おばあちゃん、お腹を冷やさない
すっかり朝日が居間を照らしていた。
刳り貫かれた窓から土臭い風が入り、ヨヒシコはまだ重い瞼で深呼吸をした。
「お早うございます、ヨヒシコ様」
村長が深く頭を下げる。
大きい目を炳然とさせ、茶色い無造作な髪が明けの光に赤味を透かしていた。
萌黄色のチュニックに肩から生成りのシャツの袖が伸び、編んだ紐のベルトを締め、シャツと同じ色のやや丈の短いズボンを穿いている。
昨日と衣服は同じはずなのに、どこか違う。どこかが違う。
チュニックをズボンの中にぴっちりと入れている。
昨夜まではもっとゆったりとした服装だったはずだ。
限界まで上げられたズボンにベルトが厳しく締められ、チュニックの肩幅と股間が逆三角形を描いており、股の線が露わになったズボンの丈は膝まで上がっていた。
胸から下がズボンだ。ズボンが立っている。
「お早う行商さん」
村長の娘、アイネも同じだった。
赤い髪を後ろで束ね、毛先の跳ねた輪郭と大きな瞳に幼さが残る。
「じゃなかった、大賢者さんだっけ」
気取りのない口調でエプロンを外すと、赤紅のズボンが胸元までこれでもかと上げられ、長袖の白いブラウスを納めている。当然ズボンの丈は中途半端に上がっていた。
昨日はブラウスの裾をゆらりとしたスカートの外に出していた筈なのに。
胸から下がズボンだ。ズボンから頭と腕が生えている。
「お早う、ヨヒシコ。ぐっすり眠ってたねえ」
おばあちゃんは、お気に入りの蜻蛉柄の手拭いを首に掛け白い割烹着も脱いでいた。
水玉の散った藍色のもんぺを精一杯上げ黄色い長袖のトレーナーの丈を入れたいつもの恰好だった。
お腹を冷やさないようにもんぺを最大まで上げている。
胸から下がもんぺだ。もんぺはおばあちゃんの七割を占めている。
「だからか!」
ヨヒシコが堪らず叫ぶと、村長は小躍りして満面の笑みを浮かべている。
「シヅヱ様に許されたのです。この威風堂々とした着こなしを」
「私も魔術師なら、おばあちゃんみたいな魔術衣を着たいな」
「こら、何たる恐れ多い妄言を!」
それと紋章付きの頭巾も、とアイネが言うとおばあちゃんは茶目っ気のある笑顔を返した。
「あんたは若いから、割烹着も手拭いも似合わないかもねえ」
「ほら見ろ、白魔術衣も紋章頭巾も、修行に修行を重ねた大賢者様だけが纏う事を許されるとシヅヱ様は仰っているのだ」
と、村長は鼻息を荒くした。
昨晩の麦粥は塩漬け肉を含んで口に出来たが、今朝は一緒に合わせる物がなかった。
食卓には酢漬けのキャベツと蕪、小豆と馬鈴薯の煮込み、そして麦粥が並ぶ。
余り顧慮しないよう言ってはいるのだが、村長の熱りは冷めない。
小さい農村でこの献立はかなり奮発しているのではないかと推量するが、竈に立つアイネは楽しそうなので、単に料理が好きなだけかも知れない。
「これは浅漬けかねえ」
「うん、昨日漬けたばかりなの」
外の圃場では麦と豆を蒔いているが、村里の中でも少しばかりの野菜を育てているらしい。
「でも難しいし、採れる時期も限られるから」
それで酢に漬けて出来るだけ日持ちさせている。正直、長い期間漬けた野菜は味が落ち、痛んでいることもある。塩漬け肉にしても森で採る香辛料や行商から買う保存薬を使って半年を持たすと言う。
おばあちゃんは素朴な疑問を投げた。
「糠漬けはしないのね」
ぬか、と父親譲りの大きい目が点になる。
「麦糠は、粉挽きを頼んだ後に貰えるわ。畑に撒いたり飼料にするの」
「昔は皆、米糠を漬けてたねえ」
「米、かあ。遠くの村では育ててるみたいだけど」
少しの沈黙に、おばあちゃんは遠く目を見据える。
「麦糠でも、できるかもねえ」
一方、ヨヒシコは村長の過剰な接待を休ませるべく訊いてみた。
「そう言えば、紙ってありますか?」
昨日、玄関先で村長が泣きじゃくった時に布切れで鼻をかんだ所作をふと思い出したのだ。
「紙、紙と言うと」
えっと、と大した質問でもないので大袈裟に捉えられないように言い様を巡らせる。
「雑文を書いたり、考えを写す程度の紙で良いのですが」
学塾があるのだから書き取りもするだろう。もしかしたら製紙技術は発達しているのかも知れないという勘は的を得ていた。
「おお、大賢者様の知恵を記す紙ですな」
ございますぞ、と居間の隅に走る。藁束の敷物を捲るとそこだけ木の板だった。蓋のように外すと下り階段が姿を見せた。
埃が朝日の帯を舞う中、ございますございます、と軽快に板を軋ませる村長に付いて行く。
短い階段の直ぐに小部屋があり、地下室と言うよりは収納庫だ。肩を寄せる狭さの石壁に棚が一つだけ据えてある。
「こちらはこの村の宝でございます」
薄暗がりの中、勿体ぶった振る舞いで二つの木箱を取り出し、と言ってもそれ以外には何も置いていなかったが、意気揚々と階段を昇る。居間の大机へ向かう姿は宛ら凱旋する将軍だった。
ヨヒシコが見守る中、木箱を並べて一つを開けると、白紙の束が入っていた。
「世界を見る木、をご存知かと思いますが」
ご存知、ではないこちらに構わず続ける。
「この紙はその木から作られた代物でございます」
紙束を受け取り指で擦ってみると和紙よりも厚く、紙粘土を薄く延ばした質感の粗野な作りだった。
しかし捲った面は磨かれており、筆の滑り心地が良さそうなこちらが表だと分かる。
紙自体が貴重なのか、この紙が特別なのか。
ヨヒシコは尋ねる。この男は説明する筈だ。
「あの世界を見る木で、ですか?」
大きな瞳に流星が瞬いた、気がした。
「左様でございます。初代イヴシュ国王が森で従者と逸れたときに木に印を刻み大地の精霊に導かれ難を脱したと云うあの世界を見る木から作られたこの紙はその辺の凡庸な物とは天と地の差の価値がある大変貴重な紙でして」
「成程」
「一度書き記した物は永劫消えることなく、また記録をする者の思いを写すとも云われておりまして」
ヨヒシコは村長の息が切れるのを見計らい、もう一つの箱に話題を振った。
「はい、こちらも村の、いえ王国の宝です」
二つ目の箱は、より恭しく開けられた。
紙と小瓶とが、ぽつんと入ってあった。
「諭吉先生の、書でございます」
何だろうか、走り書きとも殴り書きとも言える。図形や箇条書き、線で消したり付け加えたり、要するに何かのメモだ。
「先生が晩年この村に立ち寄られた際のお忘れ物だと、先代の村長から聞いております」
神妙な面持ちでしみじみと語る。
「学者も解読できず、いつの日か先生がお戻りになられたら」
広い肩を震わせ、目には光が溜まっている。
「お忘れ物を思い出し、この村に取りに、うっ」
袖に顔面を埋め、泣いてしまった。
「これを少し預かっても宜しいでしょうか」
「ええ、ええ、勿論そのつもりで、ひっく、何卒、何卒」
もう聞き取れなくなったので、小瓶と紙を戻し二つの箱を抱えた。
領主が訪れた時の部屋、と言っていたか。
ヨヒシコは箱を壁際の小机に置いてベッドに仰向けになっていた。
村長の期待に応え、例の紙に何を書こうと考える。
機械の設計図でも描ければ、聖典だとか呼ばれ崇められるのか。
覚えている有名人の名言でも記せば、教典にでもなるのか、と苦笑した。
先代の大賢者、福沢諭吉先生はこの世界に学問の必要を説いた。
王国民は生活の必要を越えた知識を持ち、国を発展させた。
ある種の宗教的な位置付けとみるべきだろうか。
では、凡人のヨヒシコが知っている元の世界の知識や技術を教えたらどうなるのか。
生活が豊かになるだろうか。魔物や災害から身を守れるだろうか。
いや、ヨヒシコはその術を知らない。
元の世界で、そうじゃないのだから。
困難を困難と感じれる人間が努力をする。
でなければ学問は無意味だと気付くだろう。
ならば諭吉先生の偉業は、知識を与えた事では無いのではないか。
知識を以って、生きる術ではないか。
ならば自分の様な半端者が教える事は無いに等しい。
その結果どうなるのかも、分からないのだから。
寧ろ自分こそ、この世界を学ぶべきだろう。
必要は、自律して思わなければ必要でないのだ。
ヨヒシコは、箱を閉じた。




