幻夜の過去
銀色の、腰の下にまで達する長く毛先を切り揃えた髪を頭頂部で一つに縛り、古代中国の高官のような衣装を身に纏って、九尾狐は木の上で桃の実を食みながら、池の下を見ていた。
池の下には、下界と地獄があった。
九尾狐はなぜ自分はここにいるのか、といつも考える。平穏な天界に生まれつき、何不自由のない生活をし、特に何を悩むこともないまま日々を過ごす。
地獄で苦しむ人間の魂と、苦しめる鬼を見ても何も思わなかった。これがこの世だと理解していたからだ。
そしてこの世を正しく導くために自分たちがいることも。
頭では理解していても、何か釈然としなかった。
若い男が近づいてくる。いつもよく話す白蛇だ。白蛇は従者で、応竜に仕えている。立場は違うが、白蛇の話はいつも面白くて好きだった。
「また講義をサボったんですか?」
白蛇が言う。小言も多い。九尾狐は反論しようと口を開く。
「講義では真理を教えてくれない」
白蛇は頷いて返す。
「真理は天帝しか知りません。しかし近いものを知ることは出来ますよ」
九尾狐はチラリと白蛇を見た。いつもと少し雰囲気が違っているように見えた。
「これを食べるのです。体内に取り入れれば、近いものを知ることが出来ますよ」
そう言って九尾狐のところに、自身の持っていた桃の実を投げた。
九尾狐はそれをパシッと受け取る。普通の桃の実に見えた。騙されたと思った。白蛇がふざけていると思い、乗ってやるかと桃の実を口にする。本当に真理に近いものを知ることが出来るのなら食べてみたいものだ、と思いながら。
「全て食べるのです。そうすれば、あなたは天帝に近づくのです」
別に天帝に近づきたいとは思わない、と思いながらも、九尾狐は桃の実を完食した。
その直後、心臓が太鼓のような音を立てるように鼓動した。明らかにおかしいと思った。九尾狐は苦しさのあまりバランスを崩し木から落ちた。
地面に倒れた九尾狐の目の前に白蛇の足があった。
「ご····ごめんなさい····何てことを····僕は、どうかしていた」
白蛇は崩れるように、九尾狐の前にへたり込んだ。
「あなたが羨ましかったんです。全てを持っているのに満足しないあなたが妬ましかった。その心につけこまれてしまった····」
そうして泣き崩れる。
九尾狐は体の内側からおどろおどろしいものが蝕んでくるのを感じた。
頭の中で声が聞こえる。
『この体と力があれば、私の目的は達成出来るだろう』
そして九尾狐の体は意思に反して池へと這っていく。体の自由がきかないまま、九尾狐は池に落ちた。
水の中なのか、上空なのか、九尾狐は気を失いそうになりながら底深く堕ちていった。
「すぐに派手に動いたら応竜に見つかってしまうから、百年ほどは静かにしていよう」
『いつでも派手に動けば見つかるだろう』
「くっくっく。いや、ヤツは人間がいかに残酷で醜い生き物かを知っている。引き際を間違えなければ見つかることはない」
頭の中で、九尾狐は“あくのみ”と会話する。
九尾狐の体は、“商”という国に落ちた。商は後に“殷”と言われるようになる。
今は人間の村の近くに来たところだ。九尾狐の意思ではなく、体は“あくのみ”に乗っ取られている。下界に落ちてから苦しみはなくなったものの、完全に主体があくのみに変わってしまった。
あくのみは九尾狐の髪と目を黒くした。そして服装を粗末なものに変える。
「容姿は美しい方が都合が良いからこのまま使おう」
そして村のすぐ近くで倒れた。
『何をしている?』
「黙って見ていろ」
しばらくすると、一人の女が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!? 生きていますか!?」
女は心底心配するように声をかける。あくのみは顔をゆっくりと上げて、ぐったりとした表情をして女の方を見た。
女は目を見開いてあくのみを見る。
「もし····よろしければ····何か食べ物をいただけませんか?」
あくのみは弱ったフリをして、女に言った。女はあくのみに肩を貸して、家へ連れ帰った。
女の名前は明明といった。それからあくのみは明明の家に住むようになる。名前を聞かれ、あくのみは春蕾と名乗った。
(どこが春蕾だ)
と九尾狐は思った。人間の言葉は自然と分かる。文字も。そういう能力が天界に住む瑞獣である九尾狐には最初から備わっていた。九尾狐を取り込んだあくのみも同様だ。
十年ほど平和に過ごした。九尾狐には人間の生活が新鮮で、主に見ているだけではあったがわりと気に入っていた。
たまに九尾狐が表に出ることもあった。
明明は不思議とあくのみと九尾狐の人格が違うことに気付いているようだった。
「そろそろ潮時だな」
そう言ってある日突然、あくのみは明明を殺した。
本当に、何の前触れもなく突然に。
九尾狐は絶句した。平和な生活から、突然奈落の底に突き落とされたような気分だった。
明明を愛していたわけではなかった。しかし親しみを持っていた。
明明は親切だった。九尾狐のことも見つけてくれていた。
その人間をあくのみは何の躊躇いもなく突然殺した。十年も一緒に過ごしたのに。
天界から眺めている時は、強い者が弱い者を虐げるのはこの世の摂理だと理解していた。虐げる者も虐げられる者も全く関わりのない者だったからだ。これが自分が少しでも親しみを持った者が関わるとなると全く違う感情が湧くことを、九尾狐は初めて体験した。
それからあくのみは別の場所に移動し、また同じように新しい人間に近づいた。
『俺はこんなことは望んでいない』
「分かっている。これは私の望みだ。お前はただの形代に過ぎない」
『俺から離れろ』
「それは出来ない。私の目的のためにはお前の体と力が必要だからだ」
『お前の目的は何だ?』
「····天帝を恨んでいる。天帝を凌ぐ力が欲しい。そのためにはこの世を憎悪で埋め尽くす必要がある。玉に収まりきらないほどの憎悪が。力をつけるまでは見つかるわけにはいかない」
『お前の望むようにはならない』
「それはどうかな? お前にも見せてやる。この世の終わりを」
後にあくのみは殷王朝を乗っ取り、悪行の限りを尽くした。最後は応竜に見つかったが逃げ延びた。この時あくのみはより強大な力を手にした。
その後幾度となく同じことを繰り返し、平安時代の日本に姿を現す。
その時には、九尾狐の心は荒んでいた。元の自分がどんな性格だったのかも思い出せず、笑うこともなく、ただ見ているだけだった。目の前で繰り広げられる残酷な現実を。
(俺は天界に住むに値しない。こいつは俺自身なのかもしれない。
いや、俺は嫌だった。良心的な人間が殺されるのは不快だ。俺はこいつとは違う)
九尾狐の思考は、あくのみにいとも簡単に読まれてしまう。
「お前には素質がある。何故なら昔の私とそっくりだからだ。私が取り込まなくともお前はいずれこうなっていたはずだ」
『違う!!』
九尾狐は分からなくなっていた。長く融合していたせいで、あくのみを自分の一部と混同していた。
そう仕向けられていた。
応竜に見つかった時、人間が共に向かってきた。陰陽師だった。強い力を持つ者で、あくのみを翻弄した。最後は応竜に封印された。九尾狐はこれでいいと思った。
長い間眠り、気付くと石の上に座っていた。大きな神石の塊で、応竜の作ったものだろうと思った。
何故目覚めたのか分からなかったが、体は自由に動いた。しかしあくのみが体内にいることは感じた。急いで神石を砕き、腹の中に入れた。
最初は声も聞こえなかった。封印されている間、あくのみの方が強く神石に抑えつけられていたのだろうと思った。
しかし腹の中に入れただけの神石の効果は期待出来ず、徐々にあくのみの声が聞こえ出した。
力の大半はあくのみが持っているようで、僅かな妖力しか使えなかった。
そんな時、妖狐族の長が迎えに来た。平安時代に関わっていた縁で、里に迎え入れられた。ただ単に利用する気だろうというのは分かっていたが、行くアテもなかったので利用させてやった。
『九尾様』と呼ばれるのは、悪事を働いていた頃を思い出すので嫌悪し、その時星空を見ていてふと思いついて「『幻夜』と呼べ」と言った。
厳雪山を攻めた時、麗羅に会い、結羅のことを聞いた。麗羅は予感能力を持っていると言った。確かに神獣並みの力を持っていると感じた。何故か敵ではないと直感した。
『解放』される鍵は結羅にある。結羅に会えと言われた。それ以外は何も分からないと。
解放とは、あくのみからの解放という意味だと理解した。
一縷の望みに賭け、結羅に会いに行った。




