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おばあちゃん、羊羹を切る

 「昨日の行商には行かれましたかな」

 川面が燦々と白昼を跳ね散らし、平瀬の玉石は玲瓏として水に透けている。薄い流水は所々で滾々と揺らいでいて、向こう岸から伸びる枝の緑を写す。


 昼餉がまだ胃の中で動く。馬鈴薯をたっぷり入れた煮物に硬いパンを浸すと、どろりと喉を通り美味しかった。甘い風味の味付けが食欲をそそり、一本分のパンを胃の腑に収めてしまった。

 ヨヒシコは腹を擦りながら、ぞろぞろと川辺を歩いていた。


「実は鎧を磨く粉を買わされまして」

 ハーフアーマーが落ち着いた輝きを見せる。兵士長だからだろうか、良く磨き込まれて手入れされているのが素人目にも分かる。素材の質は荒いが分厚く重みのある鎧を着こなすハマーは剛直に見えて、好物を話し出すとなかなか愛嬌がある事にヨヒシコは気付いた。


 話題に乗ったのはアイネだった。

「うちも常備してる。鍋を磨いたり、洗濯に使ったり」

 ほう、ハマーはアイネに眉を飛ばす。

「パンを焼くときにも入れるのよ」

 ああ、重曹かと、ヨヒシコは何となく一行を見回す。

 背中を丸めて後ろ手で歩くおばあちゃんの摺り足に合わせ、アイネとハマーと三名の兵士が川沿いを和やかに進んでいた。


 布磨きのコツを教えるアイネは、今日もズボンを目一杯上げてブラウスを入れている。食い込んだ尻の筋が気になるが長袖を取り付けたエプロンの結び目から垂れた紐がそれを隠している。後ろに手に組み腰を曲げて慣れた道の先頭を歩く。

 

 そしてハマーと連れの兵士三名も、ズボンを精一杯上げていた。尻の肉に筋を食い込ませ、腰を曲げ手を後ろで組んでいる。

「しかしこの歩みの極意は、なかなか腰に響きますな」

 低い姿勢から太い声で唸る。

「大賢者様の健脚は、こうした修練の賜物なのですな」

 腰に携えた剣の低い金属音が揺れる。

「地面と平行に足を出すのよ」

 アイネの教えに、おお、と兵士から声が上がる。


「いい天気だねえ」

 おばあちゃんを真似た一行は額に汗を滲ませ、せせらぐ川縁にすっかり気が緩んでいた。




 瀬音が軽やかに生まれ続ける

 不意にハマーが歩みを止め、肘を挙げる。

 兵士達は目を凝らし、腰の柄に静かに手を伸ばした。


 兵士としての合図だという事は明白だった。アイネも一変した空気に口を閉ざし、緩みのない警戒感にヨヒシコと視線を見合わせる。

 ハマーは何か見つけたのか。向こう岸の森を見据えている。

 魔物、だろうか。村里の中とはいえ、川を挟んだ森は遥か深い野生の領域だ。

 緊張で身が張り詰め、呼吸も散漫になる。

 何よりも、おばあちゃんに危険が及ばない様にヨヒシコなりに思考を集中させる。


「今日は足は痛くないけど、少し疲れたねえ」

 じゃあ休憩しようか、とおばあちゃんを後ろに促す。まずは落ち着いて、安心させないと。兵士達もこちらを囲うべく陣形を取った。


 ハマーが険しく睨みを放つ。剣を抜き一歩出て顎をしゃくる。兵士達も揃って身構えた。

 その先、森の密生ががさりと、乾いた音で撓る。

 大きいのか、小さいのか、群れなのか、一匹なのか。茂みを掻き鳴らす音が静まると、木々の間を、絵の具を目一杯絞り出した様に流れて来る物があった。


 低い茂みの枝葉を巻き込み、どろりとした光沢が溢れ出る。鮮やかな橙色が栓の抜けた様に圧し出せれ、ぶるんと弾力を以って丘の様な半球状に形態を変える。

 草藪に残された粘液が糸を引き、酸による腐食なのか、葉や枝が溶かされて朽ちていく。ぼとりと落ちた溶解液を流動体が巻き込んで弾力の一部に戻る。

 俗に言う、スライム状の魔物だ。煮物に浸したパンとはまるで違う。ぬるっと粘る蠢きに胃が疼き顔を顰めた。


「あれは何かねえ、羊羹かねえ」

「羊羹じゃないよ、おばあちゃん」

 おばあちゃんは河原に丁度良い大きな石を見つけて腰を下ろした。

「どっこいしょ」


 羊羹というよりは橙色の寒天そのものだ。ただし動かなければ。

 お椀を返した半球形の全体が、上下にぶるりと粘る。表面は泥が滑る様に流れ出し草木を溶解させ、更なる粘液が覆い被さる。呼吸の様に、筋肉が収縮する様に、溶解と吸収を繰り返して少しずつこちらに近付いている。


「感づかれたか」

「私、村の人の助けを呼んでくる」

「いえ、奴は匂いを追って動いています」

 ハマーは剣を構え、アイネを止めた。

「多くの人間の匂いを覚えさせるのは得策ではないでしょう」

 行くぞ孔雀陣、とハマーの号令に兵士が二手に分かれる。 

「ここで仕留めます。万が一の時には総出で油を掛け火を投げ込めば屠れます」

 勇ましい兵士達の後ろ姿が果敢に立ち向かう。ズボンの尻の筋が走っている。

「ここまで巨大化したゼラチナは初めてですが」

 森番め怠けていたな、と愚痴を残し川面を進む。


 四人の男は浅瀬を対岸へ向けて前進する。

 両翼に広がった二人は、水面を蹴りながら音を立てて走る。遠回りに岸に着くとゼラチナを挟み込む位置を取った。剣で地面を叩き注意を向ける。ゼラチナの粘液が伸びて来るのを見計らって徐に後退りを始める。

「焦るなよ。限界まで伸ばすんだ」

 ハマーの指示に、両翼の兵士はそれぞれ首を縦に振る。どろりとした粘液が迫りつつも距離を保って後退を続ける。ゼラチナの狙いは二人の兵士に向けられ、河原を粘液が伸びていく。

 右側の兵士が出っ張った石に躓いた。

 目先に注意を向け過ぎたのか、腰を突いてしまう。

 冷静さを失った兵士の足に粘液が辿り着く。瞬時に本体であるゼラチナが反応し、流体が押し寄せる。兵士は足元を埋めていく粘液に剣を振るも卵白を切る様にあしらわれる。取り乱しながらも革紐を解きブーツから足を抜くと横這いで退いた。革のブーツは完全に粘液に取り込まれて溶解を始めた。

 ハマーは駆け出す。川原の足場を物ともせずゼラチナに飛び込む。

 両翼に伸びてゼラチナ本体の形状が薄くなった中心部、橙色の粘液に包まれて浮かぶ朱色の球体を目掛けて。

 粘液に構わず全力で踏み込み、ロングソードが唸る。核までの衣が薄くなった今こそが勝機なのだ。一撃で纏う橙色を斬り裂き、二撃目を斬り上げる。後を追いもう一人の兵士が槍を放ち、ハマーの三撃目が核を狙って突き刺さる。


 粘液が波打つ様にうねる。まるで絶叫の様に、伸びていた粘液が急速に中心に戻り、避ける間もなくハマーを包み込む。粘液に沈みながらも再度ロングソードを突き立てるが、核までは届いていない。ハマーは必死の形相で食らい付く。そして腰に手を伸ばすと、もう一本の剣を逆手に抜いた。

 銀の刀身を持つエストックが陽光を捉える。怒号と共に突き刺された渾身の銀の刃は核に到達した。


「浅いか!」

 防衛本能と呼ぶべき動きが急所への一撃から守った。ゼラチナは瞬間的に身を縮ませ粘液の密度を上げた。振り払われたハマーが見上げると、橙色は真っ赤に変色している。剣と槍が突き刺された魔物は、核への傷が逆鱗に触れたのか粘液の流れを逆立てて憤激の意思を示している。

「一度退くぞ!」


 ハマーの号令を聞くが早いか兵士達は川面を駆けて戻って来る。ハマーも腰の鞘に手を当て、惜しそうに退却する。


「どうしよう、おばあちゃん」

 アイネはおばあちゃんの肩に手を添えていたが、割烹着を握り震えている。


「あの人達は、水遊びをしてるのね」

「逃げよう、おばあちゃん」

「川で遊ぶときは気を付けないといけないよ」

「立って、おばあちゃん」

「流されるからねえ」


 屈強な兵士長が三名の兵士と繰り出した孔雀陣とやらでも倒せなかった。

 きっと鍛錬を積み知恵と経験を重ねた作戦に違いないのに。


 魔物というのはこれ程にも人間を脅かす存在なのか。

 それでも、おばあちゃんは守ってみせる。


「あれは何ね、羊羹ね」


 おばあちゃんが立ち上がる。

 ヨヒシコは決意する。自分が盾になって、おばあちゃんが逃げる時間を稼ごう。

「おばあちゃん、今のうちに逃げて!」


 ヨヒシコはおばあちゃんの前に立つ。その前に立つおばあちゃん。


「羊羹は、切らないといけないねえ」


 おばあちゃんは左手を皿に右手を包丁に見立てて、とんとんと手を打った。


 その瞬間、左手の皿から光が放たれる。天空に届く勢いの光の柱が真昼の太陽よりも輝くと、おばあちゃんの周囲に至極色の魔術陣が次々に紋様を灯しだす。空間は闇に包まれ、おばあちゃんの掌と神秘文字のみが漆黒を照らす。深淵から低い鐘の音が響くと魔術陣は層を成し発展を続け雲に届く程に描かれた。鐘声が力強さを増していき幾つもの狐火が現れる。

 それは世界の権化だった。

「お茶にしようかねえ」


 狐火が業火に変わる。魔術陣の全てが闇に溶け、おばあちゃんの背後に巨大な姿が浮かび上がった。


 不動明王。


 剣を手に、焔を纏い、両の眼が行く末を睨む。

 おばあちゃんが右の手をもう一度打つと、幻身の剣が振り下ろされる。

 闇を裂く天からの斬撃は、暫し時を止めた。




 清流が割れ、粘液体が割れ、森が割れた。


 牛が鳴く。川面が再び水を湛える。せせらぐ水流の向こうには、真っ二つの核にもう動かないゼラチナが溶けていた。


「お茶は持って来てたかねえ」


 アイネは籠から炻器のポットを取り出した。

「持って来てるよ、おばあちゃん」

 一行はおばあちゃんを囲んで、お茶を楽しんだ。




 ハマーはゼラチナの跡から銀のエストックを拾うと、袖で刀身を拭き取る。

「国王に賜った代物なのだがな、少し溶けてしまっている」

 装飾の剥げた剣を鞘に納めると、苦く笑った。

「獣の骨まで溶かす魔物です。この大きさだと相当食ってきたのでしょうな」

 朱色の核が、潰された卵黄の様にどろりと河原に流れる。




 ヨヒシコの脳裏を何かが掠めた。


 何かが合わさり、一瞬閃いたものが通り過ぎた気がした。

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