第1話 二三時発の夜行
〝歴史の転換点〟というものは、そこに居合わせた者にそれと判るものではなかった。
後から思い返してみて、〝ああ、あれがそうだったか〟とおぼろげに判じることができる、そういったものなのであった。
少なくとも私は、あの年の四月の夜に、中央駅南面の三番ホームに立ったマルツェル・クビェナの堂々たる偉丈夫ぶりを見たときでさえ、何ら予兆らしきものを感じなかった。
私はアルフレート・コウデラ。
当時、エイゴー大公国府で官房附次席筆記官をしていた。
九八七年四月一九日、
カシャ行き夜行列車の個室客車の一室――…
「――…大公国府から〝切れ者〟の筆記官が同行すると聞いていたが、アルフレート、オマエがその〝切れ者〟というわけか」
よく言えば豪放磊落、悪く言えば臆面のない彼の性格そのものの声音で、マルツェル・クビェナ子爵は言った。
大公国六邦の一つ、シエルダナ公国の君主カシュパル・カロウセク公爵の外孫でもある子爵家の当主は、この年、三四歳。
人を食ったもの言いをしつつ、それでいて非の打ち所の無い所作で寝台の上に身を投げ出した子爵は、笑みを浮かべて相席者を見上げた。
応答を待つその視線の先のコウデラは、手荷物を荷棚に放り上げてから旧友を向いた。
「不服かな? 閣下」
こちらもまた、生粋のシエルダナ貴族を前に一応は〝閣下〟と敬称で呼び掛けていたとしても、いっこうに気後れのない言い様である。
クビェナは、自然と笑みの浮いた顔を、二歳ほど年少の旧友に向けて言った。
「いや。確かに適任ではないかと思い始めたところさ」
彼は生まれながらに子爵だった。
閣下と呼び習わされてこれまでを生きてきている。
彼にとっては、それが普通のことなのだった。
そういう彼を、コウデラはよく知っていた。
そしてクビェナの古い知己であることが、コウデラがこの旅の同行者に推された理由であった。
やがてホームに発車合図の汽笛が鳴り、音が消える前に人の吹く笛が応じる。
機関の回る振動を感じたので、コウデラも寝台に腰を下ろした。
引っ張り出した懐中時計の文字盤は、二三時ちょうど。
動輪が線路を掴んで前へと滑り出す。
定刻の通り、列車は走り出した。
* * *
統一大陸歴九八七年という年には、大陸(※この惑星に大陸は一つしかない)のほぼ全ての列強が、その植民地・衛星国ごと参戦した史上初めての〈大戦争〉の終結から四二年、開戦からでは四八年が経っている。
東西両陣営が人員、経済力、および工業・魔法技術を広範かつ無制限に動員した戦いは、総力戦という様相を呈した末に終わった。
六年にわたる災禍が終結したとき、エイゴーの貴族諸家が宗主と仰いだエステルマク=マジャル二重帝国は解体の憂き目を見た。
三帝同盟として共に西方と戦った帝政オトマン・テルカも、共和制へと移行していた。
長い歴史を誇った二つの帝国が消滅して、ようやく平和が訪れたことになる。
大戦争後の生まれのコウデラとクビェナは、その平和の時代を生きた。
戦火の止んだ直後の時代、いわゆる危機の時代を二人は知らない。
パクス・コンソルティス(多国間協調による平和)の時代だ。
大戦争後の国際情勢下における新たな枠組み、〝西方協商連合〟と〝東方神聖帝国とその諸衛星国家〟との対立構造の上に揺蕩う仮初の平和の時代。
その欺瞞の渦中の、当に東西陣営の狭間に緩衝地帯として残されたエイゴーに、二人は生きている。
「それで、また〝カシャ〟だな」
「また〝カシャ〟だ」
ウル・コーマ中央駅を発した列車が巡航速度に達した頃合いで、コウデラはクビェナに訊いた。
クビェナはいかにも辟易しているというふうに言い、寝台車の高くない天井を見上げる。
そして、ふんと鼻を鳴らした。
かつて留学先――隣国の古都の大学――で共に学んだ時に見せていた表情だった。
二人の口にしたカシャという都市こそが、エイゴー建国の父、ヴェンツェスラフ大公の崩御以来、消しても消しても立ち上がってくる、シエルダナの政治課題の中心であった。
そしてその政治課題は、そのままエイゴー大公国の問題とも直結している。
だからこうしてカシャで煙が立ちそうとなれば、シエルダナ公国府からクビェナが差遣されることとなり、大公国府からはコウデラが同行することとなるのである。
カシャでの問題・政治課題――
それは常にシエルダナとシュチパリの民族対立だった。
〝狭間に広がった火薬庫〟
東西陣営の狭間に位置するバルキオーナス半島は、そう呼ばれる。
大陸の深部から幾つもの民族が流入しては立ち去り、あるいは入り交じり合った地。
そういうことが繰り返された結果、民族対立や宗教対立が絶えることのない地だった。
大戦争前からずっとそうである。
火種はどこにでも転がっていた。
エイゴーの構成邦であるシエルダナ公国では、その火種はカシャであることが常であった。
コウデラは明らかに〝くだらない仕事〟に気乗りのしていない様子のクビェナに質した。
「何が問題だ?」
これも今回の仕事のうちだ。
クビェナは、そんなコウデラの律儀な表情に顔を顰めて吐き捨てた。
「理由など在ってないようなものだろうさ……いつものことだがな」
『七つの国境、六つの領邦、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、そして一つの近代国家』
そのように論じられるエイゴー大公国は、多様性を内包したモザイク国家であった。
……好むと好まざるとに係わらずに。
民族の坩堝であったバルキオーナスの諸邦を、大戦争後、一つに束ねたのが国父ヴェンツェスラフ・マティーセク(初代大公)だった。
彼の類い稀なるカリスマ性が、大公国を〝一つの近代国家〟と成したのである。
だが七年前――
建国から三五年にわたり絶大な指導力を以て大公国内の六つの領邦を纏めてきた大公ヴェンツェスラフは死んだ。
偉大なカリスマを失った大公国は軋み始める。
その〝軋み〟をもっとも体現しているのが、シエルダナ公国にあっては自由都市カシャだった。
カシャ……、そう、カシャだ。
そこではシュチパリ系住民が人口の九割を占める。
多数派の彼らはシエルダナ公国からの独立を求め始めた。
そして少数派のシエルダ⼈は、シエルダナからの独立を声高に叫ぶシュチパリ⼈に対して反感を強めている。
嗚呼…――
ヴェンツェスラフの想い『友愛と団結』はいまは何処……。
国父よ、不肖の子である我らをお赦し下さい。
だが、事実として、もう何年も前からそうなのだ。
あの街では誰も彼もが不満を溜め込んでいる。
そしてエイゴーで政治に関わる者であれば、誰もがこう思うのだ。
忌々しい街だ! と。
コウデラは祖国のその様な状況に重い息を吐き出した。
クビェナはにやにやと露悪的な笑みを浮かべて見せた。
そんなクビェナの悪癖に、コウデラは付き合わない。
「――…仕事で行くんだ。シエルダナの見解を聞かせてくれ」
単刀直入に質問を投げた。
クビェナは寝台から身を起こすと軽く肩を竦めるように応じた。
「〝民族は平等、相互に尊重すべきもの〟〝排他的なナショナリズムは前近代的な錯誤である〟〝カシャには独自の首府を置き高度な自治を担う権利が保障される〟…――」
三つ挙げた語句のうち初めの二つはエイゴーの国是で、最後の一つは大公府の公式見解だった。
それはエイゴーの政治家のお決まりの言葉で、大公国府の指針にも合致したものだ。
「――…むろん〝エイゴー大公府による制限〟は付く」
最後にもう一語句を、クビェナは付け加えた。
――大公国府の協調路線から、一歩も逸脱するものではないだろう?
クビェナのその視線を、コウデラは受け流すことに失敗した。
彼の上司、大公国府官房長官が気にすることといえば、当にその一点なのだ。
クビェナの目が、コウデラの胸中を見透かすように嗤っている。
ようやくコウデラは視線を下ろし、その目から逃れた。
シエルダナ公国は、エイゴー大公国の構成邦として〝友愛と団結〟を強調し、ナショナリズムや分離主義を批判する。
それがシエルダナの見解なら、何らの変化も生じていないということになる。
これまでと同じことが起き、これまでと同じように処理するわけだ。
誰が行っても同じことが繰り返し語られる。
なるほど。
クビェナのような男には、さぞかしつまらなく、無為に時間を使わされていると感じているだろう。
だが彼は貴族だ。
シエルダナ公国府の〝三十人組〟の構成員で、地域自治担当の政務官である。
貴族たる者の負うべき〝高貴なる義務〟の一環として、今回のカシャ行きもと引き受けざるを得なかったいうところか。
太々しさと精悍さの中に、確かに貴族然としたもののあるクビェナの顔から、好戦的な表情が消えていこうとしていた。
その表情の変化に、コウデラは懐かしさを憶えた。
あれは大公国府に筆記官に採用され研修留学生として差遣されたグラデツ大学の中庭だったか――…。
初対面の折り、クビェナは雪降る中庭の瀟洒な東屋でひとり、火の付いていない葉巻を噛んでいた。
学内の案内を買って出てくれた寮生が、新入のコウデラを紹介すると、咥えていた葉巻をくるりと器用に一回転させ、胸元のポケットへと滑り込ませた。
そしていきなり問うてきたのだ。
「オマエ、西方の民主制をどう思う?」
そのときのコウデラの身形から、同郷――エイゴーの構成邦の出身――の人間であることを見て取った質問だったろう。
コウデラの方は面喰い、警戒した。
大公国府の官吏として、六領邦の支配層にどういう答えをするべきか。
少々間が生じた。
そんなコウデラを、クビェナは好戦的な表情で見据えていた。
進退の窮まったコウデラが、いよいよ答えを口にしようというときだったか。
「たしかに西方の民主制が競争原理・市場経済を促すのに効率的に機能することは認めるべきだな――…」
胸元から葉巻をすいと取り出すと、コウデラへと放って、そう言った。
コウデラは反射的に葉巻を受け取ると、目をぱちくりと瞬かせた。
シエルダナ公爵家に連なる貴族中の貴族が、民主制の優位性について語ったのだ。
機先を制されたコウデラは、どう答えるべきか、いよいよ慎重になった。
クビェナはさらに続けた。
「……その上でだ、権利と義務を平等にすれば――そんなことが本当にできれば、だが――そいつは人気取りの衆愚政治への片道切符だ。俺にはそう思えるんだが、さて、オマエはどう思う?」
その顔からは攻撃的なものは消えており、矜持を秘めたものの憂いだけがあった。
結局、コウデラは何を答えるということもできず、ただクビェナの顔を見返すばかりであった。
…――それが彼との知己の事始めだった。あれから、もう九年が経っている。
* * *
追憶から醒めたコウデラは、職務へと戻った。
気乗りの薄い子爵閣下にエイゴー大公国府に届けられた伝聞を投げ掛け、現地情勢の分析を促す。
興味の引かれた報告について質され、ときに求められて意見を交わす。
だがそれは、官房附次席筆記官の仕事ではなかった。
上司である大公国府官房長官オレク・ネフヴァータルからの直々の用命は、カシャの件でのマルツェル・クビェナの政治判断と行動の観察と報告なのだ。
夜が更けていく。
夜行客車の二人の個室の灯りは、夜半を過ぎても、なかなか消えることはなかった。




