山査子
「前世のわたくしは、軍師の懐刀だったのでございます。」
渕崎はたいそう自慢げに胸を張った。
軍師だとか懐刀がどうのより、いつもとまったく違う彼の口調や態度に、僕は目も耳も疑う。
普段、僕が知っている渕崎はこんな少年ではない。しかし彼いわく前世の彼は、こんな不自然な丁寧語を話す田舎娘だったのだそうだ。
田舎娘なのに、軍師に仕えていたの? 僕はとりあえず話を合わせた。
「ええ。それには複雑な事情がございますのです。」
身形と声は見馴れた少年のまま、少女のしぐさと不自然な言葉遣いで、彼は語り始めた。
わたくしの生まれは、とある大国領地の片隅。
戦乱の世でありながら、幸いにも諍いとは無縁の村落にございまいた。
わたくしはそこで狩猟を生業としていた両親の下、査渕という娘として、健やかに育てられたのでございます。
この頃の査渕はそれはそれは、礼儀作法を弁えぬ田舎娘だったにございます。いやはやお恥ずかしい。
村落は査渕が八つの頃、敵国の侵略により燃やされました。
誰も予期せぬ崩壊にございました。父も母もきょうだい達も皆死に、わたくしだけが養父さまに救われたのでございます。
「あにさま?」
はい。わたくしはそうお慕いしておりましたが、正しくは母の従弟だったか再従兄だったか、まあ遠縁の血筋にございます。
養父さまは大国直属の、世では悪徳軍師と名を馳せた、卑劣な参謀にございました。
策のためならば兵卒を駒のように扱い、
時には切り捨て、
流言や暗殺にも手を染める、
それはもう悪名高い謀略家だったのです。
査渕は、彼の気紛れで拾われ育てられました。
その際、彼の立場上、他の実力者、権力者、ひいては主君と関わることも無きにしも非ずでしたので、養父さまはわたくしに淑女の嗜みとして、お言葉遣いを改めさせたのでございましたのです。
「………あまり改められなかったんだね、」
まあまあ、そうおっしゃらず。
査渕は片時も養父さまから離れませんでした。勿論勝手ながら、戦にも同行致しました。
もともと狩猟の出でございましたので、血にも屍にも抵抗無く、武具の扱いも難なく取得できたのです。
獣狩りの要領で首を討ち、
養父さまに贈呈し、
時には養父さまに代わり流言や暗殺をも買って出ました。
“あなたの望むままに。お慕い申しております。あにさま。”
兎にも角にも、養父さまが恋しゅうございました。
いつしか査渕は、主君も認める悪徳軍師の懐刀となっていたにございますのです。
国には公にできぬ暗とした立場であり、年頃を踏んでも嫁の貰い手一つ見つからぬ、と養父さまはからかうものでしたが、わたくしはこの上なく満足しておりました。
話が一区切りしたところで、渕崎は豆乳のパックをちゅうと吸った。僕も、紅茶のパックをちゅうと吸う。具合よく喉が潤って、初夏の日差しが心地よく感じられた。
たくさん、人を殺したんだね。空を見上げながら聞いた。渕崎と視線を合わせるのが怖かった。
「ええ。それにたくさん、欺きました。」
渕崎は、どこか誇らしげに言う。
「そしておおいに、幸せにございました。」
にっと笑う表情は、普段、クラスで接する気さくな少年そのものだった。
続き、話しても? 首をかしげる渕崎に僕は「ああ。」と許可をおろす。
初夏の屋上、校庭からは野球部の掛け声が届く。
少女のしぐさがゆっくりと、“昔話”を再開した。
年月を重ね、我ら主君の大国は勢力を更に拡大してゆきました。
しかし、やはり天下統一とは至難の道にございます。最も我らを阻んだ敵国はなんと隣国。互いに強大すぎるが故、衝突さえ恐れあう関係にございました。
敵国の君主はそれはそれは仁徳に溢れた、配下にも民衆にも厚く慕われる名君だったのです。
配下の中には、君主に魅せられた名だたる将も多く、その忠誠心、そして彼らの団結力が我らにとってはなによりも厄介にございました。
養父さまはなんとかそこを崩せぬか、逸早く画策したのです。
そして第一段階として、査渕を主君の養女に出したのです。
「きみを? どうして?」
まあまあ、話はここからです。
新たな養父となった主君は、査渕を山査公主と名を改め、実子以上に溺愛しました。
美しい装飾品を身に纏わせ、
髪を梳かし、紅を差し、
充分な教養のもと、正しい礼儀作法も身につけさせました。
山査公主は査渕として戦場に赴くことも、
首を狩ることも、
養父さまの後ろを付き慕うことも、
ひいては、口をきくことさえ出来なくなりました。
養父さまと査渕は、配下軍師と公主という立場に変わってしまったからにございます。
主君はどこへ行くにも、山査公主を傍に置きました。
同盟国との外交、日課の散歩、地方への視察、遠征には護衛をつけてまで同行させたのです。
すぐさま、他国には噂が広まりました。
『大国の鬼君主が養女を迎えたらしい』
『なんでも片時も離さないほど溺愛しているそうだ』
『女児に恵まれなかったからだろう』
『あれが大国の弱点となるのでは』
山査公主の噂が一人歩きしたのです。
隣国から同盟を持ちかけられたのは、そんな折でございました。
『同盟の証に、山査公主を正室として迎えましょう』
他国の公主とはいえ血統ではない娘を、一国の君主が正室に貰い受けるというのは、政略結婚としては破格の条件にございました。
何もかも、悪徳軍師の思惑どおりにございました。
山査公主は隣国へと嫁ぎ、忠誠な配下と幸福な民、そして心優しき夫に囲まれ日々を過ごしました。彼らはみな、政略結婚から一線越えた情を、わたくしに注いでくださいましたのです。
私も配下、民、そして夫を慈しみました。やがて男児にも恵まれ、山査公主は名実共に隣国の皇后となりました。
そして同盟国との親睦外交の日、
わたくしは元の主君と元の配下、現在の夫と現在の配下を含む大衆の前で、投身したのでございます。
“あなたの望むままに。お慕い申しております。あにさま。”────
とうしん?
「わかり易く言うところの、飛び降り自殺にございます。」
渕崎は表情一つ変えずに答えた。当然、なぜそんなことをしたのか尋ねた。
「正確には、夫に突き飛ばされて殺されたかのように見せる為、彼の腕を掴み悲鳴をあげ、ひとりで壇上から飛び降りたのです。」
更に、その真意を問いただした。
「わたくしの自害により、隣国の団結は乱れました。一国の君主が大衆の面前で、睦まじかった正室を殺害したのだから当然でしょう。忠誠な配下達も疑心を懐き、次々と隣国を離れ、民衆の信頼もみるみるうちに失われ、隣国は内部より崩壊したのです。そしてこれらはすべて、我が国の軍師、養父さまの策にございました。」
話は終わりと言わんばかりに、渕崎は満足気に息をついた。
そこから僕は、また紅茶のパックをちゅうと吸った。中身はほとんど空に近くて、じゅるると頼りない音をたてた。
渕崎のほうを向くと、しぐさにはまだ少女が残っている。僕は意を決して口を開いた。
査渕は幸せものだね。
「ええ、わたくしも身にしみております。」
変な言葉遣いもまだ継続している。
策のためとはいえ、女性としての幸せを味わってから、死ねたんだもの。
僕の言葉に嘘は無かった。ところが突然、渕崎は目を吊り上げた。
「何をおっしゃいますのです、」
それまで見せたことのない険しい表情だった。
「わたくしの幸せは、悪徳軍師の糧となれたことにございます。」
査渕という人間すべての、
身体が、
意思が、
人生が、
養父さまの功績へとなったのです。
懐刀としてこれ以上の幸福などございますでしょうか。
怒りながら話すうちに、彼の表情は再び恍惚と、少女のように変化してゆく。
ひた向きだね。
「ええ。良いものですよ。自分だけは幸せになれる。」
差し出した手を握ったところで、彼の“昔話”は終わりを告げた。
ずいぶん、記憶を話してくれたなあ
僕は少々申し訳なく思う。
「当然ではございませぬか。この日をどんなに待ちわびたことか。」
そうみたいだね。
でも、ごめん。やっぱり僕には僕が僕で、きみが渕崎だとしか思えない。
「構いませんのです。それで。」
ほんとう、ひたむきだね。
「それだけが取り柄にございますのです。」
現世の ぼくは
きみに謝るべきかな? それとも喜べば いいのかな?
「あなたの望むままに。
お慕い申しております。あにさま。」
いつもと違う口調、少女のしぐさで微笑む彼をみつめながら、僕は査渕という田舎娘と、山査公主という皇后、ふたりの女性へ、せめて、心ながらに敬愛した。