⑪
犬の妊娠期間……約六十日。
猫の妊娠期間……約六十日。
栗鼠の妊娠期間……約三十日。
虎の妊娠期間……約百日。
蛇の妊娠期間……約六十日。
人間の妊娠期間……約二百六十六日。
象の妊娠期間……約六百五十日。
『新種』の妊娠期間……?????
***
「化け物……」
『それ』を見た管二は思わず呟いた。
蛇のような頭をした『それ』は、口から舌をチョロチョロと出し入れしている。
(此奴は、一体?)
「『彼』は、私達が住んでいる地球と重なり合った“もう一つの地球”に住んでいる生き物です」
背後からの声に、菅二は思わず振り返った。
そこには、つい先程閉じ込めたはずの女が立っていた。
「お前……どうやって?」
「あの部屋にあった遺体の衣服から針金を頂き、それを使って鍵を開けました」
波布は事もさなげに、サラリという。しかし、そんなはずはない。
あの扉の鍵は、針金で開けられる程、簡単な構造をしてはいない。
仮に針金であの鍵を開けるのなら、針金に複雑な加工をしなければならない。あの暗闇の中で、そんなことが出来るはずが……。
「重なり合った“もう一つの地球”から、“こちら側地球”に来てしまった『彼』は、地下に潜り、虫やネズミを食べてひっそりと暮らしていたようです。しかし、虫やネズミだけでは足りなくなった『彼』は、空腹に耐えかねて地上に出てきました。顔を隠せるフードや衣服を盗んで」
「“もう一つの地球”?“こちら側地球?”」
何を言っているんだ。という目で菅二は波布を見る。波布はそんな菅二の視線を無視して、話を続ける。
「地上に出て獲物を探していた時、『彼』は偶然一人の格闘家と出会いました。『彼』はその人間を狩り、空腹を満たしたのです」
(格闘家……?)
その言葉を聞いた時、菅二の頭の中に一人の人間の名前が浮かんた。
「まさか!」
「そうです」
波布は静かに頷く。
「宮川陽太さんです」
最近、食欲が増加した菅二は、ただの人間では満足できなくなり、鍛えられた筋肉を持つ格闘家、特に優秀な成績を残した格闘家を好んで食べていた。
その数は、この数か月で二十二人にも及ぶ。
だが、菅二が以前出演したテレビのキャスターは、こう報道していた。
『この数か月で、行方不明になった格闘家の人数は二十三人。いずれも、試合で好成績を残している人達ばかりです』
行方不明になった格闘家の人数は二十三人。
菅二が攫い喰った格闘家の人数は二十二人。
一人足りない。
そして、その足りない一人こそが宮川陽太だった。
「宮川陽太さんを襲ったのは、『彼』です」
波布がそう言うと、蛇の頭をした『化け物』は口を大きく開け、「シャー」と唸り声を上げた。
そして、菅二に飛び掛かろうと身を屈めた。
***
「○△▼○■○○」
波布は人語とは思えない言葉を話し、『化け物』に対して手を翳す。すると、『化け物』は、ピタリと動きを止めた。
(此奴……!)
波布と『化け物』とのやり取りを見て、菅二は確信する。
この『化け物』は、この女の言うことを聞いている。
「『彼』が“こちら側の地球”に来てしまったのは私にも責任があります。ですので『彼』を“元の地球”に返そうと思って探していたのですが……少々、見付けるのが遅かったようです。一人犠牲者を出してしまいました」
波布は、申し訳なさそうに少し目を伏せる。
正直、菅二には波布が何を言っているのか、よく分からない。ただ、一つだけ分かるのは、この『化け物』が波布の言う事に従っているという事実だ。
「何故、この『化け物』はお前の……」
「『彼』とは、“元の世界に返す代わりに、私に協力して欲しい”という取引をしています。ですので、『彼』はある程度、私の言うことを聞いてくれます」
「一体、どうやって……」
「『彼』が使う言語を解読し、会話によってコミュニケーションを取りました」
波布は、何でもないような口調で菅二の質問に答える。
やはり、さっき波布が言っていた言葉は、『化け物』が使う言葉だったのだ。信じられないが、目の前にいる『化け物』が実際に波布の“言葉”に従っている。
信じたくなくとも、信じるしかない。
「じゃあ、お前がスマートフォンで連絡を取っていたは……」
「はい、『彼』です」
波布はコクリと首を縦に振る。
「『彼』はスマートフォンを通じて、こちらの話を聞いていました。そして、緊急事態の際には、家の中に入って来てもらうことになっていたのです。ただし、『彼』はこちらの言葉を理解できませんでしたので、ある合図を決めていました」
波布がスマートフォンに向けてある言語を話せば、それと同時に、この『蛇の頭をした生き物』は家の中に入ってきて、波布を助ける事になっていた。
しかし、実際には合図を送る前に、波布のスマートフォンは菅二に壊されてしまった。
「まさか、あのUSBメモリは……」
「仮に、スマートフォンを盗られたり、壊されたりして『彼』との連絡が取れなくなってしまった場合に備えて、他にもいくつか『SOS』の合図を決めていました。あのUSBメモリには発信機が仕込んであり、壊されると信号が消えるようになっています。“USBメモリからの信号が消える”というのも『SOS』の合図の一つにしていました。まぁ、“スマートフォンの通話が突然切れる”というのも『SOS』合図にはしていましたが、念のためもう一つの『SOS』の合図を『彼』に送りました」
そのために波布は菅二の意識を誘導し、USBメモリを壊させた。
「くっ!」
菅二はギリリと歯ぎしりをする。
「さて、そろそろいいでしょう」
波布は『蛇の頭をした生き物』に視線を送ると、人間には理解不能な言語を話す。
「○△□、▼■□□○○■××○」
その瞬間、『蛇の頭をした生き物』は口を大きく開け、唸った。
「待って!!」
菅二は手を広げ、波布に突き出す。
「わ、私は死ぬ訳にはいかない!私は……“彼”の子供を産まなくてはならないんだ!」
菅二は、必死に懇願する。
「し、信じてもらえないかもしれないけど、私は人間じゃない。私は人間を超えた『新種』なんだ!」
「……」
「私は子供を産まなければならない。私という『種』を維持するために!お前……いや、貴方になら分かるでしょ!?」
「……」
「“彼”を誘拐したのは、危害を加えるためじゃない。貴方の言うように、私は“彼”に恋をしていた。“彼”は他の人間にはない『優秀な遺伝子』を持っていたから……私は“彼”と一緒に、『新しい種の命』を繋いでいく権利があるの!」
「……」
「私は新たな種の『母』、そして彼は新たな種の『父』。私達は新時代のアダムとイヴに……」
「貴方が普通の人間ではないことは、最初に会った時にから分かっていました」
波布の思わぬ言葉に、菅二は目を大きく見開いた。
「ど、どうして!?」
「最初に貴方と握手をした時に、貴方の手の筋肉が人間とは異なる構造をしていることに気付きました。それから、貴方の動きを観察していましたが、貴方は全身の筋肉も常人とは違った構造をしていると思いました」
(ま、まさか……それだけで?)
握手をし、そして、少し動きを見ただけで、波布は管二が人間ではないことを看破したのだ。
その時、菅二は気付いた。
何故、波布が警察ではなく『化け物』を此処に連れてきたのか。
普通に考えて、人を食べた『化け物』を外に出して、此処まで連れて来るのはリスクが高すぎる。もし、他の人間にこの『化け物』を見られてしまったら大変なことになるからだ。
それよりは、警察に連絡した方が遥かにリスクは低い。
しかし、波布は警察に連絡をすることはなく、この『化け物』を連れてきた。
それは、何故か?
波布は知っていたのだ。警察では菅二を捕まえることは出来ないと。
警察では菅二を捕まえるどころか、逆に返り討ちにされてしまうと。
だから、波布はこの『化け物』を連れてきたのだ。
『化け物』に対抗するために『化け物』を連れてきたのだ。
「確かに貴方は人間の『新種』なのかもしれません。だとすると、貴方には、自分の遺伝子を未来に繋げていく、権利と義務がある」
「そう!だから、私は……」
「先程、雨牛君に会いました」
「!」
波布の言葉を聞いた瞬間、菅二がピタリと黙った。
「一目見ただけで、雨牛君がどんな酷い目に遭ったのかが分かりました。彼は数日に渡り、何度も何度も何度も……貴方に弄ばれた」
冷たい無機質な目で、波布は菅二を見る。その冷たい目は菅二だけではなく、その後ろにいる『蛇の頭をした生き物』の動きをも止めた。
「貴方は『新種』で、自分の遺伝子を未来に繋げていく、権利と義務があるのかもしれません。ですが……」
そんなことは、関係ありません。
静寂の中で、波布は氷の様な冷たい声でこう言った。
「私は、貴方を許しません」
「うわああああああああああああ!」
その瞬間、菅二は人間では考えられない跳躍力で波布に飛び掛かった。
やらなければ、やられる。
生物としての本能が菅二を反射的に動かした。波布の首を折ろうと菅二は手を伸ばす。
だが、その前に、凄まじい力で背中を引き裂かれた。
「ガハッ!」
菅二は、そのまま地面に倒れた。地に伏しながら、顔を上げると血の付いた鋭く伸びた爪を掲げた『化け物』と自分を冷ややかに見下ろす波布の姿があった。
「○×○○▼?」
「○○◆▲×○○。××▲、×××▲▲××▲××」
『化け物』は、波布と短い会話を交わすと、ゆっくりと菅二に顔を近づけた。
『化け物』は、ゆっくりと大きく口を開く。
(殺される!)
管二は背中の痛みも忘れ、立ち上がり、走る。そして、そのまま窓に体当たりをした。
パリンと窓が割れる音が家中に響き渡った。
菅二は、割れた窓から外に逃げる。
菅二の家は、林檎山という山の近くに面している。走れば直ぐに山の中に逃げることが可能だ。
『蛇の頭をした生き物』は波布をチラリと見る。
「○△?」
「○□△○△▼○。■■○、×××▲▲××▲××」
波布と人間には理解できない言葉を交わし『蛇の頭をした生き物』は管二を追って窓から飛び出した。既に周囲は闇に包まれている。
『蛇の頭をした生き物』は先端が二つに分かれた舌をチョロチョロと口から出す。
菅二から流れる血の匂いの分子を集めるためだ。
一寸先も見えない暗闇の中、『蛇の頭をした生き物』は管二の血の匂いを追って駆け出した。
まるで、匂いで獲物をどこまでも追う蛇のように。