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蛇はどこまでも追いかけてくる  作者: カエル
第二章 胡蝶の夢
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蛇の夢

 胡蝶咲江は花の蜜のような甘い幸福に包まれていた。


 暗くなった部屋の中。胡蝶と『雨牛』はベットに腰掛け、じっと互いの目を見つめ合っている。

「『雨牛君』、愛してる」

「うん、僕もだ」

 二人は、キスを交わした。最初は軽いキスだったが、次第に激しくなっていく。

「んっ、んっ、ううん」

「うっ、んっ、んっ」

 長い時間、口づけをしていた二人は、同時にゆっくりと唇を離す。

 胡蝶はおもむろに服のボタンを一つずつ外し始めた。全てのボタンを外すと、蝶の柄が描かれている下着に包まれた、大きく膨らんだ胸が露わになる。

 その様子を見ていた『雨牛』は自分の上着に手を掛けると、一気に脱いだ。

『雨牛』は胡蝶に囁く。

「綺麗だ」

「『雨牛君』も、カッコいい。素敵だよ」

 顔を真っ赤にする『雨牛』。その頬に胡蝶は軽くキスをする。

「来て」

 胡蝶は、妖艶な笑みを浮かべて、両手を広げた。

 欲望を掻き立てられる甘い声と表情。『雨牛』は胡蝶の両手を掴むと、そのままベッドに押し倒した。ベットがギシリと音を立てる。胡蝶の大きな胸が『雨牛』の体で潰れた。

「……胡蝶さん」

「……『雨牛君』」

 ゾクリとする胡蝶の声。下になった胡蝶の唇に『雨牛』は自分の唇を重ねた。


 ようやく手に入れた『温かさ』に幸せを感じながら、胡蝶は何度も何度も雨牛と愛を確かめ合った。


               ***

「すぅ、すぅ」

 ベッドの上で『雨牛』は赤ん坊のように無垢な表情で眠っている。ここは『夢』の中、なので眠る必要はない。だが、初めての経験を終えて精神的に疲れたのだろう。『雨牛』は気持ちよさそうに眠っている。

 胡蝶は、眠っている『雨牛』の頬に軽いキスをして、ベッドから降りた。

 先程まで何も着ていなかった胡蝶は、いつの間にか外出用の衣服を身に纏っている。

「また後で」

 寝ている『雨牛』に手を振りながら、胡蝶は部屋を出た。


               ***


 夜の街を胡蝶は歩く。街は静まり返っており、人の気配は全くない。胡蝶は、近くの公園に入ると、そのまま、ベンチへと向かった。


 胡蝶がベンチまで来た時、既にベンチには誰かが座っていた。


 胡蝶が近くまで寄ると、ベンチに座っていた人物は、スッと立ち上がった。

「こんばんは」

 淡々とした声で、その人物は胡蝶に挨拶をした。胡蝶も挨拶を返す。

「こんばんは……波布さん」


                ***


「そっちの雨牛君は元気?」

「はい。そちらの『雨牛君』は元気ですか?」

「うん、元気だよ」

 胡蝶はニコリと笑う。

「すっごく優しくて、すっごく温かい。ますます好きになった」

「そうですか」

「彼に会いたい?」

「会いたいと言えば、会わせてくださるのですか?」

「絶対、嫌」

「そうですか、別に会いたいとも思わないのでいいです」

 波布は、さして興味もないような口調で話す。胡蝶は首を傾げた。

「会いたくないの?『雨牛君』に」

「はい、特には」

 波布は、まっすぐ胡蝶を見る。

「私にとって、雨牛君は一人だけですから」

「ふうん、そう」

「貴方は、会いたいですか?『現実』の雨牛君に……」

「ううん。別に」

 胡蝶は、一瞬も迷うことなく即答する。

「私にとっても、『雨牛君』は一人だけだから。それに……」

 胡蝶は両手を大きく広げた。


「私にとって、『現実』は此処だから」


 夢の中の世界で胡蝶の願いは何でも叶う。だから、胡蝶にとって夢の世界は『現実』になりえなかった。

 しかし、今、胡蝶の隣には『雨牛』がいる。

 胡蝶が創造したのではない、本物の雨牛が造り出した『雨牛』は、自分の意思で行動している。胡蝶は『雨牛』を操ることはできない。

 そのため『雨牛』は時に、胡蝶が望まない行動を取ることもある。

 だからこそ、胡蝶は『雨牛』のことを愛おしく思う。

 そして、そんな『雨牛』と共に過ごす内に、胡蝶は自分が造り出した夢の中の世界を『現実』として認識するようになっていった。


「今の私にとって、『現実』はこちらの世界。今まで、私がいた場所の方が『夢』なの。だから、私にとって『現実』の雨牛君といえば、此処にいる『雨牛君』のことを指す」

「……そうですか」


『胡蝶の夢』という話がある。

 ある所に男がいた。男は蝶になり、ヒラヒラと飛ぶ夢を見ていた。目を覚ました男は考える。

「果たして、自分は蝶になった夢を見ていたのか?もしかすると、今此処にいる自分の方が蝶の見ている夢なのではないのか?」と。


『現実』と『夢』の境界は実は曖昧だ。今、此処にいる自分が蝶の見ている『夢』だと証明する手段はない。

 だから胡蝶がこの世界の方を『現実』だと認識しているのだとしても、波布は、それいついて、何かを言うつもりはない。

 

 波布がこの世界に来た理由は、そんな話をするためではない。


「そろそろ、よろしいでしょうか?」

 波布は、まっすぐ胡蝶を見る。

「約束を果たしてください」

「分かったよ」そう言って、胡蝶は軽く肩をすくめた。


               ***


 胡蝶が波布の夢に訪れた時のこと。胡蝶は波布に、雨牛が『もう一人の雨牛』を造り出すように、自分に協力して欲しいと頼み込んだ。

 胡蝶は、波布に自分が何故『もう一人の雨牛』を求めているのかを語った。胡蝶の話を聞き、考え込む波布に胡蝶はさらに、こう言った。

『私の肉体は、もう死んでる』と。


『今の私は、私の中にいた……貴方が“奇妙な生物”と呼んでいる存在と一体化したものなの。肉体が死んだことがきっかけになって、私の精神は自分の中にいた“奇妙な生物”と同化した。そのおかげで、今までは誰かの夢の中を行き来することしかできなかった私が、こちらの世界に人を招くことができるようになった』

『……』

『誰も来ない。いつ終わるかも分からない入院生活だった。でも、雨牛君が来てくれた。私にとって、雨牛君は暗闇を照らしてくれる光なの』

 胡蝶は寂しそうに、それでいて嬉しそうな笑みを見せる。

『もう私には“雨牛君”しかいない。人間じゃなくなった私にはもう……“雨牛君”しかいないの』

『……』

『だから、お願い。私に協力して』

 胡蝶は、目に涙を溜めて波布に頼み込む。


『条件があります』

 波布は静かに口を開くと、そう言った。胡蝶は、目を見開く。

『あっはははははははは!』

 それから胡蝶は笑い出した。とても楽しそうに。

『驚いた。君は本当に凄いね』

 胡蝶はパンと手を叩く。

『ズレたのは、これで二度目だよ』


 胡蝶は夢で『現実』と同じ世界を再現し、そこで何度もシミュレーションを重ねてきた。自分の望みを叶えるために。そして、夢の中で成功したシミュレーションの通りに『現実』で行動している。

 胡蝶の思った通り、『現実』を再現した夢の中でシミュレーションした通りに動けば、実際の『現実』世界でも同じことが起きた。

 だが、一度だけ、夢の中でシミュレーションした結果と『現実』で起きた結果にズレが生じたことがあった。


 それは、波布と胡蝶があった初めて出会った時のことだ。


 二人きりの病室で、胡蝶は雨牛にキスをしようとしていた。夢の中では、胡蝶が雨牛を押し倒して、キスをするのと同時に波布が病室に入って来た。

 当然、『現実』でも同じことが起きるはずだった。しかし、『現実』では、波布は胡蝶が雨牛にキスする前に、病室に入ってきた。

 夢でシミュレーションしたことと、『現実』にズレが生じたのだ。

 それは、とても小さなズレだったため、胡蝶の願いへの障害になることはなかった。


 だが、一度目のズレと比べると、今回のズレはとても大きなものだ。

 

 夢の中でシミュレーションした時は、胡蝶の協力の申し出に対して、波布は黙って頷いて協力の意思を示した。胡蝶に協力することに対して、波布は何も条件を出すことはしなかったのだ。

 しかし、目の前にいる波布は胡蝶に対して、何らかの条件を出そうとしている。 これはとても危険だ。波布の出す条件によっては、胡蝶の望みが叶わなくなるかもしれない。


 断るか否か、胡蝶は一瞬考えた。

 だが、胡蝶は波布の条件を聞くことにした。断るにしても条件を聞いてからでも遅くはない。それに、波布がどんな条件を出すのか興味があった。

『いいよ。どんな条件?』

『はい、貴方に教えて欲しいことがあります』

 波布は、胡蝶に協力する条件を話す。


『……そんなことでいいの?』

『はい』

『分かった。いいよ』

 波布が出した条件は、胡蝶の望みを邪魔するものではなかった。胡蝶は静かに首を縦に振る。

『貴方の条件を飲む。ただし、私に協力してくれれば……ね』

 波布はゆっくり頷くと、答えを口にする。

『分かりました。協力しましょう』

 波布の答えを聞いた胡蝶は、笑顔で彼女の手を握る。それから『ありがとう』と呟いた。


                 ***


「鼠町信也、真口辰雄、虎川康子、羊村彰浩、馬場弘樹、猿山青葉、鳥飼西子、犬山敦、鰐淵美味、猪鹿秋絵、双元友子、蟹江隆、獅子アカギ、棹野乙女、天乃秤野、蠍林帆夏、伊手元気、山本羊地、水瓶明子、魚八正人」 

 胡蝶は、人の名前をスラスラと羅列していく。一瞬、波布の目が大きくなるが、直ぐに元に戻った。

「私が把握しているのは、この二十人だよ」

「それぞれ、どんな能力を持っていますか?」

「それはね……」

 胡蝶が一通り説明を終えると、波布は「ありがとうございます」と胡蝶に礼を言った。胡蝶は「別にいいよ」と応える。

「約束を守っただけだから」

 胡蝶は、手をヒラヒラさせる。

「それにしても、よく気が付いたね。私が貴方や雨牛君の他にも、大勢の人間の夢の中に入っていたって」

 波布はまっすぐ、胡蝶を見る。

「貴方が造り出したこの世界は、私がいる『現実』とあまりに同じです。貴方は、『私の夢の世界ではイメージしたものを自由に造り出すことが出来る』と言っていましたが、貴方一人だけのイメージでは、『現実』とほぼ同じ世界を造り出すことは不可能と考えました」

「だから、大勢の人間の夢の中に入った……と?」

「はい、貴方は多くの人間の夢の中に入り、彼らの記憶も元にして、この世界を造り上げたのだと思いました」

「やっぱり、波布さんは凄いね。その通りだよ」


 胡蝶の夢の中で、何かを造り出すためには、造り出したいものをイメージする必要がある。それは、夢の主である胡蝶も同じだ。

 しかし、人間一人の記憶だけでは『現実』と同じ世界を創造することはできない。

 そこで、胡蝶は他人の夢に侵入し、その人間の記憶を見た。そして、その記憶を元に『現実』と同じ世界を夢の中に再現したのだ。

 元にする記憶の数が多ければ多いほど、より正確に『現実』に近い世界を夢の中に再現することが出来る。

 そのため、胡蝶は数多くの人間の夢の中に侵入し、その人間達の記憶を見た。


「なるほど。だから、私なら知っていると思ったんだね?」

「はい、大勢の人間の記憶を見た貴方なら、きっと何人かは把握していると思いました。予想外に多くて、助かります」


 波布が胡蝶に協力するために出した条件。

 あの時、波布は胡蝶にこう言った。


『貴方が夢の中に侵入した人物の中で、貴方や私と同じく体の中に“奇妙な生物”がいる人の名前を教えてください』


「どうして、体の中に『奇妙な生物』がいる人達の名前を知ろうと思ったの?」

「雨牛君のためです」

「雨牛君の?」

「私は貴方の他に二人、雨牛君に好意を抱いていた人間を知っています。二人とも体の中に『奇妙な生物』がいました」


 奏人明美と栗鼠山兎。


 奏人明美の中には『カナヘビ』のような、栗鼠山兎の中には、『栗鼠』と『虎』を掛け合わせたような『奇妙な生物』がいた。


「これは、偶然とは思えません。『奇妙な生物』がどういった基準で宿主を選んでいるのかは分かりませんが、どうも雨牛君は“『奇妙な生物』が宿主として選ぶ人間を惹きつける”ようです」

「へぇ」

 胡蝶は、感心したように頷く。胡蝶自身にも心当たりがあるからだ。雨牛と初めて会った時、まるで雷にでも打たれたかのような衝撃を受けた。

 この人とずっと、一緒にいたい。心の底からそう思った。

「ですので、体の中に『奇妙な生物』がいる人間が雨牛君の近くにいた場合、その人間は雨牛君に惹きつけられてしまう可能性があります。それはとても危険です」

「どうして?」

「雨牛君に好意を持っていた二人は、雨牛君を独占するために、一人は私を排除しようとしました。そして、もう一人、雨牛君の幼馴染だった人間は実際に大勢の人間を殺していました」

「……」

「体の中に『奇妙な生物』を持っている人間はそうした過激な行動を取る傾向にあります。ですが、雨牛君を独占したいがために、彼の周りの人間を排除する人間なら、まだましです。問題は雨牛君本人に直接危害を加える人間がいるかもしれないということです。貴方のように」

「……」

「そんな人間から、雨牛君を守るためには情報が必要でした。体の中に『奇妙な生物』がいる人間の名前と、どんな能力を持っているのかを知ることが出来れば、今回のように雨牛君を危険な目に遭わせるのを避けることができます」

「……具体的にはどうするの?」

「貴方が上げた名前の人物が現れたら、出来るだけ雨牛君を近づけさせないようにします」

「相手が近づいてきたら?」

「その時は……」


 波布の表情が変わる。胡蝶がその表情を見た瞬間、強い風が吹いた。公園の木々や草が激しく揺れる。

 風が止むと、波布は静かに口を開いた。


「それでは、そろそろ帰ります。ありがとうございました」

「……うん、分かった。来た時と同じように心の中で念じれば、向こうの世界で目を覚ますよ」

「はい」

「じゃあね」

「はい、さようなら」

 波布は静かに目を閉じる。その瞬間、波布の体は煙のように消えた。


「波布さん、貴方は気づいているのかな?」

 一人きりとなった公園で胡蝶は呟く。先程の波布の表情。あれは紛れもなく『捕食者』の表情だった。どんな相手でも飲み込む『蛇』の顔。


「貴方も体の中にも『奇妙な生物』がいるんだよ?」


 蛇が出てくる夢は基本的に吉兆の印とされている。

 例えば、『白い蛇』が出てくる夢は、幸運が訪れる前触れとされている。さらに、夢に出てくる蛇が巨大であればあるほど、大きな幸運が訪れるとされている。


 しかし、夢に出てくる蛇が『毒蛇』であった場合は違う。

 夢の中に『毒蛇』が出てきた場合、それは不吉なことが起きる前兆とされている。


 先程まで、胡蝶の目の前にいた少女。彼女の体の中には『白い大蛇』がいる。


 ただし、その宿主である少女自身は間違いなく『毒蛇』だ。


「雨牛君にとって、彼女はどっちだろうね?」

 胡蝶はクスリと笑う。

「さて、私も帰るか」

 胡蝶の背中に蝶のような翅が生える。その翅はとても綺麗で美しい。胡蝶が翅を羽ばたかせると、彼女の体は空中に舞い上がる。

 自分が生きていた時にいた世界のことは、もう胡蝶には関係ない。

 彼女は愛しき人間がいる場所へと帰っていく。彼女にとって『現実』の象徴である彼の元へと。


               ー胡蝶の夢 終わりー


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