私と言う存在
イーオインの部屋は空っぽだった。
ここは兄の書斎で、アダムが使いもしなかった部屋である。
兄がなぜ窓も小さく子供部屋のような部屋を書斎にしていたのかと、幼い頃には不思議に思っていたが、彼がアダムにそのような境遇に落とされたからだと今になって知り、私は兄への申し訳なさで一杯である。
そして、そんな兄を懐かしむように、奇跡的に残っている兄の私物を片すことなく部屋を使っているイーオインに、私は実は不満を抱いていた。
兄の部屋はそのままにして、アダムが使っていた部屋こそイーオインが使い、あそこからアダムの痕跡を消して欲しいのに、と。
さらに、イーオインの親友のルーカスまでも繊細な男だった。
イーオインが使わないのならばと、ルーカスに使って欲しいと申し入れた時、彼は私にこう返したのである。
「アダムの痕跡を片付けたいのならば、君が自分でやりなさい。怖くないよ。しっかり目を開けてあの部屋を見回してごらん。あそこはアダムが使っていたとしても、君のお父さんやそのまたお父さんの息吹しか残っていない。なぜかって言うとね、貴族の書斎ってそういうものでしょう。本棚は読まれることは無い希少本で一杯だ。どの邸宅にも必ずある誰も読まない哲学書なんてその筆頭だ。」
ルーカスにはありがとうとしか言う事が出来ない。
アダムの物だと人任せに全て捨ててしまっていたとしたら、その中にあったはずの父や先祖の大事なものまで一緒に捨ててしまったはずなのだ。
私はル―カスの言った通りにアダムの書斎に入り、確かに年代物の書物や飾りは元々のシュエット家の物だと確信したのである。
さらに、なぜ兄があれほどアダムによって苦労させられたのかを理解したのだ。
アダムこそ自分の物を持てなかった、哀れな名ばかりの貴族でしかなかったからなのだと。
そして、自分はイーオインよりもル―カスにばかり話しかけ、ル―カスにばかり頼っていると気が付いていた。
イーオインとの逃避行を思い出す度、彼の笑顔を思い浮かべる度、全身が締め付けられぐらいの胸の高まりを感じるが、彼の婚約者でいることが純粋に辛いのである。
王都に滞在した時に彼女の為に開かれた晩餐会が、今も自分にとっては悪夢のように続き、部屋の隅や廊下の影では、あの夜の貴婦人達が囁いてきたのである。
「あんな器量の悪い痩せぎすが、婚約者?可哀想に。」
「約束なんですってよ、可哀想に。」
「丸裸の領地だけで、財産の一欠けらも無いそうよ。無一文の妻を押し付けられたなんて、可哀想に。」
「いいわねぇ。男の義務感にぶら下れる恥知らずって。あぁ、なんてお可哀想なミカ男爵様。」
囁き声を振り払うように、私はイーオインのいない彼の部屋をぐるりと見回し、彼が使っていただろう寝台にそっと手を乗せた。
彼を開放するべきだとわかっているが、彼と一緒にまたあの暗い森を駆けていきたい気持ちが止められないのだ。
せめて彼の存在を感じたいと撫でたウールの毛布は、彼の存在など完全に否定するがごとくピンと張って彼が使用した形跡もない。
使用した形跡が無い?
そこに気が付いてもう一度部屋を見回せば、兄の部屋の道具を動かした様子どころか、使った事も殆どない様子なのである。
「え、イーオインはどこで寝ていたの。もしかして、鳥小屋?」
どこの領主館にも鷹や梟を飼育する為の小屋があり、シュエット家も例に違えずだが、鷹を飼うには鷹を紋章とする王の承認が必要なのだ。
鷹は王から信頼のあかしとし下げ渡される生き物なのだ。
承認を得られなかったアダムは、仇のように鳥小屋を荒れ果てさせていた。
イーオインがその荒れ果てた小屋に手を入れて、いつの間にかイーオイン専用の鳥小屋へと生まれ変わらせていたとルーカスが呆れたように話していたはずだ。
「思い入れがあるから、あそここそ彼の部屋?え?」
部屋を飛び出すと近くの階段を駆け下り、けれど中庭を前に足が竦んだ。
何も無いはずなのに、母親の遺体が横たわっているイメージで足が竦むのだ。
「ここを通り抜けなければ鳥小屋に行けない。もしかして、イーオインは、だからそこにいるの?私が追って行けないから、彼だけの憩いの場所。」
男から婚約破棄などすることが出来ない。
いくら嫌でも、女側から断られない限り、覆す事は不可能なのだ。
「あぁ!」
彼女は自分の顔を両手て覆い、真っ暗になった視界の様に、このまま自分が消えてなくなりたいと望んだ。
「大好きだから嫌われたく無い癖に、大好きだから彼を縛り付けていたいなんて。私はなんて自分勝手な厭らしい人間なの。彼は本当は自由なのに!」
顔を覆ったまましゃがみ込み、そしてそのままだらだらと泣き叫んでいたい気持ちになっていた。
泣き叫んだら、彼が助けに来てくれないかしら。
「これは君の剣だ。」
イーオインは私をイーオインとエドワードだけの秘密の場所に隠すと、彼は剣を私に手渡した。
そして、剣を受け取とって抱えた私の頬を彼はそっと撫で、あぁ、彼はそのまま背を向けて走り去ったのだった。
「あぁ!違う!待てなんて言っていない。全然違う!あの時の彼は自分で守れと言ったんだ。イーオインは逃げろって、敵は全て惹き付けるから、明るくなったら港に先に逃げろと、きっと追うからと、あぁ。」
イーオインが私に剣を手渡したのは、彼が私の為に自分の命を捧げる覚悟だったからなのだ。
彼を殺すのは、守らねばならないという、私の存在こそではないか。
「強くならなきゃ。彼が命を捨てなくていいように。愛しているから、彼を解放してあげられるように、私は強くならなくては。」
ゆっくりと顔から手を外した私の顔は、きっと血の気を失った真っ白なものであろう。
これは絶望?
決意?
どちらでもいい。
私が彼を殺すくらいならば、私が彼を解放するのだ。
私は立ち上がると、その決意のまま弓矢の様に中庭を突っ切って走り出した。
そして、婚約者がいるはずの鳥小屋へと辿り着いたのである。
しかし、私の決意をあざ笑うように、イーオインはそこにいなかった。
彼のフクロウはここにいるはずであり、部屋にいなければルーカスに鳥馬鹿と罵られる彼は鳥小屋にいるはずなのだ。
鳥小屋は何処を見回しても、イーオインの姿など見えず、それどころか恐らくアルジャンが入れられていたはずの鳥籠も空である。
「アルジャンを放ったの?どうして?私の身代わりでは無かったの?だから?」
私が彼を手放す前に、彼が私の手を離したのだろうか。
さぁ、ここは喜ぶべきところでしょう。
けれど、私の心は鳥を失った鳥籠のようで、アルジャンの鳥籠が開けっぱなしの扉を軋ませてキイキイと音を立てているそのものであった。




