閉
午後十時、大学三年生の柏崎智也は、サークル仲間と居酒屋で酒を飲んだ後、一人暮らしをしているアパートに帰るため、タクシーを利用することにした。
店の前でタクシーを止め、運転手に行き先を指示した後は、後部座席に横たわり、すぐに寝てしまった。
ふと目が覚めたとき、智也はおかしなことに気づいた。タクシーのスピードが一定ではないのだ。速くなったり、遅くなったりしているのが窓を見なくても分かる。体を起こし、運転手を見ると、なんと運転手は居眠り運転をしていた。こくりこくりと運転手が首を前後に揺らすたび、アクセルが中途半端に踏まれて、加速したり、減速したりを繰り返している。
「何やってんだ! 起きろ!」
智也が怒鳴りつけると、運転手ははっとして目を覚まし、ブレーキを踏んだ。
タクシーが止まり、運転手が謝る。
「す、すいません。最近寝不足で」
「そんなもん言い訳になるか!」
「すいません、すいません」
智也はもっと怒鳴ってやろうかとも思ったが、白髪交じりでどう見ても自分より二十歳以上年上の運転手が、健気に平謝りしている様が不憫になり、早々に許してやることにした。
「まあ、事故を起さなかっただけ良かったですけどね。もう降ろしてください。運転手さんも路肩にタクシーを止めて仮眠を取った方がいいですよ」
「そうですよね。そうします。お代は結構です。すいませんでした」
「もういいですよ。運転手さんも気をつけて」
智也はそう言ってタクシーを降り、外の景色を見て驚愕した。空が明るい。どう見ても明け方だった。
そんなにタクシーに乗っていたはずがないと思い腕時計を見ると、不思議なことに、まだ十時十四分だった。まさか午前の、というわけではないだろう。
異変に気がついた運転手もタクシーから降りてきた。
「どうしてこんなに明るいんですかね?」
運転手が智也の隣に来て言った。
「分かりません。今は十時十四分で、オレがタクシーの乗ったのはちょうど十時くらいでしたから、十四分しか経っていないはずです。オレの時計が壊れているんでしょうか?」
運転手は自身の腕時計を見た。
「いや、私の時計も十時十四分です。壊れてるわけじゃなさそうですよ」
「じゃあ、これはいったい……。酔っ払って幻覚でも見てるのかな?」
智也は腕を組んで考えた。頭は回っているので、酔いがそれほどひどいとは思えなかった。それに、夜が明け方に変わるなんて幻覚を見たことは今までにない。
明晰夢でも見ているのだろうかと考えていると、運転手が言った。
「お客さん、ここ、時間もそうですけど、場所も変ですよ」
そう言われ、智也は前にある建物を見た。白壁の大きな建物がある。大学病院か何かのように見えた。
「この建物がどうかしたんですか?」
「他も見てください」
智也は周囲を見渡した。すると、一つに繋がった白い建物に、周りを囲まれていることに気づいた。
周囲の壁を見るに、タクシーが侵入できるような出入り口はない。二人がいる空間は縦二十メートル、横五十メートルほどの長方形に縁取られていた。壁にはいくつかドアが付いているが、どれも人が通れるほどの幅しかない。
「オレたち、どうやってここに入ってきたんですか?」
智也は怖くなって運転手に尋ねた。
運転手は首をかしげる。
「分かりません。目が覚めて、ブレーキを踏んだらここでした。道路を走ってきたわけですから、それがここへ繋がっていたとしか。でも、私はここら辺に詳しいですが、こんな建物は見たことありませんよ」
「とにかく、建物に入って中の人に事情を訊いてみましょう」
「そうですね」
二人はドアから建物の中に入った。中も外観通り病院のような造りで、白い廊下が続いている。しばらく進むと、向こうから一人の女性が歩いてきた。歳は四十代くらいで、私服を着ていたので、この施設の従業員というわけではないらしい。
智也は女性に声をかけた。
「あの、すみません。変なこと訊きますけど、この建物はいったいなんですかね? 病院ですか? それとも介護施設?」
女性は笑みを浮かべて答えた。
「どっちでもないわ。あなた達はこの建物に迷い込んだのよ。気づいたらここにいたんでしょ?」
「はい、そうなんです。てことは、あなたも?」
「そう。この建物にいる人はみんなそう。気づいたらここに迷い込んでるの。だからこの建物が何なのかみんな知らない」
「誰も知らないって、まさか、出られないんじゃないでしょうね?」
「出られはするわ。一応ね」
「オレたちはここから出たいんです。出口がどこにあるか教えてくれませんか?」
「今は無理よ。工事が終わったから」
「工事?」
「そ。私達はそう読んでる。あなた達がここに入ってきたドアがあるでしょ。あそこには元々ドアなんて無かったのよ。ここではある日突然壁にドアができて、そのドアの向こうから工事をしている音が聞こえてくるの。音がする間はドアは開かないんだけど、聞こえなくなると開けられるようになる。で、そのドアを通ってあなた達みたいな迷い人が来るってわけ。工事の度にこの建物はどんどん大きく広がっていって、新しい人を招き入れる。どんな仕組みかは知らないけどね」
智也は溜息をついた。普通なら信じられない話だが、ここに入る前も不可思議なことの連続だったため、彼女の言うことも信じるしかないと思った。どうやら自分は常識が通用しない異世界に迷い込んでしまったらしい。
智也は自己紹介した。
「あの、オレは智也っていいます。で、こっちはタクシーの運転手さんで、名前は……」
「あ、私は安藤と言います」
安藤さんは頭を少し下げて言った。
女性が答える。
「私は佐藤清美。よろしくね」
「あの佐藤さん、さっき、今は出られないっておっしゃいましたよね。じゃあ、いつ出られるんですか?」
「またどこかで工事が始まったら出られるわよ。新しくできたドアは工事中には開かないって言ったけど、鍵を使えば開けるの。で、ドアの外に出たら元の世界に帰れるってわけ」
「工事が始まるまでにどれくらいかかるんでしょうか?」
「分からない。でもだいたい一ヶ月くらいかしらね」
「一ヶ月! そんなに待ってないといけないんですか?」
「そう。それ以外に出られる方法はないわ」
佐藤さんはニヤリと笑った。
智也は力が抜けてその場にへたり込みそうになった。こんなところに一ヶ月もいたら、単位を落として留年してしまう。そうなれば一巻の終わりだ。学費を出してくれている両親になんと謝ったらいいのだろう。
智也は安藤さんもさぞかしショックを受けているだろうと思った。しかし、安藤さんは意外にも落ち着いた様子でこう言った。
「ここでずっと生活していくことはできるんですか」
佐藤さんが答える。
「ええ、もちろん。だから私達もずっとここにいられるの。ここでは食べ物が自動的に供給される。魔法みたいに何も無い所に突然食べ物が現れるの。しかも、ちゃんとここにいる人数分供給されるから、どれだけ人が増えても不足することはない。だからあなた達の分もちゃんと出てくるから、心配しないで」
「うーん。それはいいんですけど、携帯は繋がりますか?」と、智也。
「もちろん、繋がりません」
「はぁー。じゃあ、ここで一ヶ月か」
がっくりと肩を落とした智也とは対照的に、安藤さんは嬉しそうに言った。
「いいじゃないですか。長めの休暇が取れると思えば」
智也は暢気な安藤さんに呆れつつ、そう思うより仕方が無いか、と自分を納得させた。
その後、二人は佐藤さんに建物の中を寝室、食堂、児童養護室、養老室の順に案内してもらった。
寝室はホテルのようになっていて、廊下の両側にいくつもの部屋が並んでいた。中の広さは六畳ほどで、ベッドと机が一つずつあるだけの簡素なものだった。寝室の近くにはトイレと、公衆浴場もあった。こちらも異世界とは思えないほど特に変わったところはなかった。
次に向かった食堂もどこの大学や会社にでもあるような普通の景観だった。机が八つ並んでいて、一つにつき椅子が八つ置かれている。厨房には牧村さんという陽気そうなおじさんがいて、料理を作っているところだった。挨拶を交わして次の場所に向かう。
次は児童養護施設だった。この異世界には子供も迷い込むらしく、大人たちが世話をしていた。小学生くらいの子供に交じって、赤ん坊までいる。子供は全部で十二人。部屋の広さは学校の教室と同じくらいだった。
オモチャも用意されているが、積み木や独楽など、現代からすれば古くさく感じる物ばかりだった。ただ、子供達は特に不満を感じることもなく遊んでいる。
男性に抱かれてあやされている赤ん坊を指さし、佐藤さんが言った。
「あそこにいる赤ちゃん、いつ来たと思う?」
「え? そんなこと言われても」と智也。
佐藤さんはニヤッと笑って言った。
「私も正確に時間を計っているわけじゃないけど、たしか三年くらい前よ」
「三年!?」
智也が驚いて大声を出したせいで、前にいた赤ん坊が泣き出した。
「ああ、ごめんね、びっくりさせて」
智也が謝ると、赤ん坊を抱いていた男性は「いいんだよ、いつものことだから」と笑顔で言った。
智也は佐藤さんに視線を戻して尋ねた。
「どういうことですか。あの赤ちゃんまだ0歳くらいですよ。ここでは歳を取らないということですか?」
「そう。子供は子供のまま、老人も老人のまま。次に行きましょう」
智也と安藤さんは養老室に案内された。そこにはお年寄りが十三人いた。部屋の広さは先ほどの児童養護室と同じくらいある。長机に座って談笑を楽しむ人達や、囲碁や将棋を楽しむ人達がいる。
「この人達も歳を取らないんですか?」と安藤さん。
「ええ、ずっとこのままです」と佐藤さん。
「それはいい」と、安藤さんはどこかうっとりとした顔で言った。
すべての部屋を見終えると、佐藤さんが言った。
「この建物はさっき見て回ったところで全部よ。今のところ、子供十二人、お年寄り十三人、で、私みたいな中年や柏崎君みたいな若者が合わせて三十七人、いや、三十六人だったかな? まあどっちでもいいや、とにかくそれくらいいます。子供はさっきの児童養護室にいて、お年寄りは養老室にいる。で、他の奴らはっていうと、今は庭で草野球でもやってるんじゃないかな。いつもはそんな感じで庭で遊んだりとか、子供とお年寄りの世話をしたりとか、あとは食堂で牧村さんの手伝いをします。それ以外は掃除だね。ああそうだ、掃除用具がどこにあるか案内してなかったね。寝室の近くにあるんだけど、でも、それは掃除の時に説明すればいいや。掃除はいつも朝にやるから。ということで、とりあえず今日は解散。寝室が各自の部屋になってるから、食事のときまでそこで待機しててよ。そのときになったら呼ぶからさ」
智也と安藤さんはお礼を言い、佐藤さんと別れた。二人で寝室に向かう。道すがら、智也は安藤さんに言った。
「ひどいことになりましたね……」
「ふふふっ」
「何がおかしいんです?」
「あなたは若いからそう思うんですよ。私のような、歳をとってもろくな人生を送っていない人間からすれば、ここは楽園のような場所です。私はもう元の世界に戻りたくありません」
「そんな、ここには何も無いじゃないですか!」
「それは元の世界も同じことです。柏崎さんは違うのでしょうが」
「……」
寝室に辿り着いた。
「じゃっ」と、安藤さんは軽快に言うと、割り当てられた部屋に入っていった。
智也は憂鬱な思いで自分の部屋に入った。先ほど見たときと同じように、ベッドと机があるばかりだ。ゲーム機もパソコンもテレビも無い。本当に、何も無い。
智也はベッドに腰を降ろして考えた。自分はいったいいつになったらこんな場所から抜け出せるのだろうか。佐藤さんは一年と言っていた。一年間の退屈地獄……。
智也は長い溜息をつくしかなかった。
その後、食事の時間となり、二人は食堂に呼ばれた。そこで他の人達に自己紹介と挨拶をし、食事をとった。安藤さんは同い年の先住者とさっそく意気投合したようで、楽しそうに談笑していた。智也も同い年で同じ性別の青年を見つけて話しかけたが、暗い奴で、話はまるで弾まなかった。智也が「早くこんなところから出たいよ」と言っても、「オレは別に……」との回答しか返さない。ここにいる人間は自分以外全員、何かしら外の世界に居づらい理由があって、この異世界に残っているらしい。だが、その事情を無神経に聞き出すことは憚られた。
結局、智也は安藤さんと違って仲間を作ることができず、部屋に戻るとふて寝した。
翌朝、智也は施設の掃除を任された。安藤さんも同じだったが、仲の良いおじさん仲間と楽しそうに窓ふきをしていた。一人で不機嫌に廊下を掃いている智也とは正反対だった。
その日から、智也は掃除が終わるとずっと一人で部屋にこもった。退屈で仕方なかったが、一ヶ月の辛抱だと思った。安藤さんはというと、何やら他の仲間と楽しそうに掃除以外の仕事をしたり、この施設の壁に囲まれた庭で、野球やサッカーに興じているようだった。智也はとてもその輪に入って暢気に遊ぶ気にはなれなかった。
智也が施設に囚われてから二十八日目のことだった。いつものように一人で掃除をしていると、男の声が廊下に響いた。
「工事が始まったぞー」
智也は持っていたモップを放り出して、名前を覚えていない男のもとに走った。
「どこでです?」
智也ははやる気持ちを抑えながら尋ねた。男が言う。
「養老室の向こう側にある廊下だ。そこに今朝方ドアができているのが見つかったんだ。よかったな、お前さん、出たがってただろ?」
「はいっ」
智也は急いで養老室に向かった。部屋の前の廊下には人だかりができていた。その隙間を通り抜けると、そこにはたしかにドアがあり、向こう側から工事現場のような音が聞こえてきた。
「ああ、待ってたよ」
うしろから声をかけられた。振り向くと佐藤さんがにこりと笑って立っていた。
「このドアを抜ければ元の世界に戻れるんですね」
智也は鼻息を荒くしながら訊く。
「ええ。でもそのままだったら開かないから、コレを使って」
佐藤さんは鍵を一つ持っていた。銀色で薄っぺらい、よくある何の変哲もない鍵だ。
智也が受け取ると、佐藤さんが続けた。
「この鍵を持ってないと外の世界に出られないから、ドアを開けたら、この鍵も持っていってね」
「分かりました。ところで……」
智也は人混みに視線を向けた。
「私はいいですよ」
智也が見つける前に、安藤さんの声がした。人混みの中から安藤さんが出てきて言う。
「柏崎さんだけ行ってください」
「本当にいいんですか? ご家族もいるでしょう?」
「いいえ、私は独身で、嫁も子供もいません。両親も他界しました。心配はいりません。それに、ここに来たとき言ったでしょう? 私のような人間にとって、ここは楽園だって。今もその気持ちは変わっていません。でも、柏崎さんは私みたいな年寄りと違って、将来有望な若者だ。向こうの世界で頑張ってください」
安藤さんは優しい笑みを浮かべている。
「ええ、安藤さんもお元気で。佐藤さんも、お世話になりました」
「こちらこそ、仕事を手伝ってくれてありがとね」
「仕事だなんて、廊下掃除をしてただけですよ。では、皆さん、短い間でしたが、お世話になりました」
智也は皆に頭を下げると、うしろのドアに向き直り、ドアノブの下にある穴に鍵を差し込んだ。
ドアを開けると、向こう側は真っ暗闇だった。何も見えない。
不安になって皆のいる方を振り向く。佐藤さんが言った。
「大丈夫。その鍵を持ってれば帰れるから。いってらっしゃい」
智也は鍵を引き抜き、ドアの向こうに一歩足を踏み出した。
その瞬間、前方に広がっていた暗闇は嘘のように消え失せ、明るい町並みが姿を現した。驚いてうしろを見るが、すでに建物も、佐藤さん達もいなくなっていた。
そのとき、持っていた鍵が突然手の中で膨れあがり、地面に落ちて鍵とは思えないような音をたてた。何事かと思って見ると、そこに鍵はなく、二十センチ四方くらいの小箱が落ちていた。黒い外装に赤い紐がくくられている様は、まるで浦島太郎の絵本にでてくる玉手箱だった。
とりあえず箱を拾って立上がった智也は、すぐに違和感に気づいた。町並みがおかしいのだ。
目の前に並ぶ建物はすべて、二つの正三角錐の底面同士を合わせたような造形だった。高さは十メートルほどもある。指ほどに細い下の頂点がちょこんと地面に接しているだけなので、どうやって倒れずに立っているのか見当もつかない。
人の姿もおかしかった。どこの国の民俗も着ていないような服を身につけている。それはもはや服と呼んでもいいのかも分からない代物だった。体に太い縄を巻き付けている者や、金属の輪っかをいくつも体に通している者が歩いている。
他にもおかしなことがあった。智也は道の端に立っていたが、車道が見当たらない。道幅は五メートルほどあるにもかかわらず、大勢の人が歩いているだけで、車が走れる区域がない。地面はよく分からない青くて硬い素材で舗装されていた。もしかしてここは屋内なのだろうか、と思って空を見上げるが、そこにあるのは天井ではなく、キレイな青空だった。やはり屋外らしい。道幅が広く、路地裏や商店街でもないのに、どうして車が通っていないのだろうか。
そもそもここはどこなのだろう。てっきり自分がいた国に戻ってこれると思っていたが、外国にでも飛ばされたのだろうか。通行人の髪の色は赤や緑でバラバラなのに対し、肌の色は日本人と同じ黄色い者ばかりだ。ここはやはり日本? いや、そんなはずは……。
智也はあれこれと考えを巡らせながら往来を眺めていると、驚くべき光景を目にした。全裸の女性が平然と歩いているのだ。しかも、その女性は乳房が横に三つあり、それが縦に二列並んでいた。つまり全部で六つもの乳房があったのだ。それなのに、周りの人間はいっさい騒ぐ様子がない。当り前とでもいった顔ですれ違う。
さらにそのうしろからもう一人全裸の人間が歩いてきた。その人は男で、胸の乳首の位置から男性器が二つぶら下がっていた。
智也は叫び声を上げそうになるのを何とか堪えた。しかし、驚いているのは智也一人で、他の通行人は何の反応も示さない。
悪夢のような光景を呆然と眺めていると、黒いスーツを着た男が目の前を通り過ぎた。髪は染めておらず黒色で、髪型はオールバックだった。他の人間の恰好に比べていくらか常識的に見える。頭にドブネズミを咥えたカラスの死骸を乗せている点を除けば。
智也は藁にもすがる気持ちでその男に声をかけた。
「すみません。ちょっといいですか?」
男は立ち止まって言った。
「なーにー」
子供のような返事の仕方で面食らったが、日本語が通じることが分かって嬉しかった。一応、ここが日本なのかどうか確認を取ることにした。
「あの、変なことを訊きますが、ここは日本ですよね」
男は頷いた。
「うん、日本だよ」
「あの、今は、ハロウィンか何かのお祭り中ですか?」
「ハロウィン、なにそれー。私は聞いたことがありません」
男の口調も内容も、すべてがおかしかった。男は見たところ三十代くらいだ。年寄りでもあるまいし、ハロウィンくらい知っているはずだ。しかも口調が子供のようになったり大人のようになったりする。
「それなーにー?」
男が箱を指さして言った。
「ああ、これは貰い物で……」
そう言ったとき、智也に一つの考えが浮かんだ。この世界は、未来の日本ではないだろうか? 自分がいたのは浦島太郎の竜宮城のような場所で、時間の流れが外の世界と違っていた。それで、外に出たときには未来になっていたのでは……。
智也は男に尋ねた。
「あの、今は何年ですか?」
「ビ」
「え、ビ? 何ですか? ビって?」
「今はビ年ですますよ」
「……あの、できれば西暦で言っていただけると助かるんですけど」
「西暦? 君様は異な事を言う。そそそ、そそそ、ビ年を西暦に直すと、そそそ、そそそ、だいたい二九二〇年。一の位は計算が難しいから算出できないせん」
「二九二〇年……」
智也の膝ががくがくと震えだした。やはりここは未来の日本らしい。自分は浦島太郎になってしまったのだ。
「分かりました。ありがとうございました……」
智也は消え入りそうな声で言い、頭を下げた。
それを見て男は大声で笑い出した。
「な、なぜ笑うんです?」
「笑ってるんじゃないですよ。怒ってるんじゃないですか?」
男は訳の分からないことを言い、その場を去って行った。
智也はとりあえず道の端にしゃがみ込んだ。ここが遠い未来の日本だということは、家族も友人も皆死んでしまったということだ。これからどうやって生きていけばいいんだろう?
抱えている玉手箱に視線を落とす。浦島太郎は、玉手箱を開けて爺さんになった。いっそのこと自分もそうしてやろうか。
智也は逡巡した。安藤さんの言葉を思い出す。
『柏崎さんは私みたいな年寄りと違って、将来有望な若者だ。向こうの世界で頑張ってください』
自分には輝かしい未来が待っているはずだった。友達と馬鹿騒ぎをしながら大学を卒業し、それなりの企業に就職して、結婚もし、子供も産んで……。
だが、そんな想定していた未来も九百年前に過ぎ去っている。今の日本にはもう、知人もいなければ自分の居場所もない。だったら年寄りになって、さっさとこの世からおさらばしよう。
智也は玉手箱を地面に置き、赤い紐をほどいた。蓋に両手を添える。ごくりと唾を飲み込んで、一気に外した。
すると、中から白い煙がもうもうと立ちこめ、目の前が見えなくなった。
煙がはれると、鮮やかな赤色が見えた。それは箱の中身だった。箱は空っぽだった。煙以外に何も入っていなかったらしい。
智也は自分の手をしげしげと見た。てっきり皺だらけになっていると思っていたが、別に変わった様子はない。
玉手箱の黒い表面を鏡代わりにして顔を見てみた。自分の顔がうっすらと反射して見える。そこには今までと同じ智也の顔が映っていた。顔に触れてみるが、若い張りのある肌には皺一本通っていない。
どうやら浦島太郎とは違って歳を取らなかったようだ。
「クソッ、なんなんだよ!」
智也は怒りにまかせて箱を地面に投げつけた。
その様を通行人は誰も見ていない。智也も、投げ出された箱も、どうでもいいといった様子で目の前を素通りしていく。
智也は立ち上がり、乱暴に歩き出した。目的などない。どこに辿り着くかも分からないが、とりあえず歩き出すより他なかった。
その後、智也は十年経っても百年経っても、歳を取らなかった。どうやら玉手箱の煙を浴びたせいらしい。
智也は過去の世界に戻ることを夢見ながら、発展の名の下に、過去の名残を削り続ける未来の世界をさまよった。永久に。