前篇
世界的に有名な名探偵は、地球が太陽の周りを回っていることを知らなかった。
彼のルームメートであり、後に生涯の親友となる人物がそのことについて尋ねると、彼はこう言った。
「たとえ、地球が月の周りを回っても、僕にも僕の仕事にも影響しない」と。
さらに、彼は地球が太陽の周りを回っているという知識は、自分には必要ないので、全力で忘れようとさえした。
彼曰く、脳は小さな空の屋根裏部屋のようなものだという。
手当たり次第に、いろんなガラクタを詰めこむと、自分に役立つかもしれない知識が押し出される。だから、彼は自分にとって役立たない知識を覚えようとはしない。
彼の考えに、私は深い共感を覚えた。
***
「凄い。これは凄いぞ!」
瓶地玲雄は、思わずその場に立ち上がった。
彼が見ているパソコンの画面には、瓶地が自作したソフトが動いている。
三十分後、パソコンの画面に『解析完了』の文字が出た。その下には『画像を表示しますか?』と出ている。
「どうだ?」
瓶地は緊張した様子で『OK』をクリックした。一枚の画像が画面いっぱいに表示される。
「やっぱり、間違いない!」
瓶地は、思わず両手を高く上げた。
「世界がひっくり返るぞ!」
***
「おい、見たかよ。瓶地の動画!』
「『davinci』だろ?見てたよ。何言ってるのかさっぱり分からんかったけど」
「俺も。だけど、再生回数凄まじいな」
「広告料で、いくら稼いでんだ?これ」
「っていうか、いいのか?動画で金稼いで」
「いいじゃね?学校も許可してるって話だぜ」
「普通ダメだろ」
「まぁ、有名人だしな。学校も特別扱いしたんだろ」
通り過ぎた男子二人は、そんな会話をしていた。
この学校には、波布さんの他にも有名人が何人かいる。その一人が、瓶地玲雄という男子生徒だ。
海外の有名大学を僅か十五歳で卒業したが、普通の高校生活が送りたいという理由で、日本の高校に転入してきた変わり者の天才だ。
瓶地君は、今は数学部に所属していて、そこで数学の研究をしている。
さらに彼は、『davinci』という名前で動画共有サイトに動画を上げている。
その人気は、凄まじく、世界中の数学関係者や学生、数学好きが彼の動画を見ているそうだ。僕も見たが、開始十秒で挫折した。
僕は、隣を歩いている波布さんに話しを振る。
「凄いよね。瓶地君」
波布さんは、不思議そうな目で僕を見た。
「雨牛君の方が凄いですよ?」
「え?どこが?」
天才数学少年に僕が勝っている所があるのだろうか?考える僕に、波布さんはさも当然のように「全部です」と答えた。
とても、恥ずかしい。
「い、いやでも、同じ高校生なのに、瓶地君はもう、自分でお金を稼いでるし……」
「お金が欲しいのなら、いくらでも差し上げますが?」
「いや、そうじゃなくてね」
普通の人間だったら冗談だと思うだろうが、僕が欲しいと言えば、きっと波布さんは、いくらでもお金を渡してくるだろう。
たとえ、貯金を全て叩いて、借金をしてでも僕にお金を渡そうとしてくるに違いない。いや、下手をすれば、強盗もするかも?
僕が身震いをしていると、背後から声がした。
「やあ、波布さん」
振り向くと、そこに今、話題にしていた有名人が立っていた。
「あ……」
「こんにちは、瓶地さん」
驚く僕とは対照的に、波布さんは、無表情で軽く会釈をした。確か、波布さんと瓶地君は同じクラスだったはずだ。
「波布さん、これから、時間ある?」
瓶地君は笑顔で聞いてくる。波布さんは無表情で首を軽く傾げた。
「何か用ですか?」
「ちょっと、話したいことがあるんだけど」
「これから雨牛君と一緒に帰るので、無理です」
波布さんは、きっぱりと断る。
「お願い、そこをなんとか」
瓶地君は両手の掌を合わせる。
「直ぐに済むから。雨牛君も頼むよ、君からも彼女を説得して欲しい」
「えっ、あの、どうして、僕の名前を?」
「そりゃあ、あの波布さんの彼氏だからね。君のことは皆、知っているよ」
「……そう、なんだ」
「……彼女」
僕は天を仰いだ。波布さんは、嬉しそうに頬を紅くしながら僕の顔を覗いている。
「どうかな、波布さん?」
「……」
波布さんは、じっと僕の顔を見たまま動かない。どうやら、僕の言う通りにするつもりのようだ。少し、考えた末、僕は波布さんに「行ってきなよ」と言った。
「ですが……」
「話が終わるまで、此処で待ってるから」
僕はニコリとほほ笑む。波布さんは、小さな声で「分かりました」と答えた。
「よし、決まり。じゃあ、行こう。波布さん!」
瓶地は意気揚々と歩き出す。その後ろを波布さんは無表情でついて行った。
一人になった僕は、どうやって時間を潰そうか考える。それにしても、瓶地君の用とはなんだろう?
「告白……とか?」
少しだけ、ほんの少しだけ、胸がチクリと痛んだような気がした。
***
「どうぞ、座って」
「失礼します」
数学部の部室は意外と広い。理科室を部室として使っている生物部とは大違いだ。しかし、広い部室の中には、瓶地と波布しかいない。
「他の部員は?」
「俺の他にあと、二人いる。でも、名前を借りてるだけ。一人だけだと、部として認めてくれないからね」
つまり、数学部は実質、瓶地一人しかいないということだ。
当然、普通なら部員の水増しなど、生徒会は認めない。だが、それが通っているのは、瓶地が特別だからだ。
瓶地は数学の天才だ。彼は三歳の時点で既に高校生レベルの数学を理解し、さらに五歳で大学レベル、七歳になると大学で教鞭をとれるレベルとなっていた。
さらに、十歳の時、彼は『素数の法則』に関する論文を書き上げ、世間をあっと驚かせた。
彼の論文は、未だに証明こそされてはいないものの世界中の学者達から、高い注目を受けている。
そんなこともあり、彼は学校で特別扱いされている。
部活動に関する予算は、野球部やサッカー部並みに高く、本来学校に持ち込み禁止となっているはずのノートパソコンの持ち込みも許可されている。
波布が椅子に座ると、瓶地は棚から一冊のノートを取り出した。
「これを見て欲しいんだ」
瓶地玲雄はノートを手渡す。ノートの表紙には『another Earth』と書かれていた。
「開けてみて」
言われた通り、波布はノートを開く。ノートの冒頭には。一つの数式が書かれていた。
Ea=1/2πEai
さらに、その下にはページには、数式がビッシリと書かれている。その数式は、ノートの最後のページまで、続いていた。
「それ、なんだと思う?」
瓶地は試すような視線を波布に向ける。
「……おそらく『量子力学』に関するものだと思います」
瓶地は、手で口を押え、クックックッと笑う。
「流石だね、波布さん。一目見ただけで分かるなんて、どうして分かったの?」
「ノートの冒頭にある式は、初めて見ました。ですが、ノートの終わりまで続く数式の方は、冒頭に書かれている式を証明したものだということは分かります。その証明の中に『量子力学』の際に使われる公式がいくつか見られましたので、ノートに書かれている内容は『量子力学』に関するものだと思いました」
「なるほどね。素晴らしい!」
「冒頭にある『Ea=1/2πEai』という数式。これは何ですか?」
『Ea=1/2πEai』。特に『Ea』という記号は数学の中にない。
「『Ea』とは、俺が自分で作り出した記号だ。地球の存在確率を現している」
「地球の?」
「この数式はね……」
瓶地はニヤリと笑う。
「世界の認識を変える数式さ」
***
「紅茶がいい?それともコーヒーがいいかな?」
「では、紅茶で」
「分かった」
数分後、波布の前にカップに入れられた紅茶が置かれる。香りから、かなり高価な葉を使っているようだ。瓶地は自分の前にはコーヒーが入ったカップを置いた。
「さて、どこから話そうか……」
瓶地は波布の正面に座ると、手を組んだ。
「波布さんは、この地球はどんな形をしているのか知っている?」
波布は、特に考えることもなく答える。
「球体……と、習いましたね」
「そうだね。多くの人間が『地球は球体だ』と思っている。確かに地球は『球体』だ。でも、実はそれは地球の一つの顔にしか過ぎなかったんだ」
「一つの顔?」
「そう、地球のもう一つの顔。それは『球体』じゃない。『平面』なんだ。そして、その『平面の地球』を……」
瓶地は、唇の端を釣り上げる。
「『超巨大な蛇』が支えてている」
***
『地球平面説』
かつて、地球は平面だと思われていた。地球の端は、滝になっており、海に出て、まっすぐ進んでいけば地球の端から落ちてしまう。そう考えられていた。
しかし、後に多くの哲学者、天文学者が『地球は球体である』と唱え始めたことで、『地球平面説』は徐々に衰退していくことになる。
さらに、人類は宇宙に飛び出し、地球の姿を写真に収めることに成功した。
そこに写っていた地球の姿。それは紛れもなく『球体』だった。
こうして、地球は『球体である』という考えは、世界の常識となった。
だが、今もなお『地球は平面である』と唱えている人間は存在している。
「『平面の地球』……ですか」
「そう。もう一つの地球は『平面』の形をしている」
「それを『超巨大な蛇』が支えていると」
「うん!」
「何故、そのような結論に?」
「俺は昔から、『量子力学』について研究している」
『量子力学』とは、電子などミクロなものの力学を研究する学問だ。
『量子』の世界では、常識が通用しない不可思議な現象が起きる。
コペンハーゲン解釈によると、量子はいくつもの状態が重ね合わせの状態で存在しており、『観測』によってその性質が決まるとされている。
光は波か、それとも粒子かを調べる目的の『二重スリット実験』では『波』の性質を見せていた光が『観測』をした途端、『粒子』の性質に変わるという現象が起きる。
量子もつれの二つの粒子のうち一方の状態を『観測』すると、距離に関係なく、もう一方の粒子の状態が確定する『量子テレポーテーション』という現象が起きる。
人間の『観察』によって、状態が確定する『量子』の世界。
多くの物理学者が『量子力学』を否定しようと、様々な実験を繰り返してきた。
だが、皮肉なことに『量子力学』を否定しようとした実験で、逆に『量子力学』が正しいことが証明されてしまう事例がいくつも起きてしまう。
常識を破壊する『量子力学』。多くの学者が『量子力学』に頭を悩まされてきた。そして、それは今でも変っていない。
「俺の最終的な目的は“もう一つの宇宙”を観測することなんだ」
「『多元宇宙論』ですか」
「そう。俺は宇宙も『量子』と同じく重なり合った状態で存在していると考えている。そして、それは観測することができると考えている」
いくつもの状態が重ね合わせの状態で存在している『量子』。だが、それはもしかしたら、『量子』だけに限った話ではないのかもしれない。
この宇宙もいくつかの状態が『重なり合っている』可能性があるのだ。我々がいるこの宇宙は、いくつもの宇宙の内の一つかもしれない。
SFに登場する『パラレルワールド』。だが、それは、決して映画や小説、漫画の中だけの話ではないのだ。
「宇宙についての研究を進めていく中で、ふと思った。もしかしたら、地球も『重なりあった』状態で存在しているんじゃないか?って。そこで、試に計算してみることにしたんだ。最初は、どうせ大した結果にはならないと思っていたんだけど、計算を進めていく内に確信した。地球も『重なりあった』状態で存在しているんだと!」
「つまり、此処とは違う“別の地球”が存在している……と」
「まさに!」
「なるほど」
波布は、顎に手を添える。
「それを現したものが、先程見せていただいた数式だったというわけですね」
瓶地はニヤリと笑う。
「大変だったよ。この数式を発見するのに七年以上掛かった」
机の上にあるノートパソコンを開く。
「そのパソコンは自作ですか?」
「そうだよ。市販のものよのりも何十倍も高速で、膨大な情報を処理することができるんだ」
瓶地は軽快にキーボードを叩く。そして、ある画像を波布に見せた。
「この画像は、さっき見せた計算式に基づいて、地球の姿をこのパソコンで解析させたものだ。すると、地球の姿はこのような姿になった」
それは、『平面の地球』とその地球を支える『超巨大蛇』の画像だった。
『平面の地球』の周りは、滝ではなく、氷で覆われている。その『平面の地球』の底を『超巨大蛇』の胴体が支えていた。
『超巨大蛇』の胴体は『平面の地球』を一周しており、巨大な頭部が地球を上から見下ろしていた。
『超巨大蛇』の胴体が触れているのは『平面の地球』の底の部分だけで、上の部分、つまり大陸や海がある箇所には触れていない。
まるで、そこにいる命を守るように。
「これが、“もう一つの地球”ですか」
「そう。凄いでしょ?」
瓶地は目を輝かせている。
「この蛇は、本物の蛇なのですか?」
「さぁ、それは分からない」
「生きているのでしょうか?」
「それも分からないな」
瓶地は机の上で手を組む。
「勿論、常識的に考えれば、こんな巨大な蛇は存在しない。自重で潰れるだろうし、もし生きているのだとするなら、基礎代謝だけで凄まじいエネルギーが必要になる。さらに宇宙空間にいても死なないとなると、もはやこれは『生物』とは言えない。『神話』の世界の住人だ。もしかしたら、この地球は、こちらの地球と物理法則が違っているのかもしれない。でないと、惑星がこんな風に平面になるわけがないからね」
瓶地は興奮しているのか、早口で一気にまくし立てる。そんな瓶地に、波布は淡々と尋ねた。
「それで?」
「ん?」
「私達がいる地球の他に“別の地球”が存在している可能性があるのは理解しました。その地球の形は『平面』で、さらに『超巨大蛇』に支えられているというのも分かりました。ですが、どうして、私にこんな話を?」
瓶地はニヤリと笑う。
「この話を聞かせたのは、君に協力して欲しいからなんだ」
「協力?」
「僕は、“もう一つの地球”の存在を世間に公表しようと考えている」
瓶地は真剣な目で波布を見る。
「そのために、君に協力して欲しいんだ。もちろん、謝礼は出す」
「協力とは、具体的に何を?」
「さっき見せたノートに書いてあった数式。俺は、自分が作ったあの数式は正しいと確信している。だけど、実はまだ、あの式が正しいと証明できていないんだ。計算は完璧だと思うんだけど、どうしても解が合わない」
瓶地は悔しそうに顔を歪める。
「俺だって“もう一つの地球”のことをそのまま発表した所で、誰からも相手にしてもらえないのは分かっている」
実は、地球はもう一つあった。
その地球は、私達のいる地球と『重ね合わせ』の状態で存在している。もう一つの地球は『平面』で、しかも、驚くべきことに『超巨大蛇』が支えているのだ
確かに、誰も信じそうにない。信じるのは一部のオカルトマニアぐらいだろう。
「だから、どうしてもあの数式が正しいと証明する必要がある。数学的に正しいと証明できたのだとしたら、全員ではないにしろ、話を聞いてくれる人間も出てくるはずだ」
だから、完璧な証明をする必要がある。と瓶地は強く語る。
「そのために、俺は今、優秀な人間に声を掛けている。皆で知恵を出し合えば、この難問が解ける可能性も高くなるからね。俺が動画を出して、広告収入を稼いでいるのも、そのための資金作りさ」
瓶地は優秀な人間を集めチームを作り、自らが生み出した数式が正しいことを証明しようとしている。瓶地は、波布にもそのチームに参加して欲しいと懇願しているのだ。
「何故、私なのですか?」
「君が天才だからだ」
瓶地は、本棚から一冊の本を出す。タイトルは『蛇と蝶の世界』。以前、波布が書いた本だ。
「君の本、読んだよ」
「ありがとうございます」
「この本の中で『バタフライエフェクト』に触れている箇所があるね。それが、とても素晴らしかった。感動したよ!」
瓶地が言っていることは、お世辞などではない。彼は、本気で感動している。
その証拠に、瓶地の顔は、興奮により赤く染まっていた。
「この本を読んで思った。この本を書いた人間は、天才だと。是非とも俺がこれから作るチームに入って欲しいと思ったんだ!」
瓶地は、両手で机をバンと叩いた。
「君は、俺の話を聞いて馬鹿にすることはなかった。それどころか、俺の話を瞬時に理解した。期待通り、いや、それ以上だったよ。俺は、どうしても君が欲しい!」
瓶地は、椅子から立ち上がると、スッと手を差し出した。
「一緒に、もう一つの世界を見よう!」
それは、まるで愛の告白のようだった。波布はゆっくりと、椅子から立ち上がる。
そして、丁寧に頭を下げた。
「お断りします」




