幻夜の正体
「あいつら、承知しないわ。ほんと使えない」
夜叉姫の機嫌は最悪のようだ。先程とは打って変わって歪んだ表情をしている。
(何だここは! 暑すぎる! 結羅!!)
太悟は弱りきった結羅を見て心臓が握りつぶされるようだった。
「ふん。どんな手を使ったか知らないけど、この子は返さないわよ。今から処刑するんだから。指をくわえて見てるといいわ」
夜叉姫がそう言ったが、幻夜は遠慮なく夜叉姫に近づいていく。
「久しぶりだな。千。こっちは時間がないんだ。早く終わらせよう」
幻夜の発した言葉を聞いて、夜叉姫はギロリと恐ろしい形相で幻夜を睨む。
「ああ? 何上から目線で言ってるんだ? 先に殺してやろうか?」
そう言い放った夜叉姫の顔が、幻夜の頭上に目をやると同時にみるみる青ざめていく。
幻夜の周囲には、鬼たちの図体よりも大きな金色の獣の尾が数本蠢いていた。いつの間にか幻夜の髪は金色に変わっている。
「あ····あ····あなたは····九尾····様?」
夜叉姫の声は幼い少女のようにか細い。
「俺の姿を忘れたのか? ああ、前はこの姿ではなかったな」
幻夜はそのまま夜叉姫の目の前まで来る。
夜叉姫は恐怖で青ざめたまま涙を流しながら、命乞いをしようとひれ伏す。
「あああ申し訳ございません!! 申し訳ございません!! 九尾様のものだと知ってたら手を出さなかったのに!! この子は返しますから····」
「残念だが不安要素は消しておきたい。俺はもう側にいられないからな」
幻夜の尾が素早く夜叉姫に襲いかかり、尾が元の位置に戻った頃には、夜叉姫は跡形もなくなっていた。
夜叉姫が消えると同時に赤い玉は消えた。幻夜は結羅の手を縛っているロープを爪で切り、そのまま結羅を抱えると、急ぐように部屋を出た。髪は銀色に戻り、尾は姿を消していた。立ち尽くしていた太悟は、何も言えないまま付いていく。
裏口から建物の外に出て、幻夜は結羅を抱えたまま一気に塀の外まで飛ぶ。太悟はSPと犬に見つからないよう慎重に塀まで走った。幸い内から出る分にはそこまで警戒されなかったようだ。無事塀の外に出ることが出来た。
太悟が塀を越えた時には、結羅は外側の塀にもたれかかって座っていて、幻夜の姿はなかった。
結羅は弱りきった顔で涙を流していた。
太悟の運転する車の助手席に座り、結羅は呆然と窓の外を見ていた。一言も話さないまま、二人はアパートの近くまで帰ってきた。時間は23時を回っていた。
アパートの近くに車を駐車し、太悟は結羅を部屋まで送る。部屋の前で太悟は、
「ゆっくり休めよ。明日は学校は行かなくていいから」
と優しく言った。結羅を癒すのは、残念ながら自分ではないと太悟は分かっていた。だから部屋の前で結羅を見送り、中には入らなかった。
結羅が部屋に入ったのを見届けた後、太悟は拳を握りしめて、自分に出来ることをしようと決意する。
ここからは結羅救出前に時間を遡る。
沙苗は外に出たものの、どうすれば良いのか分からず彷徨った挙句、家の前まで帰ってきた。
(あたしに出来ることは何もない! 結羅! 無事でいて!)
沙苗は祈るようにギュッと目を閉じた。
一方支狼は、初めて縄張りの外に出た。普段は自分の縄張りの範囲内でしか行動しない。
(何やってんだ、俺は! あの女のためにここまでやるか!?)
危険を侵してまですることではないと理性では考えている。しかし体が勝手に動いていた。
(あの妖狐の気配は····)
随分移動して、ようやく気配を捉えた。
(何かと戦ってる!?)
近づいてみると、数体の妖魔と戦闘中の幻夜を目で捉えた。支狼はこれ以上近づくとまずいと思い、陰から様子を伺う。
しばらくして、妖魔を全て仕留めた幻夜が血を拭っているところに支狼は意を決して近づく。
殺気が残った幻夜にチラリと見られただけで「ひっ」と声が漏れてしまう。降参するように両手を振る。
「お、俺は敵じゃねぇ!! 結羅が鬼に攫われたのを知らせに来た!!」
「何だと!?」
幻夜の表情が険しくなる。支狼は足の間に尻尾が入り込むのを感じながら叫ぶ。
「夜叉姫に攫われた!! 早く助けないと殺されるぞ!!」
支狼がそう言ったのと同時に、幻夜は飛び去った。支狼はふぅと息をつく。
(あー怖かった····)
縄張りに戻った支狼は沙苗を見つけ、一応知らせておくかと目の前に降り立つ。ちょうど沙苗の家の前だ。
「わっ!! お前どこから現れるんだよ!!」
沙苗はまたもや腰を抜かしそうになって叫ぶ。
「お前もいちいち叫ぶなよ」
支狼は沙苗に、幻夜に結羅のことを知らせたと報告する。
「シロー!! 偉い!!」
沙苗は支狼に飛びついて喜んだ。
「わっ! お前! 抱きつくな、くそっ! 離れろ!!」
「····でも、幻夜さんに知らせたところで何も変わらないよね····」
沙苗は喜んだのも束の間、項垂れる。
「相手が相手だからな。でも他に結羅を助けられるやつは········あ、いた。いや、でも遠すぎるな。移動してる間に殺される」
支狼は結羅の母親だという厳雪山の主を思い浮かべて言ってみたが、現実的に難しいと考える。自身も厳雪山に無事辿り着けるとは到底思えない。
話は噛み合っていなかったが、支狼と沙苗は、沙苗の部屋で連絡を待つことにした。
太悟から22時過ぎに無事結羅を救出したと連絡をもらった時は、抱き合って喜んだ。
結羅は布団を敷く気力もなく、ソファに横になっていた。
(幻夜········)
別れ際の幻夜とのことを思い出す。
塀の外に出た幻夜は、結羅をそっと塀にもたれかけさせるように置いた。
そして幻夜を見る結羅に顔を近づけて、そっと二度目の口づけをした。
「結羅。『さようなら』」
眉をハの字に傾けて、寂しそうな顔で笑いながらそう言って、幻夜は飛び去ってしまった。
何度も何度もその場面が頭から離れない。『さようなら』。幻夜はもう自分の前に現れないつもりだと思った。
起き上がることが出来ない。体力的にも精神的にも限界だった。それでも、幻夜と太悟が助けに来てくれたことは嬉しかったし、有り難かった。
結羅はそのまま、目を閉じて眠った。
またあの竜だ、と結羅は思った。しかしいつもと違い、いつの間にか竜ではなく、青い長髪に青い目をした男の人が立っていた。よく見ると誰かに似ている。結羅はそれが鏡に映った自分とそっくりだと思った。
『麒麟』
と、その男は言った。
そして闇の中に消えていった。
気付くと外が明るくなっていた。結羅は少しだけ体力が回復していると感じた。ゆっくりと起き上がる。時間は八時を回っていた。
(学校····)
と思ったが、太悟に今日は行かなくていいと言われたことを思い出す。それでも連絡しなければとスマホを見たら、太悟から『学校には欠席の連絡をした』とメッセージが来ていた。
結羅は再びソファに沈む。このソファにしてよかった、と思いながら、幻夜がそこに座っていたことを思い出す。何となくその辺りを撫でてみる。幻夜の香りが残っているわけではなかった。でも(あの時はここにいたんだよね)と思って、自分がその時にしたことを後悔した。
(あの時に違う行動を取っていれば、こうはならなかったのかな)
と思うが、やはりこうなっていたと思わなければ、心が崩壊しそうなのでそう思うことにした。
幻夜の変化についても考える。
(幻夜は『復活』したってことなのかな。金色になって、何本も大きな尻尾が生えてた。夜叉姫は『九尾様』って言ってすごく怯えてたように見えた。『九尾』って、聞いたことある)
結羅はスマホで調べる。そしてやはり、と思った。
(『九尾の狐』。古代中国の殷王朝の時代に皇帝の后として現れて、悪行の限りを尽くして処刑された後、また別の時代や国で度々姿を現して、数々の伝説を残してる····。これが幻夜なの?)
あまりに現実離れしていて、幻夜と直接結びつかない。しかし『妖狐の親玉』であり、『この世の災い』であり、『九尾様』とまで言われていることを考えるとどうしても結びついてしまう。
そして結羅はハッとした。大変なことに気づいてしまった。幻夜が言っていた『結婚』。その相手は女の人だけではなかったということに。
(気にするのはそこじゃないはずだけど····でもどうしても気になる!!)
結羅は頭を抱えた。いろいろと想像してしまい、顔面蒼白で唸る。ひとしきり考えて、強制的にシャットアウトした。
そして別のことを考えようと、夢を思い出す。あの竜が出てくる夢はいつも起きた後も覚えている。
今回は『麒麟』と言っていた。前回は『分離』と『役目』。
このワードを並べてみても、結羅は全くどういう意味なのかが分からない。幻夜に関係することなのか。それを知るにはどうすれば良いのだろうと考える。
結羅は厳雪山に行くしかないと思った。
太悟は大学の講義を受けていた。全く内容が頭に入らない。昨日のことがずっと頭に残っていて、他のことが手につかない。昨日は興奮状態だったこともあり、足の傷のことは放っていたが、結構な深手だった。その痛みもあの出来事を思い起こさせる。
(結羅が無事だったのは良かったが、何とも重苦しい気分だ)
幻夜のことを考える。
(あいつは九尾の狐だったのか····)
そしてふと旅に出る前の師匠の言葉を思い出す。
『会わなければならない者がいる』
太悟の師匠は、そう言ったきり帰ってきていない。連絡は取っているが、詳しい話はしておらず、幻夜のことを話しても『今は帰れない』と言われていた。
(師匠は一体誰に会うんだ? 九尾の狐は伝説では確か封印されていたはずだが、誰かが封印を解いたのか? それこそ一大事なはずなのに、師匠は知らなかったのだろうか)
そのことに関連があるのかないのか、しかし太悟は直感的に師匠の話にヒントがあるような気がした。
講義が終わった後、師匠に電話をかけてみる。大体通じないが、十回に一回ほど通じる時がある。
『もしもし?』
通じた! と太悟は目を見開いた。
「し、師匠! 話したいことがあります!」
『ああ。今ちょうどお前の家の前にいる』
そう言われ、太悟は目が点になる。
「えっ!? 家の前に!?」
『ちょっと邪魔するぞ』
師匠にはいつも翻弄される。どこかにふらりと出かけては、しばらく帰って来ずある時突然現れる。
「あ、俺は今大学で····すぐ戻ります!!」
太悟は電話を切り、すぐに家へ向かった。
結羅は厳雪山へ行こうと思うが、一人で辿り着けるだろうか、と考える。
(あの時は幻夜と一緒だったから楽に行けたけど····今の体力で無事一人で辿り着けるとは思えないな)
そして久しぶりのシャワーを浴び、朝食を食べ、気持ちを整える。
すると太悟から着信があった。
「もしもし?」
結羅は太悟から告白されていたことを忘れたように、普通に電話に出た。
『あ、結羅? 体調は大丈夫か? もし動けるなら····ちょっと俺の部屋まで来てほしいんだが····あ! 変な意味じゃなくて、会わせたい人がいるんだ!』
太悟の口調から今までの経緯を思い出し、結羅は突然気まずくなる。
「あ····うん。分かった」
(会わせたい人って誰だろう)
結羅は誰なのか全く見当がつかず、考えるのが億劫で、とりあえず太悟の部屋へ行こうと思い、立ち上がった。
太悟の部屋の中に招かれると、いつもの食卓の周りには二人の男が座っていた。一人は四十代くらいで、黒い短髪に法衣のようなものを着ているやや彫りの深い顔の男性。もう一人は黄色い髪を逆立てていて、悟りを開いたような穏やかで何を考えているのか分からない顔をした色白の男性。中華風の装束のようなものを身に着けていて、赤い耳飾りをしている。
結羅は黒髪の男性の方は見たことがあると思った。村に何度か来ていたのを覚えている。
「結羅。こちらが俺の師匠、安倍 清浄だ」
結羅はこれが太悟の師匠かと納得した。だから村に来ていたのか、と思う。
「そしてこちらが····信じられないかもしれないが····神獣の『麒麟』だそうだ」
(えっ!? 『麒麟』!?)
結羅は竜の夢を思い出す。麒麟とは神獣のことだったのかと結羅は驚く。
「紹介が終わって早速だが、本題に入らせてほしい。九尾の妖狐を知ってるな?」
清浄の言葉に、結羅はドキッとした。またあの別れ際を思い出す。清浄は太悟と結羅の反応を見た後続ける。
「九尾が復活したことを、俺はこの麒麟と出会ってから知った。まずは麒麟の話を聞いてくれ」
清浄がそう言った後、麒麟は話し出した。その声は穏やかだった。
「私と九尾狐は、その昔、天界に住む同志だった。九尾狐はよく講義をサボって池のほとりにある桃の木の上で桃を食んでいた。」
何という話の始まりだと結羅は思ったが、幻夜らしいと少し笑えた。
「ある時、天界で応竜という神獣が持っていた“あくのみ”という玉が盗まれた。この世の悪を吸収し凝縮した玉だ。応竜は“あくのみ”を作り、管理する役目を担っていた。そしてそれを九尾狐が誤って取り入れてしまい、下界へ落ちた。その後行方が分からなくなった。何度か応竜が追い詰めたが、その度に逃げられてしまい、応竜は徳を失い衰弱した」
結羅はそこまで聞いて、浮世離れした話だが、幻夜が九尾の狐だと分かっているので、何となく納得しながら聞くことが出来た。そして幻夜を苦しめるものの正体が分かった、と思った。
「お前の母親の麗羅は応竜と雪女の間に出来た娘だ。つまりお前は応竜の孫だ」
麒麟はあっさりと衝撃的事実を暴露する。
結羅は、ずっと夢に出てきた竜の正体は応竜であったと理解した。そして人間のような姿の時、結羅にそっくりだったのは血がつながっていたからだったのだと妙にすんなりと納得する。
太悟は言葉を失っていた。結羅が自分の手の届かないところへ行ってしまったような気がした。
「九尾狐がどういう経緯で玉を取り入れたのかは分からないが、応竜はずっと自分の責任だと感じていたようだ。この国に九尾狐が現れた時、応竜はあれを封印することに成功したが、その後もずっと衰弱が進んでいる。今回私に協力を頼んできたのは、もう応竜には九尾狐を封印する力がないからだろう。責任感の強い応竜が、他の神獣に頼み事をするのは初めてのことだ」
麒麟は表情一つ変えずに淡々と言う。優しいのか冷たいのかよく分からない、と結羅は思う。
「九尾狐の封印が解けた後、なぜ力を抑えられていたのか知らないが、いずれ“あくのみ”に支配されることは分かっていた。応竜に代わり再び封印することが私の役割だ。しかし力を蓄えた“あくのみ”を封印するのに私だけでは心もとないので応援を頼んだ」
麒麟はそれは自分の先輩だ、と言う。口うるさいので直前に呼び出すらしい。
結羅は気になったことがあったので聞いた。
「あの、“あくのみ”だけを封印することは出来るんですか?」
麒麟は質問する結羅の方を見て、特に表情を変えずに淡々と答える。
「出来ない。魂のレベルで取り込まれているし、力の大半も融合している。それが出来れば苦労はしない。だから応竜も苦しんでいる。だが仕方がない。応竜は何か考えているようだが、我らは言われたとおり封印するだけだ」
麒麟は目を閉じて言った。
結羅は絶望した。幻夜は再び封印されてしまう。封印されればもう二度と会えないだろう。
体が震えてくる。厳雪山に行けるかどうか、ではない。行かなければ! 一縷の望みに賭けて、そう決意した。




