宿屋
歩き出すまで時間はかかったが、宿へは実はたった数歩でしかなかった。
宿屋に入ってウィステリアの娘に会うことを、イーオインが宿屋の前で躊躇していただけの話である。
「あぁ、認めよう。俺はあの子を失ったことも、エドワードの遺言を守れなかったことをも認めたくはないという事を。はは。ルーカスがうんざりするはずだよ。」
ばたん。
突然の音にイーオインが顔をあげれば、マスの絵が描いてある宿屋の看板の下のドアが大きく開いた音だった。
彼が見守る中、中から真っ青な顔をした十代ぐらいの少年が飛び出し、さらに、その少年とイーオインは目が合った。
少年を捕まえようと扉から出てきた男の手が少年へと伸びたが、既に剣を抜き出して構えているイーオインの姿を目にした途端に男は少年を捕まえることも忘れて家屋内へと逃げ込み、扉はバタンと大きく音を立てて閉じた。
そばかすだらけの痩せぎすの少年は、追手から逃れたそのままイーオインに真っ直ぐに向かってきて、彼の鐙に縋る様に手をかけた。
「騎士様!助けてください。このままじゃあ、母ちゃんと父ちゃんが殺される!」
彼は何も考えずに馬を宿屋を回り込むようにして走らせ、飛び降りるとそのままつむじ風の様に宿屋の中へと飛び込んだ。
固く閉ざされた樫の扉ではなく、宿屋には普通ある厩へと続く勝手口を蹴り開けて飛び込んだのである。
宿屋にいるはずのル―カスは何をしているのだ、と考えながら。
ドアを開けて正面扉すぐにある食堂へ駆け込むと、イーオインの騒々しい登場に、人質を脅していた見るからに人相の悪い男がびくりと顔を彼に向け、樫の扉を必死で押さえている男も茫然とした顔を彼に見せつけた。
人質は少々小太りの女と少年に似た痩せぎすの男の二人だけで、二人は縛られてはいないが壁の隅に追いやられている。
エプロンをかけている女を男が庇うようにしている所から、二人が宿の主人と女将なのだろう。
状況を把握したイーオインは、強盗達の間抜けな様子に揶揄えば簡単に煽られるはずだとも考えて実行を試みた。
すなわち、彼等を小馬鹿にして囃し立てたのである。
「こっちだ!ほら、俺が怖いだろう?逃げなさいよ。この大まぬけのまぬけども!」
彼等は顔を真っ赤にして獣のような声をあげ、イーオインは彼等の目の前で長剣をわざと落とした。
「おおっと。」
すると、彼等は好機と見たのかただの破れかぶれなのか、彼に突進してきたのである。
イーオインは刃物を持って突進してきた一人目を軽くよけながら小刀を奪うと、用無しとばかりに脇腹を蹴り飛ばして遠くへと追いやった。
二人目は彼に近づく事も出来ないと、自分の動かない体を見下ろせば、イーオインの投げた小刀が胸に刺さっていると気が付いて床に崩れ落ちるだけである。
強盗達に死ななくとも動けない怪我を与えるや、イーオインは自分の剣を拾い上げると酒場を突っ切って階段へと向かい、そのまま勢いよく階段を駆け上がった。
五つは部屋があるらしき二階は人気を全く感じず、彼は最悪の結果にぞっとしながらも手前の扉から開きながら二階を探索したのだが、乱れた寝具の部屋は一つだけあったが、あとは人の姿も無いがらんどうである。
イーオインは一階へと取って返した。
そして、未だに壁際で竦んで脅えている夫妻の目の前に立ったのだが、彼等はイーオインの姿にただただ脅えるだけである。
自分は傭兵王のルーカスと違って威圧感も無いでくの坊では無かったのかと、心の中で首を傾げながら夫妻を問い質した。
「おい。お姫様はどこだ。もじゃもじゃ頭の大男もいた筈だろう。どうした?」
「ひぃ、すいません。」
男は脅えるだけだったが、もじゃもじゃ頭の単語に反応したらしい女房の方が答えた。
「あの、あの黒騎士様は農場の様子を見てくるって。あの、あそこは盗賊の巣だって、蹄鉄屋のピートに聞かされて。」
「盗賊の巣?」
壁に縮こまっていた男と女は、夫婦が一心同体の言葉通りにこくこくと一斉に頷きだした。
イーオインはルーカスの身の上は大丈夫なはずだと、恐らくどころか喜んで悪党の巣へはせ参じただろうと彼の存在は消去し、か弱い筈のウィステリア嬢の安否だけ尋ねることにした。
しかし、彼女の名前を出した途端に彼等は再び脅えだし、すいません、すいませんと何度も謝るばかりなのだ。
そこでしびれを切らせたイーオインが、傭兵時代に使った大声でどこだと叫ぶと、彼等はイーオインのトラウマを刺激するような言葉を口にしたのである。
すなわち、盗賊の巣に連れ去られてしまっていると。
彼はまた、遅すぎた模様なのだ。




