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おばあちゃん、ぬか床を作る

「屠られた、ゴブリン共が」

 雪だるまが割れる。

「奴等は捧げる、谷に供物を」

 甲高い声が鳴り響く。

「足りなくなれば奴等も食った」

 弾けた様に冷たい突風が襲う。

「それ無しで、谷の冬は越せぬ!」


 青白い女が長い髪を揺らす。

 雪の塊から現れたそれが赤い目を見開くと、ヘルハウンドの群れが咆哮を放つ。

「化け物め!」

 獣の頭が巨大に膨れる。同時に四本の脚で霜を強く蹴り飛び掛かる。

 兵士達は剣で槍で牙を止めるが前脚で抑え込まれ、這う這うの体で抜け出す。我を忘れ我武者羅に武器を振るが、寒さと恐ろしさで手足が震え動きも鈍っていた。

 ハマーもまた悴む手でロングソードを握り込み薙ぎ払う。

 しかし黒い獣は毛並みすら硬く、迎撃を僅かに弾くだけだった。


「奪う、食い物を」

 群れの頭目は宙を浮かび、風の如くハマーに近付く。

 はっと剣を構え直した時には、すでに目と鼻の先で冷たく微笑んでいた。


 指先を顎に当てられる。

 氷よりも冷たく、血が凍っていく。


 ハマーは纏わりつく悪寒を撥ね除けるべく怒号を奮うと、渾身の突きを捻った。

 青白く透けた体を貫く。

 女は甲高く笑いながら空を舞い、腹の穴が塞がる。

「やはり精霊種か!」




 おばあちゃんの地下足袋は霜を物ともせず進み、ヨヒシコは滑りながら後を追う。

 その後ろにアイネの姿もあった。

「さっきより寒くなってきてる」

 でも、とアイネは腹をぽんと叩いた。

「ズボンを上げてるからお腹が冷えない」

 裾が上がった分、足は冷えるだろうとヨヒシコは思ったが今はどうでも良い。

 坂の向こうから、犬の様な狼の様な叫びが聞こえ、押されるように村長が駆けて来る。

「お父さん!」

「アイネ、逃げなさい!」

 犬の化け物が次々に牙を剥いて跳ね回る。

 狂った様に襲い来る姿は、恐怖そのものだった。

 兵士達は武器を振りながらもじりじりと後退している。

 そして屈強な兵士長、ハマーは青白い女を眼前に気迫を呑まれていた。

 

 おばあちゃんは尚も進んでいく。畑の様子を見る為に。

 足を竦ませながらもヨヒシコはおばあちゃんを追いかける。


 そこへ男達の雄叫びが響いた。


 村人達が魔物に向かって走って行く。手に手に農具が勇ましく握られている。

 しかし獣の群れの突撃を受け、鋭い牙に噛まれ、荒々しい爪に踏まれ、次々に悲鳴が上がる。

 血が流れ、呻き声が湧き出し、絶望の声が漂う惨劇だった。

 そしておばあちゃんにも獣の化け物が襲い掛かる。


「あれは何ね、なまはげね」

「おばあちゃん、逃げて!」


 おばあちゃんは、僕が守る。

 何があっても、どんなに怖くても。一歩を踏み出すんだ。

 ヨヒシコは、優しくて自慢のおばあちゃんを庇おうと、震える手足に力を込める。


 ヨヒシコはおばあちゃんの前に踏み出した。

 それを追い越すおばあちゃん。


 獣が牙を剥く。

 その瞬間、おばあちゃんは後ろに組んでいた両手を前に出した。

「仲良くせんと、駄目だよ」


 おばあちゃんは掌を下に向け上下させると、真下に魔術陣が浮かび上がった。

 眩いばかりの輝きの模様は円の外に円を描き、更に複雑な幾何学模様で大地を染める。

 閃光と共に魔術陣が松葉色に変貌し神秘文字が右回りに左回りに回転を始め魔物の群れに地を這い移動していく。そして一つのそれが複製され四方に広がり合計五つの魔術陣が光の柱を創る。天を衝く柱に沿って次なる魔術陣が重なって敷かれていく。神の創る建造物の如く積み上げられる魔術陣は、五重の層を以って完成を迎えた。

 おばあちゃんのその姿はまるで創造主であった。


「この村に、悪い子はいないよ」


 魔術陣の模様の全てが棘の触手に姿を変える。何十、いや何百もの植物の蔦が蜿蜒としながら魔物らに狙い掛かる。疾風よりも素早く、岩よりも力強い触手が襲う。ありとあらゆる全身に巻き付き、それでも逃げる物は退路を断たれ、敗北を悟った時には動ける魔物は最早居ない。


「馬鹿な、我は精霊種、効かぬはず、剣も魔術も」


 全てを縛り捕らえると、棘のもう一端は螺旋をうねり束になり、空に挿す大輪の薔薇の花となった。




「これはまさか、五重五連魔術陣ヘブンズローズバインド」

 村長は目を疑った。

 いやしかし確かに五つの陣が立体を作っていた。それが五つ。現に五重級の魔術でなければ精霊種は捕らえられない。

 王国魔術院で修行を積み好成績を修めたこの村の長でさえ、三重魔術陣を一つ扱える程度なのだ。それを五重の五連など、あの王宮の梟と呼ばれる第一級魔術師でさえ難しい域なのではないか。


「あのお方は、一体何者なのです!」

 村長の悲鳴にも似た問いに、ハマーは冷や汗を垂らしながら物有り気に笑う。

「大賢者だと、言ったでしょう」




 身動き一つ出来ない精霊、冷気を放ち村に冬を呼んだ獣の統率者を、雪女と呼んだ。

 その前に立つおばあちゃんに、雪女は冷たく暗い声で嘆いた。

「今死ぬも、いずれ飢えるも同じ」

「あたしは耳が遠いから聞こえん」

「ここで、屠るが良い」

「あんたは何ね、腹が減ってるのね」

「殺せと言っている!」

「漬け物は食べんね」


 はっ、と気付いたのはアイネだった。

 おばあちゃんの言葉に走ると、大きな袋を抱えて戻って来た。

「麦糠だよ、おばあちゃん」

「あと水と、塩と、唐辛子と」

「おばあちゃんの言う物、持ってきて!」


 呆然としていた兵士や村人もアイネの一声で動く。あっという間におばあちゃんの前に道具が揃えられた。そこに居る全ての者が目を預ける中、おばあちゃんは作業を始める。


 雪女は自分の最期を悟った。

「桶を洗ってねえ」

 我を封じるというのか。

「糠にねえ、水と塩を混ぜて」

 もしや従属の儀式か。

「最初は、野菜の屑を入れて」

 奴隷の如くと言う訳だな。

「数日経ったら取り替えるんだよ」

 そんな、我は使い捨てだと言うのか。


 何たる恥辱、と苦悶する雪女に。糠床が差し出された。

 魔術の棘が緩む。触手は魔物らを解き放つと光の泡に変わり、空に咲く大輪の薔薇も消え去った。




「身を引こう、今回は」

 糠床の桶を抱えて雪女はヘルハウンドを引き連れて背を向けた。

 暫し歩くと精霊の姿は消え、轍を歩む獣の姿も遠くなっていく。

 おばあちゃんの声が麦畑に響き、延びていく。

「ちゃんと混ぜるんだよ」


 さて、とおばあちゃんは振り返る。

「こっちの糠床も作らないとねえ」

 うん、と朝日とアイネの笑顔とが重なった。


 村に勝ち鬨が上がる。

「村を救った上に、谷の魔物にも手を差し伸べるとは」

「大賢者様の有り余る程の雅量、お見受けしました」

 ハマーと村長は、おばあちゃんの寛大な心に落涙を禁じえなかった。

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