鞍馬山の妖魔
新幹線のとある座席には、目に見えるのではないかというほどの暗黒の空気が立ち込めていた。
前向きに窓際に座る幻夜と、後ろ向きに通路側に座る太悟は体こそ向かい合ってはいるものの、頭は逆方向を向いていた。二人共頬杖をつき、太悟はこれ以上ないほど不機嫌そうな顔をしている。幻夜は真顔だ。
太悟の横の席でオロオロする詩織。太悟は詩織にすら一言も話さない。
結羅は詩織に、太悟と幻夜は仲が悪いことを話していた。が、ここまでとは思っていなかったのだろう。
結羅は予想していたが、前にも増して太悟が幻夜を敵視している感じがする。
太悟に『何でお前がここにいるんだ!』と言われ幻夜が『結羅に誘われた』と答えてから、太悟は一言も発さなくなった。
地獄のような乗車時間を終えた頃には、結羅も詩織も気疲れしていた。そのまま旅館へ向かうが、相変わらず二人は全く声を発さない。
(一体この旅行はどうなるんだろう)
詩織もそう思っているだろうと思いながら、結羅は肩を落とした。
貴船にある旅館に着くと、詩織の祖母と数人の着物を着た仲居さんたちが出迎えてくれた。老舗だが古さを感じさせない旅館で、中はとても綺麗だった。本館と離れがあり、結羅たちは離れに案内された。本当は詩織の家族と親戚が泊まる予定だったそうだが、行けなくなったので代わりに結羅たちが誘われたのだそうだ。
二部屋予約されていて、女部屋と男部屋に分かれるつもりだった。しかしあの二人を同じ部屋には出来ないと思い、詩織が旅館側にもう一部屋空いていないか聞いたが、無理らしい。
部屋はすでに用意出来ていた。幻夜は荷物がないので、ひとまず結羅と詩織は同じ部屋に、太悟はもう一つの部屋に荷物を置いた。
結羅と詩織は事前に計画を立てていた。昼間は観光をし、夜に太悟の誕生日会をする計画だ。
(意を決して幻夜を誘ったけど····私本当に自分のことしか考えてなかった。太悟兄ちゃんと詩織ちゃんが嫌な思いしなければいいけど····すでにしてるよね····)
そこで結羅は二人ずつ別行動にしようと提案する。幻夜と太悟が顔を合わせると空気が悪くなるので、幻夜と結羅、太悟と詩織で分かれようと言った。
詩織は了承し、太悟は何か言いたげだったが結局何も言わず二人で先に出発した。
結羅はふぅと一息ついて、ふらっとどこかへ行ってしまった幻夜を探しに行く。
幻夜は大木の前にいた。じっと木を見ている。
二人きりになると、結羅はどうしたら良いか分からなくなる。
沙苗に言われたことを思い出す。
幻夜は結羅の行動の意味が分かっていないはずだから、なぜあのような行動に出たのか説明する。それから結羅の気持ちを言い、幻夜の気持ちを聞く。
ここまでこの旅行中に出来たら上出来だ。
(さすがに難しいかな····)
結羅が立ち尽くしていると、いつの間にか幻夜が近くに来ていた。足音もなく突然近づかれるのはいつまで経っても慣れない。
「わっ! びっくりした!」
慌てて距離を取ろうとすると、いきなり右手首を掴まれる。
「えっ!? な、なに!?」
「結羅と二人の旅行だと思っていた」
幻夜が真顔で言う。切れ長の目が結羅をじっと見る。今日の瞳は薄茶色だ。
結羅は戸惑いながらも、その言葉に納得する。
「あ····そっか、言ってなかったもんね····ごめん」
一瞬の沈黙の後、幻夜は少しいつもより低い声で言った。
「結羅の求めていることに応えたら、俺を受け入れると思った。でも拒否されて、おまけに『さようなら』と言われた。その後旅行に誘ってきたかと思ったら二人じゃなかった」
「げ、幻夜?」
(もしかして怒ってる····? って、そうだよね。普通怒るよね。そのくらいのことをしたんだよね、私····)
「最初は照れているだけかと思った。でも違った。結羅の考えがどれだけ考えても分からない」
「そ、そうだよね。ごめん」
「何を謝る? 何を考えてる? どうしたいかを言え」
いつもより乱暴に幻夜は言った。苛立っているようだった。
結羅は、説明しなければと思い口を開いた。
「私は····自分が何で怒ってるのか分からなかった。幻夜を前にすると何だか感情的になってしまって····その理由に気付かないままキスされて····すごく混乱したの」
「········」
幻夜の反応を見ながらでは言えないと思い、結羅は目を逸らして俯き加減で話す。
「それなのに幻夜は私が何で怒ってるかが分かったって言うし、キスした後も平然と訪問して来るし、気持ちが追いつかなかったの。何で私の求めていることがキスになるのか、幻夜の言ってる意味が分からなかったの。だから拒否した」
結羅はベランダでの件を思い出しながら言った。
「それからようやく意味が分かって、今度はサキさんと自分を重ねたの。幻夜を『解放』したら、私もサキさんと同じように捨てられるんじゃないかって怖かったの――――」
そこまで言って沙苗に話した時のことを思い出し、涙が出そうになった。幻夜は目を見開いて結羅を見ている。結羅は幻夜の方を見ることが出来ないまま、ギュッと目を閉じる。
「幻夜のことが好きなの。でも踏み込めない。幻夜と関係してきた多くの女の人と同じになりたくない!」
結羅は言いたいことを全て言い切ったと思った。何だかどっと疲れてしまったが、伝わったと信じたい、と思う。
幻夜は黙っている。何か言って欲しいと結羅は思ったが、何を言われるのか怖くもあった。
しばらくの沈黙の後、幻夜が重く口を開いた。
「分かった。····理解した。全て。····結羅の言うとおりだ。何も間違っていない」
その声は、なんの色もないような、どこか諦めたような、幻夜らしくない声に結羅には聞こえた。
結羅は立ち尽くしたまま、言葉の意味を探った。
それはつまり、最悪の想像のとおりということなのか。
そんな言葉を聞くために、自分は意を決して告白をしたのか。
結羅は頭の中が真っ黒に塗りつぶされていくように、何も考えたくないと思った。
『言いたいこと全部言えばいいんだよ』
沙苗の声が聞こえた気がした。
「本当に····そうなんだ····。最低····。最悪····。言わなきゃ良かった····。幻夜と出会わなきゃ良かった····」
結羅はそれだけ言うと、幻夜の手を振り払って全力で走り去った。何故か涙も出なかった。
(言ったよ····沙苗。····ミッションはクリアしたよ。最悪の結果になったけど)
無我夢中で走って、気付くと旅館から一番近い観光地にいた。鞍馬山の麓で、貴船神社に続く道があった。もともと行く予定だったところだ。
何故か結羅は山に登りたいと思い、頂上まで行こうと考えた。
(あんまり人がいないといいな)
結羅は山の中の階段を登っていく。上に登るにつれて人は減ったが、やはり連休の真っ只中ということで、常に周りには人が歩いていた。
長い時間登ったので疲れてくるが、体が疲れるにつれ心の痛みが軽減されていくような気がして、結羅はひたすら上を目指した。
幻夜とのことを忘れたいがために、登ることにのみ神経を集中した。
奥の院まで来た。結羅は観光する気はなかったが、少し奥まで入る。さすがに麓よりは格段に人が少なかった。
一人になれる場所を探して、結羅は歩いた。一人で泣ける場所が欲しかった。気付くと奥深くまで入ってしまったようだ。
すると突然、目の端に黒い影が映ったような気がした。しかしそちらを見た時にはもうない。別のところにまた影を捉える。そちらを見ても何もない。結羅は少し怖くなる。
妖魔だろうと思った。しかしこんなに人の多い観光地に妖魔が出るとは思わなかったので焦る。こんな時くらい遠慮してよ! と思うが、あっという間に囲まれてしまった。動く影がそこら中にいる。
冷気を出す。白い冷気が結羅を取り巻いた。細かい雪の結晶が舞う。同時に青い髪も舞い上がった。
全方向に警戒し、攻撃されたらすぐさま返り討ちにする心構えをする。
「我らの縄張りに単独で入るとは、愚かな雪女だな」
声が聞こえた。黒い影からのようだ。
「何者なの!?」
「くっくっく。ここに来て我らが何者か、だと!? なんて間抜けなやつだ!」
影たちは可笑しそうに笑う。結羅は考えた。ここは鞍馬山····もしかして····。
「天狗!?」
そうとしか考えられない。そうだ! 『牛若丸』の話に出てきた鞍馬の天狗だ! と思った。
「我らは烏天狗だ。おいそれと妖魔はここに近づかないが、何の目的でここに来た?」
じりじりと隙を狙われているように感じた。気を抜くとやられると思った。いつの間にか数が増えている。
そのうちの一体が結羅に向かって攻撃を仕掛けてきた。当てるつもりはなかったのか何とか避けられたが、おちょくられているような感じがした。烏天狗たちは笑っている。
獲物を弄ぶように、烏天狗は取り囲む円を小さくして、複数の者が交互に攻撃してくるようになった。
(やばい! 四方八方から攻撃されると反撃しきれない!)
そう思った時、
「若い雪女よ········」
という男の声が聞こえた。先程までの若い男たちではなく、初老の男の声だ。
その声がしてから、烏天狗たちの攻撃は止んだ。
「お前がヤツと行動を共にしている雪女か····麗羅の娘だな」
結羅はハッとした。麗羅の娘だと知っている。先程までと違い、敵意はあまりないように感じた。
「誰っ!?」
結羅は何者だろうと思って、声の主に聞いた。すると初老の男は『大天狗』だと答えた。
(大天狗····てことはコイツらのボス!?)
油断してはいけないと、結羅は気を引き締めた。しかし攻撃してくる気配はない。
大天狗は結羅と行動を共にしている者は、『この世の災い』だと言った。それは幻夜のことのようだった。
「今仲間を集めている。ヤツを倒すために」
と言う。結羅は何が何だか分からなかった。何故ここでも幻夜の話を聞かなければならないのか、とうんざりすると同時に幻夜は天狗にも恨まれているのか、と思った。
「何度か刺客を差し向けたが倒せなかった。大勢でかからなければならない。ヤツが完全に復活する前に」
結羅はどういうことだろうと考える。妖魔同士の関係は全く分からない。幻夜は多くの妖魔に狙われている····? 今までも刺客を差し向けられていたと聞いて、幻夜の言っていた『暇ではない』とはそういう意味かと、結羅は唐突に理解する。
(それと····『完全に復活する前に』というのはどういう意味だろう)
結羅はハッとした。『解放』の二文字が浮かんだ。
(幻夜を解放したら····大変なことになるってこと!?)
「隙あらばヤツを殺せ。麗羅の娘ならば可能なはずだ」
その声を最後に、大天狗の声は聞こえなくなり、いつの間にか烏天狗も消えていた。
結羅は力が抜けて、膝をついた。助かった、とまずはほっとした。
そして大天狗の言っていたことを考える。麗羅の名前が出てきたのは何故なのか。敵対しているわけではなさそうだった。そのおかげで助かったのかもしれない、と思う。
しかし幻夜のことを殺そうとしていた。
麗羅の言葉を思い出す。『大いなる役目』。
それは幻夜に関することなのではないかと結羅は唐突に思い立った。
そしてそれはどちらの意味だろう、と考える。幻夜を復活させること!? それとも殺すこと!? 麗羅の立場は!? 幻夜の敵なのか、それとも味方なのか。
もし麗羅が幻夜にとっての敵なら、何故幻夜は麗羅の元へ結羅を連れて行ったのか。
そしてもし味方なら、何故麗羅は幻夜に呪文をかけたのか。
結羅は何も分からない、と頭を抱える。
冷や汗が出てくる。もし幻夜を殺すことが、麗羅の言う『大いなる役目』だったら····。好きになった者を殺すのが運命····? いや、好きになってはいけなかった? ····そのために幻夜は自分に近づいたのか? さらに恐ろしい想像をしてしまい、結羅の頭は爆発しそうだった。
沙苗と話したい、と強く思ったが、ここは電波が届いていないようだ。何とか力を振り絞り、下山する。
麓に着くと相変わらずの人だかりだった。結羅は頭がこんがらがった状態で、人だかりをひどく鬱陶しく感じた。
電波が入ったので、なるべく人が少ないところを探し沙苗に電話をかけた。
『もしもし?』
すぐに沙苗が出た。いつもの沙苗の声に結羅は励まされる感じがして、また目頭が熱くなってしまう。
「あ。沙苗。あのね、淡々と事実を話すね。幻夜に告白したの。それでフラれた」
結羅は出来る限り感情を込めないように言った。そして沙苗の返答を待つ。
『えっ!? マジで!? ····詳しく聞かせて』
結羅は沙苗に詳細を話す。想定していたうちの悪い方の返答だったことを話す時はさすがに息が詰まった。
沙苗は結羅が話し終えるまでじっと黙って聞いていた。
『そっ····か。なんか····けしかけたみたいになってごめん』
結羅は沙苗の言葉に、自分の惨めさを実感し泣きそうになった。
「ううん、沙苗は間違ったこと言ってないよ。結果がそうだっただけ。結局、幻夜はそういう人だったってことだよ····」
天狗の話を思い浮かべて、沙苗には話せないがさらに酷い男かもしれないと結羅は思いながら言う。
沙苗との電話を切り、暗い気持ちで結羅はスマホを握っていた。今は少しも前向きな気持ちにはなれない。
そう思って、一人建物の壁に背をついて、ただじっと立ち尽くしていた。
沙苗は結羅との電話を切った後、後味の悪い気分でいた。
部屋のベッドに座り考える。
(なーんか腑に落ちないなぁ。あたしが聞いた限りの幻夜さんの言動では、結羅のことを好きだと思ったけど····。何か矛盾してるんだよね。もしかして、幻夜さん自身も気付いてないのかな? 自分の気持ちに····)
沙苗はうーんとうなる。
(でもそれは結羅には言えないよね。もう下手なことは言わないでおこう)
そしてベッドに寝そべった。
夕方、先に旅館に着いていた結羅は荷物を置いた部屋にいた。幻夜の姿は見当たらない。
そこに太悟と詩織が帰ってきた。結羅は精一杯の作り笑顔で二人を迎えた。せっかくの旅行なのに、自分のせいでこれ以上台無しにしてはいけないと思ったからだ。
夕飯前に詩織と温泉に入った。詩織は太悟の怪我を気遣って近場を提案したが、太悟は遠くまで行きたいと言い、いろいろな観光地を回って楽しかったそうだ。
結羅は詩織と太悟が楽しんでくれて良かったと心から思った。それで少し救われた。
夕食は太悟の部屋で食べた。豪勢な懐石料理だった。
幻夜は現れなかった。結羅は気にしないようにして、夕食を楽しもうとした。
夕食後、サプライズでケーキを持ってきてもらい、バースデーソングを詩織と二人で歌った。途中詩織に幻夜がいない理由を小声で聞かれたが、「太悟兄ちゃんと仲が悪いから」と誤魔化した。太悟は一切幻夜のことに触れなかった。
結羅は詩織が太悟にプレゼントを渡すのを見てハッとする。部屋からプレゼントを持ってくるのを忘れていた! と思い、隣の部屋に取りに行ってくると言って席を立った。
(詩織ちゃん、本当に太悟兄ちゃんのことが好きなんだなぁ)
詩織の嬉しそうな顔を思い浮かべながら、結羅はプレゼントを鞄から出す。すると背後から扉の開く音がした。
太悟だった。無言で結羅の方へ歩いてくる。
「あ、太悟兄ちゃん、ごめんね。今プレゼント持っていこうと思って····」
綺麗に包装された袋を持って立ち上がると、目の前に来た太悟にそのまま抱き締められた。
「え!? どうしたの!? 太悟兄ちゃ····」
「結羅。好きだ」
十畳の畳に二畳分ほどの板の間がついている整った部屋で、太悟は強く結羅を抱き締めていた。




