それぞれの感情
結羅は表情と言葉を失っていた。今の結羅の心境で、これ以上のことを考えるには容量が足りなかった。最初は何を言っているのか分からなかったが、太悟の表情、声や雰囲気などからそういうことだとは分かった。
何も出来ず、何も言えず、ただ抱き締められるままになっていた。
ずっと感情を押し込めて我慢して、作り笑いをしていたのに、完全に頭がショートしてしまった。
そして、わずかに脳裏に浮かんだのは詩織のことだった。泣いている詩織の顔が、頭の中に映像のように現れて消えない。詩織を悲しませてはいけないと思った。わずかに口が動く。
「詩織····ちゃんは?」
太悟はさらに力を込めた。結羅は背中が痛いと思った。
「詩織のことは何とも思ってない。俺が好きなのは結羅だけだ。俺じゃ駄目か?」
太悟が泣きそうな声で言った。ああ、そうだったんだ、と結羅は思う。どこか他人事のように感じながら、あまり詳細に考えることが出来ずただそう思う。
結羅は告白されながら、酷い孤独感を味わっていた。誰も自分の周りにいなくなってしまった、と思った。
どれだけの時が経ったのだろうと考える。太悟も結羅も、そのままの体勢から少しも動かないままだった。
やがて太悟が体を離した。
「今すぐに答えなくていい。考えてくれないか?」
そう言って部屋を出て行った。
結羅は全身の力が抜けて、その場にへたり込んだ。プレゼントの袋を持ったまま、どうすることも出来ずに魂の抜けた抜け殻のようにただ座り込んでいた。
「結羅ちゃん、ごめん。私、おばあちゃんのところに行くね。この部屋使って」
詩織が荷物を持って出て行くのを、ただ黙って見ていた。
仲居さんが布団を敷きに来てくれたのを、結羅は断った。眠れる気など全くしない。何となく何も持たずにふらりと外に出た。
外は満天の星空だった。気付くと結羅は昼間幻夜と話した大木の側にいた。大木以外に、空を遮るものは何もない。
涙が流れて、どうにも止まらず、止める必要もないかとそのまま泣き崩れた。
朝方、部屋に戻ると新幹線の切符が二枚と手書きのメモがテーブルの上に置いてあった。もう一枚の切符は幻夜の分らしい。
幻夜の切符を仲居さんに預けた。これで誰とも顔を合わせずに済むと、結羅は少し安心した。
旅館をあとにして、結羅は一人帰路につく。
幻夜のことも、太悟のことも、詩織のことも考えるのが嫌だった。誰にも会いたくないし、何なら二度と顔を合わせたくないとすら思う。しかし詩織には申し訳ない気持ちもある。結羅にはどうしようもないが、詩織が悪いわけではない。
(本当は誰も悪くないって分かってる。でもどうしようもない)
幻夜は悪いかもしれないとは思ったが。
まっすぐ家に帰り、布団を敷いてそのまま泥のように眠った。このまま目覚めなくても良いと思うほどに、結羅は深く眠りについた。
夢に青い竜が出てきた。結羅に何か言っている。でも全く声が聞こえない。どこかで見たことがあると思ったら、結羅が神石に当たって気絶している時に夢の中で出てきた竜だ、と思い出した。
結羅は竜が何と言っているのか気になった。近づいて耳をすませる。
『分離』という言葉が聞こえた。それと、『役目』。
ハッと突然目が覚めた。
朝になっていた。
(二回も同じ竜が出てくるなんて····大体夢ってすぐ忘れるのに、あれだけはよく覚えてるのよね)
結羅は体を起こすのが億劫で、そのままゴロゴロと寝転がっていた。
(八時か)
今日は五月五日土曜日だ。せっかくの休みだが何もせずにいたい、と結羅は思った。
旅行中に味わった孤独をジワジワと思い出す。
(そうだ。····私、一人なんだ····)
そう思った時、ふと支狼の顔が浮かんだ。急激に支狼と話したい気持ちになった。大天狗のことについても聞きたかった。
昼前にようやく起きた結羅は、昼ご飯を食べて用意をし、ふらっと家を出た。
支狼のところへ行くつもりだが、詩織の家も近いので遭遇しないように気を付けようと思いながら駅に向かう。
高校を通り過ぎ、足早に裏山まで歩く。前に支狼が現れた自動販売機の辺りで立ち止まった。
息を大きく吸って、思いっきり支狼の名前を呼んだ。これで本当に支狼が来るかは分からなかったが、何となく来てくれるような気がした。
少し待って、もう一度呼んだ。
「うるせーなぁ! 誰かと思ったらお前かよ!」
支狼が耳に手を当てて茂みから出てきた。
「支狼! 久しぶり!」
結羅は何となく嬉しくなって笑う。笑ったのは久しぶりのような気がした。
「お前····気配変わりすぎだろ。見かけてたけど近づけなかったぞ」
「え? そう? やっぱ分かるんだ」
そういえば幻夜も言っていたのを思い出す。結羅は気配がイマイチよく分からないので実感がない。
「何で変わった? お前何の妖魔だ?」
「雪女みたい」
結羅は女郎蜘蛛を倒した時のことを支狼に話した。そして厳雪山へ行ったことも。
支狼は結羅が厳雪山の主の娘と知って心底驚いたようだ。
結羅は、妖魔と人間とのハーフであることには変わりないが、覚醒したことで支狼との距離が何となく縮まったような気がしていた。
すると支狼が突然、神妙な面持ちで話し出した。
「お前その気配でウロウロしてねーだろうな。妖魔は縄張り意識が強い。それで均衡を保ってんだ。前は『変なやつ』くらいで相手にされなくて済んでたかもしれねーが、ある程度の気配を持った今、血の気の多い妖魔の縄張りに何度も入ったら目つけられるぞ」
結羅は、そうなんだ····と汗を垂らす。すでにウロウロしてしまった。烏天狗たちに囲まれた時のことを思い出す。
そんなことは言われないと分からない。
「あと女郎蜘蛛を倒したって言ってたが····それはかなりやべぇぞ」
「え? どうして?」
支狼がいつになく真剣なので、結羅は気になって身を乗り出す。
「お前呑気だな! アイツが獲物を狩ってた場所はヤバイやつの縄張りの範囲内なんだよ! ギリギリだけどな」
「ヤバイやつって?」
「········鬼だ。地獄の鬼。ヤツらはほんとにヤベェぞ。この辺りでは最高峰だ。俺は絶っっ対に近づかねー!」
結羅は『鬼』と聞いても、昔話くらいしか思い浮かばない。絵本の『桃太郎』に出てくる鬼ヶ島の鬼を思い描いた。赤や青の体で金棒を持ったあの昔ながらの鬼。
「そんなにヤバイの? 鬼って」
「お前っ!! 妖魔ならちょっとは常識を勉強しろ!! マジで死ぬぞ!! 鬼は集団で行動するが、一体一体が並の妖魔が束でかかっても敵わない力を持ってんだ。そのリーダーは千年以上生きてるって噂の夜叉姫だ!」
支狼に『勉強しろ』と言われてしまった····と結羅は若干の屈辱感を味わう。が、妖魔の世界を知らないのはある程度仕方ない、と自分でフォローする。だから支狼に聞いているのだ。
(夜叉姫····てことは女の鬼なのね)
「鬼は普段は大人しくしていて、定期的に人間を集中して狩るんだ。娯楽かストレス解消か知らねーが。だがヤツらも目立つことは嫌う。長い間人間に紛れて暮らしてるヤツは、その生活を気に入ってることが多いからな。ちょうど女郎蜘蛛は目くらましに使われてたんだろーな。主従関係があった可能性もある。手下をおとりにするなんてよくあることだ。あそこで狩りをすることを許してる時点でその可能性が高いな」
(あの女郎蜘蛛を手下にしてる鬼? ····それは確かに厄介そう····)
「じゃあ····私はその鬼に目をつけられてる可能性があるってこと?」
「てか、絶対つけられてるだろ。女郎蜘蛛を殺したこと自体はたぶん何とも思ってねーが、ヤツらの邪魔をしたことになるからな。二度とその場所に近づくなよ! 確実に殺されるぞ。今までよく無事だったな」
結羅はどの程度大変なことなのかイマイチ実感はないが、支狼の態度を見るとまずいのかもしれない、と思う。だが何度も太悟の大学近くの病院へ行ったが、何事もなかった。
支狼は少し大げさに言っているのではないか、と結羅は思った。
「支狼は妖魔同士のケンカには興味ないって言ってたのに、いろいろと情報収集もしてるんだね」
「規模の問題だろ! 雑魚妖魔の縄張り争いなんか興味ないが、強い妖魔が関係することは下手したら命に関わるからな! 常識だろ!
····ヤツらも覚醒したばかりのお前の情報がないから探しきれてねぇのかもな。今のうちに気配消しといた方がいいぞ」
「気配消すってどうやるの?」
「はぁっ!? そんなことも出来ねーのかよ! 終わったな。お前死ぬわ」
「ちょ、ちょっと! そんなこと言わずに力になってよ!」
支狼は近づく結羅を避けるように後ろに下がる。
「やだね! お前の近くにいると俺もヤバイから逃げるわ! じゃあな! 生き延びろよ!」
薄情なことを言って、本当に支狼は行ってしまった。天狗のことを聞きそびれた····と結羅は思った。
(せっかく支狼と話して気が紛れるかと思ったのに、嫌な話を聞かされちゃった)
結羅は今はいろいろなことが頭を占めていて、あまりきちんと考える余裕がない。支狼から聞かされた話も、そこまで真剣に考えていなかった。
それが後に大変な事件に繋がるとは、この時の結羅には知る由もなかった。




