中編
何度目のことか。劇場中に女の悲鳴が響き渡り、長く尾を引いてようやく消えた。
「ベアトリス! ベアトリス!! しっかりしろ、聞こえるか、ベアトリス!!」
肩をゆさぶられる感触。聞き慣れた男らしい声。
ベアトリスの意識が戻ってくる。
こちらをのぞき込む水色の瞳、心配そうな表情。
ベアトリスの愛する夫の顔だった。
「殿下…………私は…………」
ベアトリスは床に倒れて夫に肩をつかまれ、全身に汗をかいていた。目の前の光景が現実と実感できない。
「私は、どうしていたのでしょう?」と、訊ねたつもりだった。
が、ウィルフレッド王太子は恐ろしい表情でベアトリスを凝視している。
よく見れば、夫の背後からこちらの様子をうかがっている義父母や父、リベルタ大使までもが似たような顔をしていた。いったい何故。
「ベアトリス。君は…………兄上を嵌めたのか」
「え…………?」
「兄上を、エルドレッド殿下を罠にかけたのか! 第一王子を! 自分の婚約者を! クレア・タリス男爵令嬢を脅迫し、彼女を殺して埋めたのか!!」
「…………っ!」
ベアトリスの脳裏に、一瞬で奇妙な暗闇での会話がよみがえる。
血の気が引いた。
「殿下、殿下、私は…………!」
ベアトリスはわけがわからなかった。
何故この人はこんな、恐ろしいものを見る目つきで私を見つめるのだろう。私は妻なのに。どうして国王陛下も妃殿下もお父様まで、殿下と同じような目で私をにらんでいるの? 私はとても恐ろしい思いをしたのよ、少しは気遣ってくださっても…………。
ベアトリスは夫へ手を伸ばそうとして、足がかたい物に触れる。
「痛っ…………」
叫ぶと、居合わせた者達の視線がベアトリスの靴の先に転がる小さな物の存在に集中した。
白い大理石の床の上に、灯りを反射して金色に輝く物がある。
「なんだ? 指輪?」
ウィルフレッドが片腕を伸ばして、それを拾う。そして愕然とした。
ルビーをはめた不死鳥。サングィス王家の紋章をかたどった金の指輪。
王太子ウィルフレッドの人差し指にも、同じ物が輝いている。それすなわち。
「王太子の、印章指輪!? 三年前、兄上の廃嫡と同時に紛失していたはずの物が、何故ここに…………!!」
ウィルフレッドの言葉を聞いた誰もが息を止め、絶句した。
ベアトリスは闇に落ちるように気を失う。
王太子妃は離宮内の私室に運ばれた。同時に国王直々の命令で、問題の劇を上演した旅の一座が招集される。
しかし一座の者は俳優も監督も裏方もそろって忽然と姿を消しており、誰一人として見つからなかった。彼らが荷物を運んできた荷車も消えていたが、車輪の音を聞いた者はいない。
「いったい、どこに…………何者だったんだ?」
舞台に丸ごと残されたセットの前で呆然とこぼされた呟きに、答える者は誰もいない。
「クレアお姉ちゃん、終わったよ」
リベルタ公国のアマニーニ伯爵邸の庭の片隅で。
長い黒髪の少女が墓前にしゃがんで報告していた。
小さい墓石には、ただ二行。『クレア』、その下に生年月日と没年月日。
サングィス王太子妃が少女の顔を見れば「クレア・タリスが蘇った」と悲鳴をあげたろう。
リベルタ人の旅芸人の娘、マーガレット。十四歳。
あの『婚約破棄』の劇で男爵令嬢役を務めた、旅の一座の女優。
そしてクレア・タリスの妹。
タリス男爵の妾だったクレアの母が男爵に捨てられたあと、下町の男と結婚して産んだ異父妹だった。
「けっきょく、サングィス王家は変わらなかったな。姉ちゃんを殺したベアトリス王太子妃は、今も王太子妃のままだ。あれだけ白状したってのに…………!」
悔しげに拳をにぎりしめたのは、隣に立つテディ。黒髪茶眼、マーガレットの一歳上の兄で、クレアの異父弟だ。彼もまた一座の一員で、主に裏方を担当しているが、時に端役を務めることもある。
憎々しげに吐き捨てたテディに対し、マーガレットはいくぶん冷静だった。
「しかたないわよ。王太子妃が画策して前の王太子を破滅させました、なんて、大醜聞だもの。王家は公にしない、って予想はついていたじゃない」
「そりゃそうだけど…………」
「ベアトリスの罪を王太子や国王に暴露できたんだから、それで良しとしよう? はじめから、多くは望まない約束だったでしょ?」
姉の墓石を見つめるマーガレットの横顔は冷静だ。ただし、その瞳には諦観と、それにも隠しきれない怒りが渦巻いている。
「お姉ちゃんは、クレア・タリス男爵令嬢は、けしてサングィス国内で噂されるような悪女じゃなかった。それを、国王達だけにでも思い知らせてやれたんだから。今は、それで良しとしよう。お姉ちゃんは被害者だった。エルドレッド殿下も…………ただ、髪が黒かったばかりに。リベルタ人の血を引いていたばかりに…………」
サングィス王国の隣の小国、リベルタ公国。この国はもともとサングィスの一部だった。
もともと大帝国だったサングィスの弱体化にともない、複数の地方領主共々、独立を宣言した新興国なのだ。
そのためサングィス国内では、今でもリベルタを『裏切り者』扱いして、黒髪黒眼のリベルタ人を属国扱いしたり、格下に見る傾向が強い。
現サングィス国王ダライアス二世は、国防と外交の都合からリベルタ公女オンディーナを王妃に迎えたが、サングィス宮廷内で黒髪黒眼の公女に対する陰口がやむ日はなかったという。
それは公女が産んだ第一王子エルドレッドに対しても変わらず、公女が早世して、金髪碧眼の公爵令嬢が新たな王妃に迎えられ、金髪碧眼の第二王子ウィルフレッドが誕生すると、第一王子に対する風当たりはさらに強まった。
サングィス宮廷内で第一王子は孤立に近い状態だったという。
父親であり国王であるサングィス王からして、あからさまに第二王子ばかり溺愛していたというのだから当然だ。
不運なことにエルドレッド王子は生まれつき体が丈夫でなく、病床につくのもしょっちゅうで、ほっそりとした体は鍛えても筋肉がつかず、そういうひ弱さも「人の上に立つ者には健康も重要」と信じる父王には嫌がられた。
ウィルフレッド王子が風邪一つひかずに成長して、武術や体術の才能を見せはじめると、なおさら父王の愛情は弟へかたよった。
リベルタ公国への体面上、エルドレッド王子は王太子となり、サングィスの令嬢の中でも特に高貴な婚約者を与えられたが、やがて王立学院に入れられた。これは王太子としては異例の待遇である。
なぜなら、学院というのは『幅広い貴族の子女への高度な教育』を理念に掲げてはいるものの、実際に通うのは、必要な数の家庭教師をそろえられない下級貴族や没落貴族の子女、それから家督相続の可能性の低い次男や三男達が、結婚相手を求めて通う場所だったからだ。
王太子を通わせたりして、それこそ市井の低俗な恋愛小説のように「身分の低い令嬢を見初めて、高貴な令嬢との婚約を破棄~」などという事態になったら、目も当てられない。
なのでサングィス王太子は代々、王宮で無数の家庭教師に囲まれて学ぶのが常識だった。
それが破られたのは、とどのつまり、エルドレッド王子がサングィス宮廷からも父王からも不要な者として、うとまれていたからに他ならない。その証拠に、ウィルフレッド王子は王宮で立派な家庭教師を何人もつけられて、学院には一度も通ったことがない。
そして、そんな風に通い出した王立学院においてすら、黒髪の王子は忌避された。
王太子という王国第二の地位にありながら、ずっと低い身分の金髪の学生達に「あんなひ弱な黒髪の王子に、この国の将来を任せられるのか?」と馬鹿にされつづけたのである。
そういった状況を把握していたからこそ、ベアトリス・ソールズベリー公爵令嬢はクレアに目をつけた。
ベアトリスはリベルタ人の旅芸人の女を囲っていたタリス男爵の存在を知ると、配下を使って彼の周辺を調査し、男爵が求める物、すなわち難病の息子のための貴重な薬と引き換えに、彼が妾に産ませた黒髪の娘、クレアを差し出させた。
クレアはベアトリスの裏工作もあり、私生児ながらタリス男爵の『養女』という体で学院への入学を果たす。そして父と公爵令嬢の命令通り、エルドレッド王子に接近したのである。
こういった事情のすべてを、マーガレットはクレア自身からすべて逐一教えられていた。
妾だったマーガレット達の母親がタリス男爵に捨てられた時、クレアも共に捨てられて、クレアとマーガレットとテディの三人は、きょうだいとして育った。
それは母が亡くなる数ヶ月前、突然、男爵が押しかけて金貨と引き換えにクレアを連れていったあとも変わらず、マーガレットもテディも何食わぬ顔で野菜売りや洗濯女に雇われ、野菜の運搬や汚れ物の回収に乗じて学院に入り込み、暗号による手紙で姉と連絡をとりあっていたのである。
だから弟妹は姉に起きた出来事をすべて把握していたし、さらには隙を見ての盗み聞きで、学生達の間でかわされる姉や第一王子に関する噂の内容まで知っていた。
クレアは自分の未来を悟っていた。
たかだか一介の男爵令嬢が、冷遇されているとはいえ、一国の王太子を惑わしてただで済むはずがない。タリス男爵からは「王太子殿下を口説き落として王妃となり、男爵家を出世させろ。そうすれば母親や弟妹は一生、男爵家が面倒を見る」と命じられていたが、賢いクレアは王立学院に通ったことで「そんな奇跡は起こらない」「起こるのは物語の中だけ」と理解していたし、父親の背後にいる何者かの存在にも気がついていた。
クレアは学院でエルドレッド王子と話し、学生達の噂話に聞き耳を立て、うかつなところのある父親が会話の端々でこぼしたヒントを集めて分析し、その『何者か』がエルドレッド王子の婚約者、ソールズベリー公爵令嬢であることも勘付いていた。
おそらく公爵令嬢は王子との婚約を解消したがっている。
そのために「エルドレッド王子は婚約者の公爵令嬢をないがしろにして、身分卑しい女にのぼせあがっている」という状況を作りたいのだ。
「こんな王子と結婚なんてできない」という主張に正統性を持たせるために。
だからこそ、なおさらクレアが助かる道はない。
私生児かつ、サングィスでは忌避されるリベルタ人の血まで引くクレアに、筆頭貴族の令嬢に逆らう力はあるはずもない。逆らえば、病気の母やまだ子供の弟妹に危害が及ぶだろう。
クレアは黙ってエルドレッド王子に近づき、彼と親しくなった。黒髪にリベルタ人の血という、この国では少数派の共通点により、王子はすぐにクレアに親近感を抱いたらしい。
そうして例の『婚約破棄』事件に至ったのである。
すべてはソールズベリー公爵令嬢の計画。彼女の命令によるものだった。
事件が起きる直前には、クレアは父の男爵を言いくるめて、黒幕である公爵令嬢に接触することに成功しており、『婚約破棄』は彼女から直接うけた命令だった。
ソールズベリー公爵令嬢はクレアを卑しい身分の欲深な女と信じ、侮り、金貨をちらつかせれば裏切る心配のない道具と思い込んでいたのである。
そうしてクレアは殺された。本人も予測していたとおりに。
あの婚約破棄事件の直後、クレアとエルドレッド王子は軟禁状態に置かれた。
だがクレアはソールズベリー公爵令嬢により、ひそかに王宮から連れ出されてソールズベリー公爵邸に連れていかれ、公爵令嬢の配下によって絞殺された。あの劇のとおりに。
マーガレットとテディはそれを見ていた。
クレアから事情を逐一知らされていた二人は、王宮で国王の決定が言い渡される日、なんとか姉を助けられないかと、王宮の外で見張っていた。そしてソールズベリー公爵家の紋章を掲げた大型馬車が王宮の門から出てきて、その窓から一瞬、黒髪の女性が顔を出すのを目撃すると、即座に馬車を追いかけて、後部にとりつけられた荷物台に飛び乗ったのだ。
公爵邸に到着し、姉を探していたマーガレットとテディは公爵令嬢の私室と思しき部屋の窓にたどり着き、そこで美しい銀髪の令嬢と、布をかぶった男達に首を絞められるクレアの姿を発見する。
「どうクレアを助けようか」と考える間もなかった。
二人は大好きな姉が男達によって担ぎ出され、広い庭の片隅に伸びた木の下に埋められるのを、黙って見守るしかなかった。
そして公爵邸が寝静まるのを待ち、二人で墓石一つない墓を掘りかえしてクレアの遺体を担ぐと、闇にまぎれて公爵邸を脱出したのである。埋めたばかりで土がやわらかかったのと、王都の外の丘の上に建てられた公爵邸に、高い門や柵が設置されていなかったのが幸いした。
深夜に、灯り一つない丘を重い荷物を担いで降りていくのは、大人であっても度胸のいる行為だった。マーガレット達も一人であったら、足がふるえて動けなくなっていただろう。
しかし子供達は優しい姉を理不尽に殺した犯人達への怒りに燃え、なにもできなかった自身への不甲斐なさに対する怒りに突き動かされて、愛する姉を下町の我が家に連れて戻ることに成功した。
この頃には、三人の母は病で亡くなっており、娘の無惨な遺体を見せずに済んだのがせめてもの幸運だった。
マーガレットとテディは一眠りして体力を回復させると、すぐに動いた。
クレアがタリス男爵に連れていかれて、その真の目的が明らかになったあと。
マーガレットとテディはクレアに指示され、王都脱出の支度を整えていた。
クレアは賢い娘だった。そして芯も強い少女だった。
自分が大貴族に利用され、使い捨てにされる道具であることを理解すると、自ら情報収集に邁進して、少しでも真実に近づこうとした。そして、わかった事柄はすべて弟妹に伝えた。
そうやって、やがて訪れるであろう自分の死の真相を、愛する家族にだけでも知っておいてもらおうとしたのであり、それだけが彼女にできる公爵令嬢への抵抗だったのだ。
クレアはおそらく『第一王子をたぶらかした重罪人』として処刑されるか、真実の隠ぺいのため、ソールズベリー公爵令嬢に殺される。運が良くても国外追放くらいは免れまい。
そうなった時、マーガレットとテディはどうなるのか。
クレアの指示のもと、二人は男爵からもらった金貨にはできるだけ手をつけずに置き、いつでも家を捨てられるよう、荷物をまとめて逃亡の手筈を整えていた。
三人の母はタリス男爵に囲われる前、旅芸人の一員だった。
マーガレットとテディは母の伝手で母のかつての仲間達と連絡をとり、その時が来たら母と三人、旅芸人にまぎれてサングィス王国から脱出させてもらえるよう、頼んでいたのである。
本来なら、旅芸人といえど関わりたくない案件だった。国籍や市民権を持たぬ彼らだからこそ、強大な権力者に目をつけられることは恐ろしい。
だが母の仲間達は母とその子供達の苦境、母を囲いながら捨てた父親の身勝手、なにより、自分たち下層の人間を虫か道具程度にしか考えていない上流貴族の傲慢と酷薄を知ると、快く協力を約束してくれた。
二人は彼らと連絡をとると、金貨と宝石(クレアがエルドレッド王子から贈られた物)とわずかな荷物、そしてクレアの遺体と共に、住みなれた我が家をあとにしたのだ。
姉を引きとってわずか半日の出来事であり、ソールズベリー公爵邸では「ヘカテの木の下に埋めた遺体が無くなった」との報告を令嬢がうけ、王宮では王太子の印章指輪の紛失が判明して、捜索がはじまり出した頃のことだった。




