アンナの行く道
「騙される方が悪い」男はそう言った。
「そうよね」女は思った。
川の流れを見つめながら、わたしはぽつりと呟いた。
「あいつら!」
冷たい風が頬をなでる。さっきオーナーにぶたれた場所が、まだじんじんしている。
わたしは、新入りのお針子だった。田舎の孤児院から出てきて、やっと見つけた仕事。
始業の一時間前に出て掃除をし、終業後の一時間、後片付けをするように古株に言われた。それって意地悪で言われたことだった。それでも我慢した。早く一人前になりたかったし、仕事を覚えたかった。
少しずつ、わたしの縫い目が褒められるようになっていた。
「アンナは器用だね」と言われたとき、胸の中が温かくなった。ようやく、報われた気がしていた。
それがついさっき、先輩のメアリーさんが裁断を間違えて、高価な生地を台無しにした。
オーナーが怒鳴り込んできて、「誰がやったんだ」と言った瞬間。
メアリーさんは、わたしを指さした。
「アンナです」
頭の中が真っ白になった。次の瞬間、頬に衝撃が走った。
オーナーの手が、わたしの顔を打ったのだ。
痛みよりも、悔しさで胸がいっぱいになった。
「最低」と口走って、わたしは店を飛び出した。
誰かが呼び止める声がしたけど、振り返らなかった。
そして川を見ていた。
そのとき、聞き覚えのある声が、わたしの名を呼んだ。
「アンナじゃないか! 会いたかった。ここで会えるなんて運命だ!」
トムだった。孤児院で一緒に育ったトム。
あの頃はいつも飢えて、寒さに震えながら互いの体温を分け合った。
でも今のトムは、見違えるほど立派な服を着ていた。
「俺は、ここと王都を往復して仕事をしていて忙しいんだ。ここで会えてよかった。あの頃から、気になってた。でも貧乏だったから声もかけられなかった」
トムの声は弾んでいた。
わたしはぼんやりとうなずくだけだった。
「今こそ言える。俺と付き合ってくれ。王都に来ないか? 仕事も住むところも心配いらない。俺が面倒を見る。惚れた女のために、精一杯のことをやらせてくれ。明日の昼過ぎにここで待ってる。仕事先の馬車が出るんだ。一緒に行こう」
そう言って、彼は銀貨を十枚くらいと金貨を一枚取り出した。
「準備もあるだろう。遠慮なく使ってくれと言いたが、金貨はお釣りをくれると嬉しい。惚れた女に良い所を見せたいが、かっこ悪い」
と頭を掻いた。
わたしはちょっと笑ってしまった。
だけど、大金だ。
わたしは何も言えないまま、彼が去っていくのを見送った。
手の中でお金が重かった。これをどうすればいいのだろう。
返さなきゃ。でも、どうやって?
彼はもういない。
わたしの頭にふと、ハサミが浮かんだ。──ハサミが欲しかったんだ。
自分のものを持ちたい、と思っていた。
これを使えば買える。トムが「遠慮なく使って」と言ったのだから。
わたしの足は、道具屋へ向かった。
だが、なぜか路地を一本、早く曲がってしまった。
狭い通りを抜ける途中、聞こえた。
「上手くやったな」
「あぁ、土壇場でカモに会えるとは運がいい」
カモ?
「来るかな?」
「来るさ。金を渡した。正直者だもの、行く気がなくても返しに来るさ。使っていれば借金だね」
「悪い人!」
「来てしまえば、みんなで説得すればいい」
「高く売れそうか?」
「あぁ、間違いない」
「いい子なのか?」
「あぁ、いい子だ」
「お前は悪い子だね!いい子を騙すなんて」
「騙される方が悪い!!」
「言えてる」
トムの声だった。
わたしの中で、何かが静かに冷えていった。
怒りでも悲しみでもなく、冷たいものが心の底に沈んでいく感じ。
わたしは、本当に普通じゃなかった。人のお金で物を買おうとするなんて。
打たれて、恥をかいて、傷ついて。
優しい言葉をかけられただけで、信じてしまった。
バカだ、わたし。
表通りに戻りながら、 考えた。
このお金。わたしが使ってやる。
この金で、自分の店を持つ。仕立て直しの、小さな店を。
誰の下でもなく、自分の針と糸で生きていく。
わたしは胸を張って歩き出した。
オーナーの店へ戻る。あの人の前で、頭を下げるためじゃない。
自分の荷物を取り戻すためだ。
それは、もう逃げるための荷物じゃない。
新しい人生を始めるための荷物だ。
川の流れのように、わたしも進もう。
誰にも止められない、自分の道を。
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