四日目
丘諸さんから電話があった次の日。
私達八人は森の中を歩いていた。目指す場所は『トウカの沼』。
全ての発端となった場所。
「……」
道中は前とは違い、皆無言だ。誰も話そうとはしない。
人数も僅か数日で三人も減ってしまった。
「着いた」
森を抜けると、そこに沼が現れた。その様子は四日前と何も変わらない。
なのに、沼はとても不気味に見えた。
当然だ。此処に三人を殺した元凶がいるのだから。
皆、恐る恐る沼に近づく。この前は声が聞こえて、沼の水が噴水のように吹き上がった。また同じことが起こるのではないのかと不安でいっぱいだった。
だが、予想に反して何も起こらない。私は、ホッと息を吐く。
周りを見ると何人かを除き、皆私と同じリアクションをしていた。
「……始めよう」
美弥の一言を合図に、皆が準備を始める。
最初に沼に向かってパンパンと手を鳴らす。そして、「願い事は叶えないでいいので、もう誰も殺さないで下さい」と全員で頼みこむ。
しかし、何も起こらない。
「これじゃダメなのかな」
私は、ボソリと呟く。
「じゃあ、次……」
美弥はそう言うとあの時と同じように皆に紙とペンを配った。前は、皆それぞれ違うことを書いた。でも、今回は書くことは全員決まっている。
皆が紙に書き終わった頃を見計らい、美弥が口を開いた。
「それじゃあ約束通り、皆で見せ合おう」
皆が美弥の指示に従う。当然、私も従った。
全員の紙には同じ言葉が書かれている。
『願いは叶えなくていいので、もう誰も殺さないでください』
これで誰も自分だけ願い事を叶えてもらおうと抜け駆けすることはできない。
皆が袋に紙を入れていく。最後に私が紙を入れた。
「……よし」
皆が紙を袋に入れると美弥は重石を入れ、袋の口を堅く縛った。
「じゃあ、いくよ」
美弥は勢いよく袋を沼に投げ入れた。重石の入った袋はあっという間に沈んだ。
私、森本智子はその光景をじっと見つめていた。
***
「……何も起きなかったね」
「うん」
『トウカの沼』からの帰り道。美弥の言葉に私は小さく相槌をした。
『願いは叶えなくていい』と書かれた紙を沼に投げ入れたけど、沼は何の変化も見せなかった。
十分待ち、二十分待ち、三十分待ち……一時間待ったけど、あの『声』が聞こえることも沼の水が噴水のように昇ることもなかった。
『トウカの沼』は沈黙したまま、ただ空の月を映していた。
「やっぱり、死ぬんだわ」
川本さんがポツリと呟いた。消えそうなほど小さな声だったが、おそらくこの場にいる全員にその声は聞こえた。
最初は『トウカの沼』に行くことを嫌がっていた川本さんだったが、丘諸さんからのあの電話を聞いて、『トウカの沼』に行くことを決意してくれた。
彼女も悟ったのだろう。例え危険を冒しても、このまま何もしなければ死ぬのを待つだけだと。だけど……。
「やっぱり、死ぬんだわ。やっぱり、死ぬんだわ。やっぱり、死ぬんだわ。やっぱり、死ぬんだわ。やっぱり、死ぬんだわ……」
川本さんは同じ言葉を繰り返す。
小さいころ、買ってもらった声の出る人形を思い出す。大切にしていたけど、ある日、その人形が壊れてしまった。壊れた人形は電池を抜くまで、狂ったように同じ言葉を吐き続けた。
今の川本さんは、その人形に似ている。
「諦めるなよ。もしかしたら、これで止まるかもしれないだろ?」
堂本君がそう言って川本さんを励ます。だが、そう言う堂本君自身の顔が引き攣っていた。彼の言葉は恐らく自分自身を励ますためのものだったのだろう。
川本さんは、堂本君の言葉を無視してそのまま帰っていった。
「じゃ、じゃあ俺も此処で……」
「俺も……こっちだから」
「僕もこれで」
続いて堂本君、山本君、館川君と別れた。
「じゃあ……」
「……」
少し歩いて美弥、氷川さんと別れた。
無言の氷川さんに私は「またね」と伝える。氷川さんは色のない瞳で私を見ると「またね」と返してくれた。
私がホッとすると、氷川さんは一言付け加えた。
「生きていたらね」
そのまま氷川さんは夜の闇に消えた。
そして、私と波布さんが残される。
「な、波布さんもこっち?」
「はい」
「じゃあ……途中まで一緒に帰らない?」
私の提案に波布さんは短く「はい」と答えた。
***
「……」
「……」
私達は無言で歩いていた。
波布さんは無口で何も言わず、対する私も何を言っていいのか分からず黙ったままだった。でも、沈黙したまま歩き続けるのに耐えられず、私は意を決して波布さんに話し掛けた。
「波布さん!」
「はい」
波布さんがこちらに顔を向ける。整った綺麗な顔だった。
特に目が綺麗で思わず見惚れてしまった。初めて見た時から美人だと思っていたが、正面で見るとさらにその美しさが際立っている。
「何でしょう?」
波布さんは首を軽く傾げた。しまった。話し掛けたのの、何を話すのか決めていなかった。
「えっと……あの……」
動揺した私は、慌てて質問する。
「波布さんはどうして、今回の集まりに参加したの?」
まだ数回しか会っていないが、波布さんはあまりこういう集まりに興味がなさそうに見える。
私の質問に波布さんは一拍の間を置いて答えてくれた。
「頼まれたのです」
「頼まれた?美弥に?」
「いいえ、私のクラスメイトにです」
波布さんは綺麗な声で、この集りに参加することになった経緯を語る。
「私と赤町さんに面識はありませんが、私のクラスメイトが赤町さんと友人らしいのです。本来ならその子がこの集りに来るはずでしたが、急遽予定が入り、来れなくなったのです。それで、代わりに私が来ることになりました」
噂では『トウカの怪物』に願いを叶えてもらうには十一人、人数を集める必要がある。つまり誰か一人でも来れなくなると人数が足りなくなってしまう。
だから、本来来るはずだったその子は、誰か別の代役を立てる必要があった。
「そのクラスメイトの子とは仲が良いの?」
「いいえ、全く」
波布さんは、あっさりとした口調で否定する。
「私に代役を頼んだのも、色んな人に断られた結果、私しか引き受ける人間がいなかったからだそうです」
「へぇ」
きっと、その子もダメ元で頼んだのだろう。波布さんが引き受けて一番驚いているのは、その子かもしれない。
「でも、よく引き受けたね。その子と特に仲が良かったわけじゃないんでしょ?」
「はい」
「こういう集まりが好きなの?」
「いいえ、特には」
「えっ?じゃあ、どうして引き受けたの?」
特に仲が良いわけではないクラスメイトから、特に好きでもない集まりに自分の代わりに行ってくれと言われたら普通は断る。なのにどうして波布さんはこの集りに参加したのだろう。
「あるせいぶ……ある人に言われたのです」
波布さんは何かを言い直すと、この集りに参加した理由を言った。
「『大切な人を救いたかったら……人の頼みを断らないで……ね』と」
「大切な人?」
「はい」
波布さんは、深く頷く。
「世界で一番大切な人です」
波布さんの表情は真剣そのものだった。私はピンときた。
「その人って……波布さんの彼氏?」
私がそう言うと、波布さんは動きをピタリと止めた。
今まで無表情だった波布さんの表情が輝く。
「はい」
頬を染め、笑顔で頷く波布さんの表情は今まで見た中で一番魅力的だった。
***
「では、私はこれで」
波布さんは姿勢正しく頭を下げた。
「う、うん。じゃあね」
私も慌てて頭を下げる。波布さんのように綺麗な姿勢ではなかったけど。
波布さんの後姿を見送りながら、私は聞こうと思って聞けなかったことについて考える。
それは、波布さんの書いた願いについてだ。
もしかしたら、波布さんの恋人は何か大きな病気や怪我をしているのではないのか?
“大切な人を救いたいのなら人の頼みを断るな”
誰に言われた言葉かは分からないが、私はそのように感じた。
ひょっとして、波布さんは『トウカの怪物』に恋人の病気か怪我を治す様に願ったのではないのだろうか?
もちろん、これは私の空想だ。
本当は波布さんの恋人は病気や怪我などしておらず、波布さんは全く別の願い事を書いた可能性だってある。いや、むしろそちらの可能性の方が高いだろう。
でも、もし波布さんの恋人が大きな病気や怪我をしており、波布さんは恋人の病気か怪我を治す様に願っていたのだとしたら……。
彼女は、『恋人に治って欲しい』という願いを放棄したことになる。
波布さんは、私達八人と恋人一人の命を天秤に掛け、八人の命を選んだ。
私は確かに見た。
波布さんが『願いは叶えなくていいので、もう誰も殺さないでください』と書かれた紙を袋の中に入れたのを。
「波布さん……」
私は思わず彼女の名前を呟いていた。
そして、最近テレビでやっていたある問題のことを思い出した。
***
トロッコ問題。
ある線路で作業員が整備をしていると、そこに暴走してきたトロッコが突っ込んで来る。暴走するトロッコの先には、五人の人間がおり、彼らは線路の整備に夢中で誰も暴走するトロッコに気付いていない。声を掛けようにも間に合わない。
このままではトロッコに轢かれ、五人が死ぬ。
貴方はちょうど線路の分岐点にいる。貴方が線路を動かせば、トロッコは別の線路に移り、五人は助かる。
だが、線路を動かした先にも作業員がいる。動かした線路の先にいる作業員は一人。線路を動かせばその人間はトロッコに巻き込まれて死ぬ。
その人間は本来、死ぬはずのない人間だ。
『貴方が線路を動かさなければ』
貴方は、五人を助けるために一人を殺すか?
それとも一人を生かし、五人を見殺しにするか?
***
これがトロッコ問題だ。
もしも私が同じ立場だとして、私は線路を動かすことが出来るだろうか?五人を救うために一人を犠牲に出来るだろうか?しかし、何もしなければ五人が死ぬ。そうすれば多くの人が悲しむ。
どちらが正しいのか。私は今も答えを出せていない。
***
波布さんと分かれた私は、一人電車を待っていた。
もうこれで、終わりにしてほしい。もう誰にも死んでほしくない。心の底からそう思う。
私の夢は教師になることだ。
昔から教師に憧れていた。
大人になったら絶対に教師になるんだと心に決めていた。
だから四日前、私は紙に『教師になりたい』と書いた。
とても軽い気持ちで。
「それがまさか、こんなことになるなんて……」
私は「ハァ」と深い溜息を吐いた。
「でも、これ以上人が死ぬのなら……」
教師になれなくてもいい。
例え、夢が叶ったとしても、それが人の犠牲の上に叶えられるなどあってはならない。そんな人間は教師になる資格などない。
お願い、もう誰も死なないで。
目を瞑り、手を合わせながら必死に願った。
そんな事を考えている内に、電車がやって来た。
電車のライトが光る。それはまるで生き物の目のように見えた。
ドン。
(えっ?)
気が付くと私は線路に落ちていた。
自分の身に何が起きたのか理解できない。私は咄嗟に後ろを振り返った。
そこに怪物がいた。
怪物は線路に落ちた私を駅のホームから見下ろしている。怪物はその口を大きく歪め、ニヤリと笑っていた。
どうして。
そう言おうとしたが、その言葉が口から出ることはなかった。
電車から発せられた大きな音が鼓膜を震わせる。電車は目と鼻の先まで迫っていた。
私はトロッコ問題を思い出す。
あの問題で重要なのは、あくまで分岐点にいる人間。つまり、トロッコの行先を決める人間だ。問題の前提条件も『貴方はトロッコの行先を決めることができる人間』である所から始まっている。
問題は、トロッコの行先を決めることができる人間が五人を見殺しにするのか。それとも、五人を助け、一人を殺すのか。どちらの選択を取るのかを問うている。
だけど、トロッコの先にいる人間の気持ちはどうなるのだろう。
自分がトロッコの行先を決める人間ではなく、トロッコの先にいる人間だとしたらどうだろう?
もしも私が一人で作業をして、そこに暴走したトロッコが来る。でも、そのまま何もしなければ、暴走したトロッコは私の所にまで来ることはない。
しかし、分岐点にいる人間が五人を助けるために線路を切り替えたとする。
結果、暴走したトロッコが私へと突っ込んでくる。
その時、私は何を思うのだろう。
さっきまでの私だったら、分からないと答えていただろう。
トロッコの行先をこちらに向けた人間を恨むのかもしれないし、もしかしたら、貴方は正しい選択をしたと褒めるかもしれない。
そう考えていただろう。
だけど、今なら分かる。だって、今私が抱いているこの感情が―――。
バン。
私の肉や血が周囲に飛び散る。ホームで電車を待っていた他の乗客が悲鳴を上げた。
きっと今日中にはテレビで女子高生が線路から落ちたニュースが流れるのだろう。
自殺と思われたら嫌だな。そんなどうでも良いことを最後に思いながら、私の意識は途切れた。
ー残り七人ー




