第3話 アンジェラの告白
「付き添いに行ったにしては戻ってくるのが遅いので、様子を見に来てみれば……まさか、体調が優れないレディに手を上げているとは」
「これは……」
父は振り上げていた右手をさりげなく下ろし、第二皇子から目を逸らした。
第二皇子、エミリアンは気品と知性を感じる顔立ちだった。
背丈は父よりも高く、均一の取れたスタイルをしている。
(何だか、凄みのある方……)
アンジェラは唾を飲んだ。
彼は、只者ではない。
そう感じさせる気迫があった。
(これが覇気というものなのかしら)
皇宮に仕える貴族の大半は、第二皇子に服従しているらしい。
それを聞いたとき、アンジェラは「お父さまみたいに偏屈で高慢ちきな貴族たちが、たった二十八の皇子に、本当に服従するのかしら?」と半信半疑だったが、本人を目の前にして納得した。
彼には、人を屈服させる迫力がある。
それが皇族のまとうオーラなのか、彼自身によるものなのかは分からないけれど。
エミリアンはゆったりとした足取りで父に近づいた。
「彼女は皇家に嫁ぐ身。その体に傷をつけるのは、いかに父君であろうと許されないことだ」
微笑を浮かべているのに、目が笑っていない。
アンジェラは少しだけ恐怖を感じたが、父はまったく臆さず平然としていた。
「誤解されますな、殿下。これは教育に過ぎません。娘は、名高い第二皇子殿下の妃となる女です。嫁に出す前に、立派な淑女に仕上げなくては我が家の評判に傷がつきますので」
それらしいことを言ってのけた父に、アンジェラは内心苦笑した。
(いくら第二皇子殿下でも、この頑固なお父さまを屈服させることはできないでしょうね……)
皇家すらも下に見ている父が、皇帝ならまだしも皇子に屈するはずがない。
「ほう……グリート家では、レディに手を上げて教育を行うのか。知らなかったな……」
エミリアンがわざとらしく驚いた口調で呟いた。
「我が家では見ない光景なので、つい驚いて口を挟んでしまったよ。失礼したね」
「…………」
父がひそかに固唾を飲むのがわかった。
「……殿下、これは」
「いや、責めているつもりはない。グリート家にはグリート家の、皇家には皇家の教えがあるだろうからね」
あっさりそう言われて、父は申し開きができないまま、物言いたげな目をエミリアンに向ける。
それを無視してエミリアンは続けた。
「しかし先ほども言ったが、彼女は皇家に嫁ぐ身。彼女のことは、妃として敬わなければならない」
「ええ、もちろんですとも……」
「そうか。ではレディ」
「は、はい」
急に呼ばれて、アンジェラは背筋をピンと伸ばした。
「こちらへ来なさい」
エミリアンが、白い手袋をはめた手を差し出してくる。
「え?」
困惑して、父とエミリアンを見比べる。
(どういう意味……?)
父が何も言わなかったので、アンジェラは訳が分からないまま、とりあえず彼の手を取った。
エミリアンはアンジェラを自分の隣に立たせると、父の顔を見て愉快そうに声を弾ませ、こう言った。
「さあ、グリーディー公。第二皇子妃に頭を垂れて挨拶せよ」
エミリアンの発言に、父とアンジェラは目をまるくする。
(お父さまが、わたしに頭を下げる……?)
そんな恐ろしい光景、想像したこともない。
「……お言葉ですが、娘はまだ皇家に嫁いだわけではございません」
「求婚したのは私だ。いかにグリート家であろうと、皇家からの求婚を断る権利はない。従って私が求婚した時点で、彼女は私の妃となったも同義」
「しかし──」
「グリーディー公。第二皇子妃に挨拶を」
「…………」
父は奥歯を噛みしめ、右手でひそかに拳をつくった。
(ああ、怒ってる……)
後で父に恨まれることが怖いので「挨拶なんてしなくてもいい」と口を挟みたくなったが、きっとエミリアンはアンジェラを庇うためにこうしているのだろう。
ここでアンジェラが口を出せば、彼の善意を無下にするような気がして憚られた。
父は拳を握ったまま、立ち尽くしている。
それを見てエミリアンは嘲るように「ハッ」と笑った。
「どうした。皇族ごときに臆したのか?」
意地の悪い笑みを浮かべて、そう言う。
父がピクッと眉を動かして反応した。
アンジェラは青ざめた。
(ああ……殿下はさっきのお父さまの言葉を、聞いていらしたんだわ……)
父は第二皇子の怒りを買ってしまったのだ。
アンジェラは肝を冷やしながら、事の成り行きを見守った。
父は歯を食いしばり、覚悟を決めたように右手を胸に添える。
そして、ゆっくり──頭を下げた。
「フィリベール帝国、第二皇子妃にご挨拶を、申し上げます……」
普段偉ぶった態度を取っているだけあって、洗練された所作だった。
アンジェラはあんぐりと口を開けた。
(あ、あのお父さまが──自尊心の高いお父さまが、わたしに向かって頭を下げるだなんて……!)
まさか人生で父の頭頂部を目にする日が来るとは、思いもしなかった。
「レディ。許しを与えなければ、いつまでも頭を垂れたままだぞ」
「あ……か、顔を上げてください、お父さま」
「……感謝いたします、妃殿下」
我に返り、父の肩を起こす。
顔を上げた父は、屈辱で満ちた表情をしていた。
アンジェラはひそかに身震いした。
(後で絶対わたしに八つ当たりしてくるわ……)
「陛下が貴殿をお呼びだ。早く戻られよ」
エミリアンは父の反応を愉しんでいたが、おとなしく父が頭を下げたのを見て興味が尽きたのか、当初の目的を思い出したように告げて、追い払うように父に向かって手を振った。
「……はい。それでは、失礼いたします」
アンジェラに一瞥もくれないまま、部屋を出て行く。
父が去り、ふたりきりになった部屋の中で、エミリアンは呆然と立ち尽くしているアンジェラに微笑みかけた。
その微笑は、父に向けたものとは全く違い、優しいものだった。
「レディ。君はもう、父君にへりくだる必要はないよ。私の妃になるのだから」
「え……?」
アンジェラは瞠目した。
(お父さまにへりくだる必要はない?)
アンジェラにとって、父はこの世のすべてだった。
父が決めたことに従い、父の機嫌を損ねないように振舞う。
それが、アンジェラの人生だった。
けれど第二皇子は、そんな父よりも上に立つ存在。
そして自分は、その人の妻となる。
先ほどのように、父に頭を下げられることが当たり前の立場になる。
(お父さまよりも、上の立場になる? わたしが……?)
実感は全く湧かなかった。
今まで考えもしなかったことだから。
「グリーディー公は確かに恵まれた土地を持っているが、それでもこの帝国には、皇族よりも尊い貴族なんて存在しない」
「はい。でも……」
「でも?」
アンジェラは顔を伏せた。
(わたしは、こんなふうに殿下によくしてもらえる立場ではない)
彼の視線から逃れるように、背を向ける。
勇気を振り絞って、口を開いた。
「……わたしは、殿下にとって価値のない人間です。第二皇子妃なんて、わたしの身の丈には合いません」
「何故そう思う?」
エミリアンは心底不思議そうに訊ねた。
「……わたしは、何も持っていませんから」
「こんなに美しいブロンドの髪を持っているのに?」
父に掴まれて乱れた髪を、エミリアンは後ろから一束すくい上げた。
金髪は華やかな印象を与えるので、貴族からはよく好まれる。
けれど、髪を褒められてもアンジェラはまったく嬉しくなかった。
「……姉だって、同じ髪色です」
──自分だけの魅力ではない。
姉妹で同じ髪の色、同じ目の色。
それなのに姉は「社交界の華」と呼ばれ、アンジェラは陰で「引きこもり令嬢」なんて呼ばれている。
姉はパッと映えるような顔立ちをしているし、天真爛漫で、人から好かれるような性格をしている。
それに比べてアンジェラは、小さいときから人見知りで引っ込み思案で、社交界に出る勇気すらなく、家に引きこもって本や手芸に没頭するような子だった。
同じ姉妹なのに、全く違う。
アンジェラは肩越しに、エミリアンを振り向いた。
「グリーディー公の相続人だって、きっと姉のほうです」
そう告白するには、とても勇気が必要だった。
エミリアンがアンジェラに求婚したのは、グリーディー公領を手に入れることが目的のはずだから。
グリーディー公領を手に入れる方法は、「グリーディー公」の位を相続する娘と結婚することが一番手っ取り早い。
父は自分の娘のうち、誰を相続人にするのか明言していなかった。
そうすることで、長女にも次女にも価値が付く。
夫となる人は長女と次女、どちらを選ぶか賭けをすることになる。
のちに相続人となる娘を娶ったほうが、賭けに勝つということだ。
エミリアンは、その賭けに負けるだろう。
もっとも、長女は一年前に嫁いでしまい、未婚の娘は次女のアンジェラしか残っていなかったので、彼は余りもののアンジェラを娶るしかなかったのだが。
「わたしが相続人に選ばれるはずがありません。父のお気に入りは、姉です」
父はアンジェラを無能だ、出来損ないの娘だ、と言って蔑んでいる。
そんな父が、命よりも大事なグリーディー公領をアンジェラに受け渡すだろうか?
「……父がわたしを選ぶはずがありません。だから、わたしを妃にしたって、殿下が得るものは何もないんです」
アンジェラは正直に打ち明けた。
彼が駆けに負けると確信していながら、何も知らないふりをして嫁ぐのは嫌だったから。
(きっと、破談になるわね……)
そう思ったが、エミリアンは事もなげにこう言った。