の表情に、ほんの一瞬だけ、何か懐かしむような、それでいて少し寂しそうな影がよぎった。しかし、それはすぐに、いつもの穏やかな表情に覆い隠されてしまう。
「はい、これで大丈夫」
丁寧に貼られた絆創膏を見つめ、さゆり先輩は、私の指先を、傷に障らないよう、そっと両手で包み込んだ。
「痛くない?」
「あ、はい……。もう、平気です」
「よかった」
安堵したように呟くさゆり先輩の顔は、思っていたよりもずっと近くにあった。洗面所の柔らかな照明の下、彼女の瞳が、心配そうに私を見つめている。
(近い……)
心臓が、不自然なくらい速く鼓動を刻み始める。いつもの穏やかで包容力のあるさゆり先輩とは、少し違う距離感。大切な何かを確かめるような、真剣な眼差しだった。
「さゆり先輩?」
「あ……。ごめんなさい、つい」
我に返ったように、さゆり先輩は一歩、後ろへ下がった。頬に、うっすらと朱が差している。
「梅沢さんが怪我をしたのを見たら、なんだか、我を忘れてしまって」
「そんな、大袈裟ですよ」
「大袈裟じゃないよ」
さゆり先輩は、眉を下げた。声の端に、どこか譲れない強さが宿っていた。
「私、大切な人が傷つくのを見るのが、昔から苦手で。つい、必要以上に構ってしまうの」
「大切な、人……」
その言葉に、私はなぜだか、頬が熱くなるのを感じた。
「ち、違うの!もちろん、梅沢さんに対しては、可愛い後輩として、という意味で!」
慌てたように付け加えるさゆり先輩の様子に、私は小さく笑ってしまった。
「ふふ、さゆり先輩でも、慌てることあるんですね」
「もう、からかわないで」
さゆり先輩の表情は、いつもよりずっと柔らかく、少しだけ、無防備なものに見えた。
「さあ、キッチンに戻りましょう。せっかくのお料理が、冷めてしまうわ」
気を取り直すように頬を緩めると、さゆり先輩は私の手を取り、キッチンへと導いた。
繋がれた手のひらから伝わる体温は、思っていたよりもずっと温かくて、私はその温もりをなぜだかしばらく、離したくないと思ってしまった。
◇
温め直したスープと、彩り豊かな前菜、さゆり先輩自慢のメイン料理。ダイニングテーブルに並んだ料理を前に、私たちは向かい合って席についた。
キャンドル代わりに灯された、小さな照明の柔らかな光。湯気の立つスープからは、優しいコンソメの香りが立ちのぼっている。
「いただきます」
「召し上がれ」
一口食べた瞬間、声がこぼれた。
「美味しい!!」
「よかった。梅沢さんの口に合うか、少し心配だったの」
さゆり先輩は、ほっとしたように目を細める。その表情は、いつもの生徒会室で見せる顔つきよりも、ずっと柔らかく、無防備なものに見えた。
メインの鶏肉料理は、皮までぱりっと香ばしく焼き上げられ、口に運ぶたびに、丁寧に仕込まれたソースの深い味わいが広がっていく。付け合わせの野菜も、一つひとつに火の通り方まで気を配られているのが分かった。
「本当に、お店みたいですね。さゆり先輩、いつもこんな凝った料理を?」
「そんなに毎日というわけじゃないの。ただ、誰かをお招きする時は、つい張り切ってしまうところがあるかな」
「私のために、こんなに……」
「当然でしょう?梅沢さんに来てもらうんだもの」
さらりとしているのにどこか重みを持って返されたその言葉に、私は箸を止めた。
食事が進むにつれて、会話も自然と弾んでいく。学院の授業のこと、クラスの友人たちのこと、そして──気づけば、いつの間にか話題は、恋バナへと移っていた。
「そういえば、梅沢さんは、気になる人とかいるの?」
紅茶を淹れ直し、さゆり先輩がさりげなく尋ねてくる。湯気の向こうから注がれる視線には、単なる好奇心以上の、何か探るような温度があった。
「え、えっと……」
言葉に詰まる私を見て、さゆり先輩は、おかしそうに口元をほころばせた。
「答えにくいなら、いいのよ。でも、私は結構、そういう恋のお話とかも好きなんだ」
「さゆり先輩は、好きな人とかいるんですか?」
思い切って聞き返すと、さゆり先輩は少しだけ考え込むような表情を見せた。
「……過去に、好きになった人ならいたよ」
「どんな人だったんですか?」
「うーん。今思えば、大したことじゃなかったのかもしれないけれど」
さゆり先輩は、少し懐かしむように視線を宙へ漂わせた。
「その人は、優しくて、頑張り屋で。でも、いつも別の誰かばかり見ていたの」
「別の誰か、ですか」
「ええ。私は、ずっとその隣にいたのに、なかなか気づいてもらえなくてね。今となっては、笑い話だけど」
口元をほころばせた横顔には、それでもまだ、微かに苦い記憶の色が残っているように見えた。私は、それ以上踏み込んでいいものか迷い、静かに次の言葉を待つ。
「その時に学んだの。想いは、待っているだけじゃ、なかなか届かないものなんだって」
「さゆり先輩……」
「だから今度は、好きになったらちゃんと自分から動くって、決めてるんだ」
静かな決意を宿した声だった。
「それに」
さゆり先輩は、紅茶のカップを両手で包み込み、少しだけ照れくさそうに続けた。
「私、好きな人にはつい、尽くしてしまうタイプで。相手が困っていたら、頼まれてもいないのに先回りして手伝ってしまったり……。相手の好きなものを覚えて、それとなく用意してしまったり」
「それはすごく嬉しいと思います!」
「嬉しいこと言ってくれるのね。……でも、時々、自分でも、少しやりすぎているんじゃないかって、思うこともあるのよ」
さゆり先輩は、寂しさとおかしみが入り混じったような笑みを浮かべた。
「相手のことを考えると、止まらなくなってしまうのよね。もっと喜んでほしい、もっと私を見てほしいって。気づけば、自分でも制御できないくらい」
いつもの穏やかな口調の中に、ほんの少しだけ切実な響きが混じっていた。私は自然と彼女の話に引き込まれていた。
「さゆり先輩みたいに優しい人が尽くしてくれたら、絶対嬉しいと思います。私だったら、すごく大切にされてるんだなって、幸せに感じると思う」
無意識のうちに、そんな言葉が口をついて出ていた。
さゆり先輩の手が、カップを持ったまま、ぴたりと止まる。
「梅沢さんって、本当に、無自覚にそういうこと言うのね」
「え?」
「ううん、何でもないわ」
さゆり先輩は、頬をほんのり赤らめ、そっと顔を背けた。
「ただ、ちょっと……ドキドキしてしまっただけ」
「え、ええっ!?」
慌てる私を見て、さゆり先輩は、いつもの柔らかい笑みを取り戻し、小さく息をついた。
「梅沢さんは、本当に不思議な子ね。海寧ちゃんも、さらちゃんも……あなたのことになると、いつもと違う顔を見せるから」
「そう、なんですか?」
「最初は、それが気になって仕方なかったの。あの二人が、どうしてこんなに梅沢さんのことを気にかけるのか、ずっと不思議だった」
さゆり先輩は、カップの縁を指先でなぞり、どこか寂しそうに微笑んだ。
「でも、今日一緒に過ごしてみて、なんとなく分かった気がする」
「私、何もしてないですけど……」
「それがいいんだと思う」
さゆり先輩は、優しく目元を和らげた。
「何も飾らず、真っ直ぐで。誰かのために動くことを、当たり前みたいに、自然にしてしまう。そういうところに、みんな惹かれるんじゃないかな」
独り言のように、静かに紡がれた。さゆり先輩は、少しだけ俯き、カップの中の紅茶をゆっくりと揺らした。
「海寧ちゃんも、さらちゃんも、私にとっては、何よりも大切な人たちだから。……二人が心を許しても大丈夫な相手なのか、確かめておきたかっただけ。それだけの、はずだったんだけどな」
「え?」
「今日、一緒に過ごしてみて、思ったより、楽しかったから。……なんだか、調子が狂ってしまうわね」
さゆり先輩は小さく笑った。困ったような、それでいて、どこか嬉しそうな表情だった。
「さらちゃんや海寧ちゃんも素敵よ。でも……」
さゆり先輩は、そこで一度言葉を切ると、少しだけ悪戯っぽく、少し本気の色を滲ませた瞳で、私を見つめた。
「たまには、私のことも、見てみて欲しいな」
その一言に、私の心臓は、大きく跳ねた。
「さゆり先輩……」
「なんて。ただの、お姉さんのわがまま」
冗談か本気か、掴めない声のトーンで囁くと、さゆり先輩はいつもの穏やかな微笑みへと戻る。その頬には、まだ隠しきれない赤みが差していた。
冷たく澄んだ夜の気配が、そっと部屋を包み込んでいく。二人分の紅茶の湯気が、静かなリビングに、ゆっくりと立ちのぼっていた。
◇
食事もデザートもすっかり平らげ、時計の針が思いのほか遅い時間を指していることに気づいたのは、二人でタルトの最後の一切れを分け合った後のことだった。
「あら、もうこんな時間」
窓の外はすっかり夜の帳が下り、遠くの街並みに、ぽつぽつと明かりが灯り始めている。空になった食器を並べて片付けながら、私たちはどちらからともなく、名残惜しさを感じ始めていた。
「後片付け、手伝います」
「いいのよ、これくらい。それより、これ以上遅くなる前に帰らせてあげないと」
言葉とは裏腹に、さゆり先輩の手は、いつもよりゆっくりと動いているように見えた。皿を重ねる仕草一つにも、この時間を少しでも引き延ばしたいという気配が、そこはかとなく滲んでいる。とは言え、あまり遅くなってしまっても先輩のご迷惑になるかもしれない。
「そろそろ、お暇しますね。今日は本当に素敵な時間をありがとうございました!ご飯もデザートもお茶もすごく美味しかったです!」
私が立ち上がると、さゆり先輩も名残惜しそうに椅子から腰を上げた。
「こちらこそ、来てくれてありがとう。楽しい時間だったわ」
玄関まで見送ってくれるさゆり先輩の後を私はゆっくりとついていく。コートを羽織り、私は不意に絆創膏を貼った指先に目を落とした。
「指の手当もすみません。お陰様で、もう痛くないです」
「よかった。無理はしないでね」
さゆり先輩は私の手を取ると、絆創膏の上から、そっと指先を撫でた。宝物にでも触れるような、優しい仕草だった。
「梅沢さん」
「はい?」
「また誘ってもいいかな?」
その声には、いつもの穏やかさの中に、隠しきれない期待が覗いていた。
「はい、ぜひ!また来たいです!」
その返事にさゆり先輩は、これ以上ないくらい嬉しそうに、表情をやわらげた。
「約束ね」
玄関の扉を開けると、冬の冷たい夜気が、頬を優しく撫でた。
「気をつけて帰ってね。……あ、待って」
さゆり先輩は思い出したように部屋の奥へ戻ると、小さな紙袋を手に、すぐに戻ってきた。
「これ、余ったタルト。おうちで召し上がって」
「わあ!いいんですか?」
「もちろん。……それに」
さゆり先輩は、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「これを口実に、また話せるでしょ?」
その一言に、私はつい笑ってしまった。
「さゆり先輩、案外策士ですね」
「ふふ、どうかな」
くすくすと笑い合い、私たちはしばらく玄関先で他愛のない言葉を交わした。
「それじゃあ、また学院で」
「はい。今日は本当にありがとうございました!」
深く頭を下げると、さゆり先輩は最後にもう一度、優しく手を振ってくれた。
「気をつけてね、杏奈ちゃん」
その声が、扉が静かに閉まる音とともに、夜の静けさに溶けていく。
◇
マンションを出て、駅までの道を一人歩き、私は今日一日の出来事をゆっくりと振り返っていた。
丁寧に仕込まれた料理の数々。一緒に作ったタルト。指を切ってしまった時のあの必死な眼差し。それに、恋バナの最中に零れた、少し切実な本音の数々。
(さゆり先輩って、本当は、あんな一面もあったんだ)
生徒会室で見せる穏やかで、誰にでも優しい理想のお姉さん。そのイメージの奥に、これほどまでに情熱的で、時に不器用な一面が隠れていたなんて、今日会うまでは、想像もしていなかった。
(「たまには、私のことも見てみて欲しいな」……か)
冗談めかしたその一言を思い出すと、なぜだかくすぐったいような気持ちになる。
夜空を見上げると、冬の澄んだ星々が、静かに瞬いていた。海寧先輩、さら会長、それから今日出会った、もう一つのさゆり先輩の顔。この学院に来てから出会った、それぞれに違う輝きを持つ人たちのことを思うと、なんだか不思議な気持ちになる。
(みんな、私の知らない顔をまだたくさん持ってるんだろうな)
手にした紙袋の中で、タルトの甘い香りが、かすかに揺れていた。それは、今日という一日が、特別なものだったのだと、静かに教えてくれているようだった。
冷たい夜風に頬を撫でられて、私は駅までの道を少しだけ弾んだ足取りで歩いていった。
◇
扉が閉まり、部屋に静寂が戻った後も、さゆりはしばらくの間、玄関先に立ち尽くしていた。
(今日は、随分と喋りすぎちゃった)
自嘲するように小さく笑い、リビングへ戻る。テーブルの上には、まだ二人分の紅茶の香りが、ほのかに残っていた。
空になった食器を片付けたさゆりは、今日一日の出来事を一つひとつ丁寧に思い返していた。
指を切った杏奈を見た瞬間、頭の中が真っ白になったこと。応急処置をする自分の手が、柄にもなく少し震えていたこと。それに、恋バナの最中、気づけば零れていた、あの本音。
(たまには、私のことも見てみて欲しいな……なんて)
自分の口から出た言葉を思い出すだけで、頬が火照るのを感じる。あんな風な言葉を漏らすつもりなど、少しもなかったはずなのに。
(最初は、二人のことが気になっていただけだったんだけどな)
海寧やさらが、なぜあの後輩にあれほど心を動かされているのか。それを確かめたいという気持ちだった。少なくとも、今朝までの自分は、そう思い込んでいた。
けれど。
洗い終えた皿をシンクに並べつつ、さゆりは、静かに自分の胸へ手を当てた。
指を切った瞬間のあの息が止まりそうになるほどの動揺。何気ない一言に、こんなにも簡単に心を揺さぶられてしまう自分。それらはもう、ただの心配や気遣いという言葉だけでは、片付けられないものになっていた。
(う~ん、困ったわね……)
さゆりは、夜空を見上げ、小さく息を吐いた。
これまで、誰かに対してここまで感情を乱されることなど、なかったはずだった。大切な人であればあるほど、自分は一歩引いて見守り、その関係を陰から支える側に回る。それが、深く想うがゆえの、自分なりのやり方だと思っていた。
(思えば、いつもそうだった)
さらや海寧のように誰かの一番に躊躇なくなれる人間ではないと、さゆりはどこかで分かっていた。誰かを支える側、見守る側。それが自分に与えられた役目で、それ以上を望んだことなど、一度もなかったはずだった。
だが、今日の杏奈は、何度も真っ直ぐにこちらを見てくれた。生徒会室での自分でも、さらや海寧の隣にいる自分でもなく、ただの「卯ノ花さゆり」を、見てくれた。
(誰かに、真っ直ぐ見てもらうって、こんなにも……)
しかし、今のこの胸の高鳴りは、そうした立場とはまるで違う場所から、静かに、確かに淡く芽生え始めていた。
「……可愛い後輩、か」
誰に聞かせるでもなく呟くと、さゆりは、テーブルの上に残った小さなタルトの欠片をそっと口に運んだ。
甘さの中にほんの少しだけ、切なさにも似た味がした。
空には、凍えるほど澄んだ星々が、変わらず静かに瞬いていた。この日を境に、さゆりの中で密やかに芽生えた想いが、これからどんな色に育っていくのか──それはまだ、彼女自身にも、分からないままだった。




