おばあちゃん、地下足袋を脱ぐ
おばあちゃんが扉の前で地下足袋を脱ぐ様子を村長は固唾を呑んで見る。
「それじゃあ、お邪魔しようかねえ」
失礼します、とヨヒシコも入ると、唖然としていた村長も我に返り靴を脱ぐと、娘にも靴を脱がせるべく駆け出す。大賢者様に倣いなさい、と叫び声が聞こえた。
村長の家は入ると直ぐに広く、中央に置かれた炉と大きい天板の机とに目が行った。
炉は腰程の高さに石が積まれ、淡く白い光が不思議に籠っていた。屋内の隅までを灯す程ではないが、土壁を刳り貫いた様な窓からの残照よりは明るい。
藁の敷かれた床を踏み歩くと、靴下がひんやりと気持ちよかった。藁は足の親指程の太さで束にされ敷き詰められる工夫が見られる。
「家中を灯しなさい、大賢者様の後光の様に、明るく迎えるのだ」
いややはり私がやろう、と村長は一人で声を出し動き回る。
「アイネは料理で持て成しなさい、その前にもう一度ご挨拶を」
蝋燭を両手に抱えて慌ただしく裸足で走り回る村長に、アイネは呆れ顔で竈へ向かった。
「明るくなったねえ」
村に夜が始まり、大きな天板の食卓は幾つかの燭台に照らされる。
さすがに家中に蝋燭を並べるには燭台が足りない上に娘のアイネからも叱られた。何よりおばあちゃんの、勿体ない、の一言が村長の暴走を止めた。
居間の中心に据えられた炉には、アイネが灯りの木と呼ぶ白い炭が足され、ぼんやりと乳白色の灯りが加えて晩餉を照らす。
「蝋燭と言えば、今年は蜜蝋もウルジの実も大収穫だったよ」
「凄いねえ、良かったねえ」
おばあちゃんが目を細めると、うん、とアイネも莞爾として笑った。
村長は大賢者が麦粥を木の匙で掬う度に、お味はどうですか、と気を揉んでいる。
「大賢者様と御相伴に与るなどとんでもない」
と傍に控えていたが、おばあちゃんが、御飯は皆で食べるものだよ、と言うと戸惑いながらも従った。
対照的にアイネはおばあちゃんと旧知の仲の様に仲良くなっていた。
「ところで、おばあちゃんは誰なの?」
「あたしは、ただのおばあちゃんだよ」
ふうん、と唇から漏らすが大きい目が興味を隠せないでいる。
被っている頭巾、袖付きのエプロン、ゆったりしているのに裾の締まったズボンの事など次々に訊いている。
「動きやすいからねえ」
「うんうん」
二人が行商人ではないと知っても特に気にする様子もない。
村長は大皿から野菜のサラダを取り分けたり炙った塩漬け肉を薄く切り分けたりと給仕、というか奉仕に徹している。
隙あらば献身。
娘は大賢者様に気に入られている。人知を超えた因果でもあるのだろうか、自分もお二人のお気に召すような取り計らいをしなければ。神経を巡らせ気配りの機会は逃さぬ。
ヨヒシコは、そんな村長の思念が聞こえた様な気がした。
「おいしい料理だねえ」
おばあちゃんがサラダを食べるとアイネは目を輝かせ、自作の卵と酢を混ぜたソースだと笑みが弾けた。おばあちゃんも喜びを返した。
「あたしは、この大きいお皿が」
はっと何かに気付いた村長は叫んだ。
「差し上げます!」
「何枚でも差し上げますとも。何卒お役立てください」
村長はチェストへ走り、木を刳り抜いた大皿を取り出すと得意顔で戻って来た。
「この皿の御馳走が一番頑張ったと思うよ」
おばあちゃんの賛辞にアイネは頬を赤らめた。そして先んじた貢献に恍惚とした村長から、ヨヒシコは黙って木の大皿を受け取った。
「それと、愚考したのですが」
村長はこほん、と前置きをする。
「明日一番、家屋に入る際は靴を脱ぐ事を、村の掟としましょう」
薄暗くて温かい灯りが揺れた影で家族を写す。
何処の世界でも家族はこういう所に真味があるのだろう。
食事を終え、眠そうなおばあちゃんを連れ添い、ヨヒシコは奥の部屋に入った。
「ベッドは一つだけど」
アイネの飾り気のない親切心を燭台が灯す。
ベッドと小机だけの簡素な部屋だが床の藁束は新しく、シーツも奇麗に揃えられていた。
大丈夫、とヨヒシコが言うと、アイネは村長を押して居間へと出て行く。
「この部屋は領主様が訪れる際に使われるので寝床も綿を敷いてですね」
壁に紐で留められた木の扉がゆらりと閉まると村長の声は遠くなり、おばあちゃんは眠いんだから、との声が最後だった。
柔らかい綿のベッドは両手を広げても余裕のある幅で、ヨヒシコはおばあちゃんと横になった。
ヨヒシコは両手を枕に、今日出会った人物、風景、出来事を思い浮かべる。
突然、知らない世界に来た。
おばあちゃんの寝息を聞きながら、もしかすると死後の世界ではないだろうかと考えてしまう。
それとも次に起きたらおばあちゃんと元の世界に戻れるんだろうか。
それだと少し残念だなと思った時には、夢も見ない程に熟睡していた。




