後編
「では、失礼します」
頭を上げると、波布はそのまま、部屋を出ようとする。
「ま、待って!」
瓶地は、彼には珍しく慌てた様子で波布を引き留める。
「なんで?世界のもう一つの姿を、その目で見ることが出来るかもしれないんだよ!?間違いなく、歴史に名が乗るのに!」
波布は振り向くと、じっと瓶地の目を見る。その目に気圧された瓶地は、ゴクリと唾を飲んだ。
「危険だからです」
波布は静かに、そう言った。
瓶地は大きく目を見開く。全く予想もしていなかった言葉だ。
「危険?どうして!?」
「考えませんでしたか?」
波布は軽く首を傾げる。
「瓶地君は『量子力学』の計算に当てはめて、“もう一つの地球”の姿を見つけ出しました。『量子力学』では、粒子は確率によって存在し『観測』によって、その状態が収束します。ですので、『量子力学』の計算に当てはめて見つけた“もう一つの地球”を『観測』した瞬間、確率によって存在していた状態が収束する可能性があります。それは、とても危険です。なぜなら“もう一つの地球”の状態が収束すれば、こちらの地球にも影響を及ぼすからです」
「馬鹿な!そんなこと、起きるはずがない!」
瓶地は大きく声を荒げる。
「俺は“もう一つの地球”が存在する式を発見した。でも、何も起きていないじゃないか!」
「ですが、証明はできていない」
「そ、それは……」
瓶地が言葉に詰まる。波布はさらに続けた。
「私は、その式が正しいことを証明して、初めて“もう一つの地球”を『観測』したことになると考えています。“もう一つの地球”の状態が収束するのは、その式が正しいと証明された瞬間です」
「そ、そんな……そんなことが……起こるはず……」
「さらに、“もう一つの地球”の存在を世間に公表すれば、多くの人間が“もう一つの地球”を『観測』したことになります。すると、一体どうなるか……」
「そんな……そんな……そんな」
瓶地は『another Earth』と書かれたノートを見る。
自分が七年の歳月をかけて完成させた“もう一つの地球”が存在することを示した数式がこの中に書かれている。
瓶地は今まで、このノートを何よりも尊い宝物だと思っていた。しかし、波布の話を聞き、急にこのノートが怖くなってきた。
このノートが、まるで開けてはならない『パンドラの箱』のように見えてきた。
「では、失礼します。雨牛君を待たせているので」
波布はドアに向かって歩き出す。
ノートを見たまま固まっていた瓶地だったが、突如、あることに思い至った。電流が流れるような感覚が全身に走る。
「待って!」
瓶地は、波布の前に回り込みむ。
「もしかして、波布さん……」
瓶地の声は震えていた。震える手で瓶地はノートを開いた。
そこには『Ea=1/2πEai』と書いてある。
「この式の証明で、どこが間違えているのか分かったの?」
波布は、あっさりと告げる。
「はい、分かりました」
信じられなかった。波布はノートをパラパラと見ただけだ。それなのにノートに書かれてある理論どころか、証明で間違えている箇所すらも分かったというのか?
瓶地は波布の両肩を掴んだ。
「ど、どこが?どこが間違えている!?」
鬼気迫る表情で瓶地は波布に詰め寄る。
「残念ですが、お教えできません」
「お願い、教えて!」
瓶地は波布を何度も揺さぶる。しかし、波布の表情は変わらない。
「お願い!!」
瓶地は波布から手を離すと、地面に頭をつけ、土下座した。
「頼む。お願いだ。教えてくれ!!」
瓶地は何度も、何度も懇願する。
そんな、瓶地を上から見下ろしながら、波布はゆっくりと口を開いた。
「どうしても……ですか?」
瓶地はバッと顔を上げる。波布は相変わらずの無表情で瓶地を見下ろしていた。
「どうしてもですか?」
波布はもう一度、瓶地に尋ねる。瓶地は勢いよく立ち上がった。
「どうしても!」
「先程も言いましたが、証明が完成すれば“もう一つの地球”の状態が収束する可能性があります。自分の身に何が起きても後悔しませんか?」
「しない!」
瓶地はきっぱりと言う。
「俺は……どうしても“もう一つの地球”の存在を証明したい!」
「……分かりました」
波布は、静かに頷くと瓶地が持っている『another Earth』と書かれたノートを指差した。
「8ページ目の上から8行目。そこが間違えています」
瓶地は慌ててノートの8ページ目を開き、上から8行目を見た。
「あっ!」
瓶地は飛び上るほど大きな声を出した。確かに、間違えている。
天才の彼がするとは思えない程の小さなケアレスミス。だが、そのせいで後の計算が全て狂ってしまっている。
「此処がこうなるのなら……後は……そうか!」
瓶地は机に座り、計算をやり直す。天才である瓶地は、どこが間違えているのかさえ理解すれば、直ぐに答えまで辿り着く。
「できた……」
瓶地はポツリとつぶやく。それから、何度も検算をした。
「……完璧だ」
瓶地は腕を高く上げる。
「やった!やったぞー!」
瓶地は、大喜びでノートの最後に『□』と記した。証明終了を表す記号『□』を。
「ありがとう、波布さん!君のおかげだ」
瓶地は、波布の顔を見ることもなく、彼女の手を握ると何度も上下にブンブンと振った。
「これで世界がひっくり返る。本当にありがとう!」
「……」
「俺と君の名前は、確実に歴史に残るよ!」
興奮状態の瓶地は、なおも波布を賛辞する。そこで、瓶地はまだ自分が彼女の手を握っていることに気付いた。
「あ、ご、ごめん!ワザとじゃ……えっ?」
そこで初めて、瓶地は自分が握っている手をしっかりと見た。瓶地は思わず息を飲む。
彼が握っている手。その手は固い『鱗』に覆われており、爪はあり得ないほど鋭く尖っていた。
瓶地は、ゆっくりと顔を上げる。
「○△■×■■××」
それは聞いたこともない言語だった。
瓶地は持っていたノートを床に落とす。たった今、証明を完成させたばかりのノートを。世界を変える計算が記されている大切なノートを。
だが、瓶地は落としたノートを見ようともしない。ノートのことなど、完全に頭から吹き飛んでいた。
「あっ、あっ……ああああ!」
瓶地は顔を真っ青にして、後ずさる。瓶地がノートを落とすほど驚いた理由。それは、知らない言語を聞いたからではない。目の前に立っている者の顔を見たからだ。
瓶地の前に立っている者。それは人間ではなかった。
耳や髪はなく、肌は鱗に覆われていた。口は頬まで避けており、目はとても大きく瞼がない。口からは先端が二つに分かれた舌が何度も出入りしている。
その頭は、まるで蛇のようだった。
「なっ、なっ、なっ?」
瓶地は、その場に尻餅をついた。蛇の頭を持つ怪物が瓶地に一歩近づく。
「シャー!」
怪物は口を大きく開け、叫んだ。口の中に歯はない。
「うわああああああああ!」
瓶地は叫び声を上げ、逃げようとする。その時、落としたノートに手が触れた。瓶地は、とっさにノートを拾うと、教室を飛び出した。
「な、なんだ?なんだよ。あれ!?」
瓶地は廊下を走る。廊下の角を曲がった時、部室にいた化け物と同じ姿をした生物と鉢合わせした。
「うわああああ!」
瓶地は叫び声を上げ、慌てて逃げる方向を変える。それから、また全力で走った。途中、何度も化け物と鉢合わせした。その度に、方向を変え、逃げた。
「だ、誰かああああああ!」
必死に叫ぶが、出会うのは怪物ばかりだった。どれくらい走ったのか、瓶地は時間の感覚がなくなる程、走った。
「はぁ、はぁ、な、なんなんだ、一体?」
ようやく校舎から出ることが出来た瓶地は、体育館の裏に隠れ、荒くなった息を整える。しばらく待つと呼吸も元に戻ってきた。
「ふぅ」
落ち着きを取り戻した瓶地は、辺りがすっかり暗くなっているのに気付いた。
「もう、夜か……そんなに長い時間逃げ回っていたのか?」
今の時刻を確認しようと思い、瓶地は自分のスマートフォンを取り出す。
スマートフォンを見た瞬間、瓶地は絶句した。
「……なんだよ!?これ?」
スマートフォンの画面には意味不明な文字が羅列していた。瓶地は画面に触れ、何度も指を滑らす。しかし、出てくるのは意味不明な画面や身に覚えのないアプリだった。
「くそっ!なんなんだよ……」
瓶地はスマートフォンをポケットに戻し、頭を抱えた。
(落ち着け、考えろ。考えるんだ!)
異変が起きたのは、瓶地があの式の証明を完成させてからだ。あの時から、おかしくなった。
(まさか……波布さんが言っていたのは……このことなのか?)
瓶地は親指の爪をガシガシと噛む。
(俺は……“もう一つの地球”に来てしまったのか?)
波布は言った『自分の身に何が起きても後悔しませんか』と。
(もしかして、波布さんは、あの式の証明を完成させると何が起きるのかさえも、予測していたというのか?)
なら、教えてくれれば……いや、きっとこのことを聞いても瓶地は諦めなかっただろう。波布に間違っている部分を確認し、きっと式の証明を完成させた。
(くそっ!)
瓶地はさらに爪を噛んでいたが、ピタリと噛むのをやめた。
(待てよ……此処が“もう一つの地球”ということは……)
瓶地は、ゆっくりと視線を空に向けた。
夜の空に、巨大な蛇の頭が『広がっていた』。
巨大な蛇の頭は、はるか上空から瓶地をじっと見つめている。
「うわあああああああ!」
瓶地は、またしても叫び声を上げた。空一面に広がっていた巨大な蛇の頭は瓶地と目があった瞬間、口を大きく開け、ゆっくりと『落ちてきた』。
瓶地はまるで、金縛りにあったかのように動けない。
空一面に広がる蛇の頭。そんなものが落ちてきたら、普通は建物を潰し、衝撃で周囲の物を吹き飛ばしてしまうだろう。
しかし、超巨大な蛇の頭は周囲の建物を通り抜け、瓶地の足だけを咥えた。蛇の頭は周りに被害を出すこともなく、今度はゆっくりと首を上げ始めた。足を咥えられた瓶地は逆さまの状態で、グングンと上空に上がっていく。
「ひいいいいい!」
瓶地は恐怖のあまりに目を閉じた。高度はさらに上がっていく。
しばらくすると、蛇はピタリと動きを止めた。逆さまの状態で、瓶地は恐る恐る目を開ける。
「あっ!」
瓶地は思わず声を上げた。瓶地の体はいつの間にか成層圏を超え、宇宙に飛び出していた。不思議なことに呼吸もできるし、寒さなども全く感じない
瓶地の真下には、青い地球が広がっている。しかし、その姿は『球体』ではない。
瓶地の真下に広がっている地球は『平面』だった。
『平面の地球』の周りは、滝ではなく、氷で覆われていた。そして『平面の地球』を瓶地の体を咥えている『超巨大蛇』の胴体が支えていた。
それは、瓶地が解析した通りの姿だった。
「はっ!はははははは!」
恐怖も忘れ瓶地は笑う。やはり、此処は“もう一つの地球”だったのだ。
「やった……やった!俺は、俺はやったんだ!」
瓶地は手を大きく上げた。その手には大切なノートがしっかりと握られている。
「やった!やった!やったんだ!俺の考えは正しか……」
狂喜乱舞する瓶地。その瓶地を『平面の地球』を支えている『超巨大蛇』はゴクリと飲み込んだ。
***
「○△○△○△○△○△××××××××!?」
突然、目の前に現れた蛇の頭をした怪物は、波布の知らない言語を叫んだ。
波布の助言を受け、計算をやり直した瓶地。検算を終え、式の証明が正しいことが分かると、大喜びでノートの最後に明終了を表す記号『□』を書いた。
その瞬間、瓶地の姿は消え、代わりにこの怪物が目の前に現れた。
怪物は窓を開けると、下に飛び降りた。
数学部は三階にある。しかし、地面に着地した蛇の頭をした怪物は怪我をすることもなく、そのまま走ってどこかに行ってしまった。
あの怪物は恐らく“もう一つの地球”に住んでいる生物だろう。
瓶地は“もう一つ地球”の存在を証明し『観測』した。その結果、“もう一つの地球”の状態は一瞬だけ収束した。そして“もう一つの地球”を『観測』した瓶地は状態の収束に巻き込まれ、向こうに行ってしまった。おそらく、あの怪物も“もう一つ地球”の状態の収束に巻き込まれてしまい、こちらに来てしまったのだろう。あの怪物にとっては災難だった。
「やはり、こうなりましたか」
波布は軽くため息を吐く。向こうの世界に行ってしまった瓶地が帰ってこられるかどうかは、運次第だ。
瓶地がこちらの世界に帰ってくるには、あの数式の証明をもう一度見て『観測』すればよい。そうすれば、状態は再び収束し、こちらの世界に帰ってくることができる。
しかし、あのノートを開く前に何らかのアクシデントが起きた場合は……。
「まぁ、それも仕方がありませんね」
波布はちゃんと警告をした。しかし、瓶地は危険と知りながらも“もう一つの地球”の存在を証明することを選んだ。後は、瓶地の自己責任だ。
怪物が部屋を去った後、波布は開いた窓を閉め、そのまま部室を出た。
「お待たせしました雨牛君」
波布は、暇そうにしていた雨牛に声を掛ける。雨牛は波布の姿を見ると、軽く笑んだ。
「もう、いいの?」
「はい、お待たせして申し訳ありません」
「ううん、気にしてないよ。じゃあ、帰ろうか」
「はい」
雨牛と波布は共にゆっくりと歩き出す。
「瓶地君……なんだって?」
「彼は今、ある研究をしているらしいのですが、その手伝いをしないかと誘われました」
「あ……そうなんだ」
「どうかしましたか?」
「い、いや、何でもないよ!」
雨牛はゴホンと咳払いをする。
「そ、それで?瓶地君は、どんな研究をしてたの?」
「そうですね……簡単に言えばパラレルワールドの研究です」
「パラレルワールドって言うと……僕達が今いる世界とは別の世界があるっていうあれ?」
「そうです。流石は雨牛君。博識ですね」
波布は優しく微笑む。雨牛は顔を紅くしながら頬を掻いた。
「彼はもう一つの世界……パラレルワールドの存在を数学的に証明しようとしているのだそうです」
「へぇ……なんだか、面白そうだね」
「……そうですね」
「そ、それで?その研究、手伝うの?」
「いいえ、手伝う気はありません」
「どうして?面白そうだけど……」
「雨牛君と一緒にいる時間が減りますから」
「あっ、そ、そう……」
雨牛の顔がまた紅くなる。
「で、でも。本当に此処とは別の世界なんてあるのかな?」
「……さぁ、どうでしょう」
波布は窓の外を見る。空には大きな雲が浮いていた。見ようによっては、それは巨大な蛇の頭にも見える。
「もし、別の世界があるとしたら雨牛君は行ってみたいと思いますか?」
「う~ん。どうだろうね。行ってみたい気もするけど、ずっと其処にいろっていうのなら嫌だな」
「そうですか」
「うん。なんだかんだ言って、僕は此処が好きだからね」
「……それは、私への告白と受け取っても?」
「いや、違うからね!!」
慌てる雨牛を見て波布はクスリと笑う。
「……ったく」
雨牛は気を取り直して、波布に尋ねる。
「波布さんはどうなの?別の世界に行ってみたと思う?」
「雨牛君がこの世界にいるというのなら、私は此処にいます。雨牛君が別の世界に行くのなら、私も一緒に行きます」
波布は雨牛の目を見てニコリとほほ笑む。
世界的に有名な名探偵は、地球が太陽の周りを回っていることを知らなかった。
彼は曰く「たとえ、地球が月の周りを回っても、僕にも僕の仕事にも影響しない」とのことだ。
だから、地球が月の周りを回っていようが太陽の周りを回っていようが、彼にとっては、どうでもいいことなのだ。
彼の考えに、私は深い共感を覚えた。
もう一つの地球があろうとなかろうと、地球が『球体』だろうと『平面』だろうと、『蛇』が地球を支えていようといまいと、私には関係ない。
「雨牛君がいる世界。其処こそが、私がいるべき世界です」
***
翌日、とある場所で、ドロドロに溶けた肉塊が発見された。
詳しく調べた結果、その肉塊は人間で、動物の胃酸のようなもので溶かされていることが分かった。
遺体はDNAが採取できないほど損傷が激しく、性別の判断すらできなかった。遺体が所持していたと思われる物もほとんどが溶けてしまっていたため、遺体の身元はおろか、これが殺人なのか事故なのかすらも分からず、警察の捜査は難航した。
ただ一つの手掛かりは、遺体の傍に落ちていたノートだった。
ノートも溶解しており、大半が判読不能だったが、唯一、『Ea=1/2πEai』という謎の式と、証明終了を表す記号『□』のみ判読することができた。
当初、警察はこの不可思議な事件の詳細を内密にしていたが、どこからかデータが流出。事件はネットを通じて、世界中に広がった。
遺体の正体、そして遺体の傍に落ちていたノートに書かれていた、誰も見たことがない数式。
世界中の都市伝説愛好家やジャーナリスト、数学者達がこの謎を解こうと調査を続けている。
同じ頃、遺体が発見された地点より遠く離れた場所で『怪物』の目撃情報が相次いだ。『怪物』は人間の胴体に蛇の頭をしているのだという。
また、『怪物』が目撃されている地域に住んでいる高校生天才数学者の瓶地玲雄(ネットでは『davinci』の名前で動画を投稿していた)も同じ時期に行方不明となっている。
ネットでは、この二つの事件と『溶けた遺体』との関連を指摘する声も上がっているが、現在、それを証明するには至っていない。




