蝶の羽ばたき
「これが、私が彼女に協力した経緯です」
話を終えると波布さんは、静かに頭を下げた。
「雨牛君を騙すような真似をして、申し訳ありませんでした」
「いいよ。波布さんは悪くない」
僕は首を横に振る。
「波布さんは、僕のことを心配してくれたんでしょ?だったら、波布さんは何も悪くない」
「……雨牛君」
波布さんは、いきなり顔を近づけてきた。赤い唇が間近に迫る。
「おっと!」
波布さんの行動を予測していた僕は、とっさに頭を後ろに反らした。
危ない、危ない。こういう時、いつも波布さんは何かしてこようとする。けど、僕も学習するのだ。そう何度も何度も、波布さんの思い通りに……。
「ペロ」
「ひっ!」
波布さんは、キスに気を取られて無防備となっていた僕の手を取ると、その指先をペロリと舐めた。唇や頬にキスをされるのとは違った感覚が全身に走る。
「ちょ、ちょ、ちょと、な、波布さん!」
「申し訳ありません、雨牛君の優しさが嬉しくて……つい」
申し訳ありませんと言いながらも、波布さんは僕の指を舐めるのをやめようとはしない。それどころか、波布さんの行為は、エスカレートする。
「はむ」
「ひいいい!」
波布さんは僕の人差し指と中指、そして薬指の三本を甘噛みした。
「波布さん!だ、ダメ……」
「遠慮なさらないでください」
「や、やめてぇぇ!」
僕の指を離さない波布さんと、何とかやめさせようとする僕。ギリギリの戦いだったけど、何とか僕が勝った。正直、あれ以上指に何かされていたら、どうなっていたか分からない。
凄まじい勢いで高鳴る心臓と赤くなった顔が元に戻るのを待って、僕は話題を胡蝶さんのことに戻した。
「胡蝶さんは、全部分かってたってたんだね?夢の中で僕がどう動くのか」
「全部……という訳ではないかもしれませんが、ほとんど計画通りだったと思います」
「そっか、凄いね。胡蝶さん」
自分では操られたり、誘導されたという自覚は全くない。
けれど、僕は知らず知らずの内に、胡蝶さんの思い通りに動いていた。僕だけじゃない。胡蝶さんは、波布さんすら自分の望み通りに動かした。
「バタフライ効果というものを知っていますか?」
突然、波布さんがそんなことを言い出した。僕は首を縦に振る。
「うん、知ってるよ」
バタフライ効果。最初は小さな出来事が、やがて大きな事象を引き起こす要因となること。
例えば、気象はあらゆる事象が複雑に絡み合って起きている。『竜巻が発生した理由の元を辿ると、遠くの場所で蝶が起こした羽ばたきが原因だった』という可能性はゼロではないのだ。
日本のことわざにも『風が吹けば桶屋が儲かる』というバタフライ効果に似たものがある。
最初は、『風が吹いて砂が舞った』という小さな事象が、あらゆるものを経て、最後には『桶屋が儲かる』という全く関係のない事柄となる。
そういえば、鰐淵先輩がまだ入院する前、こんなことを言っていた。
『ある人間いたとしよう。その人間が生きている未来と死んでいる未来。この二つは一見すると変わらないように見える。その人間が死んだことで悲しむ人間はいるかもしれないが、それだけだ。だが、その人間が死んだことにより世界に与えられる影響が極小ではあるが、変化する。その変化は微々たるものだが、時間が経てば経つほどその変化は大きくなる。何年、何十年、何百年、何千年、何万年……時間が経てば経つほどその変化は大きくなり、両者は全く違うものになる』
『だから、世界に影響を与えない人間などいない』
鰐淵先輩は、そう言っていた。
「どんな小さな事象でも、未来に影響を及ぼす可能性があります。ですから、未来を完璧に予想する事はとても難しいのです。未来を完璧に予想するためには、『蝶の羽ばたき』や『風によって舞い上がった砂』といった小さな事象もデータに加えて計算しなければなりません。取るに足らないように見える小さな出来事が、未来を大きく変えてしまうかもしれませんから」
「うん」
「しかし、『蝶の羽ばたき』や『風によって舞い上がった砂』などの小さな出来事まで観測するのは、現実的に不可能です。ですので、完璧な未来予測をすることは、現実では不可能といえるでしょう」
「うん、そう……『現実』では?」
その言葉に引っ掛かりを覚える。波布さんの言う通り、確かに、起こりうる全ての事象を観測するなんて、『現実』では不可能だ。
でも、なんでも叶う『夢』の世界なら?
「もしかして……」
「はい、雨牛君が考えている通りです」
僕の思考を読んだ波布さんが、コクリと頷く。
「彼女は夢の中では、ほぼ『全能』であり、『全知』です。それこそ、『現実』にそっくりな世界を夢の中で再現することも可能ですし、『現実』を再現した夢の中で起きるあらゆることを把握することが出来きます。それこそ『蝶の羽ばたき』や『風によって舞い上がった砂』など普通では観測できない事象まで……」
夢の中で起きるどんな小さな事も知ることが出来る。つまり、それは完璧に近い未来予測が可能なことを意味している。
そして、起きる事柄を自らの行動で変化させることが出来るのなら……自分の望む通りの未来を創造することも出来る。
「彼女は夢の中で、数えきれない程のシミュレーションをしたと言っていました。『現実』の世界を夢の中で再現し、自分がどう行動すれば『もう一人の雨牛君』と共にいられる未来に繋がるのか、何度も何度も試したそうです。そして、やっと自分の望む未来を夢の中で再現することができたら、今度は実際の現実世界で夢で成功したのと同じ行動を取った」
僕は目を皿のようにして驚く。
「……一体、何回繰り返せば」
「途中で数えるのをやめたそうなので、正確な数は分からないそうですが、少なくとも数百回は繰り返した。と、言っていました」
「数百回……」
一体彼女は夢の中で、何年の時を過ごしたのだろう?想像するのも難しい。
「私は、彼女が許せません」
波布さんが、ポツリと呟いた。
「彼女は雨牛君を三日間も眠らせました。雨牛君の命に危険がないこと十分に確信してやったのでしょうが、それでも万が一ということもあります。自らの望みのために、雨牛君を危険に晒した彼女を私は許すことはできません」
しかし、と波布さんはため息にも似た息を吐く。
「『現実』を再現した夢の中で何度もシミュレーションをする過程で、彼女は自分が近い未来に、死ぬことも『奇妙な生物』と一体化し、人間ではなくなってしまうことも知っていました。彼女なら、その未来を回避し、寿命を延ばすことも出来たかもしれません。ですが、彼女は人として生き残ることよりも、たとえ、死んで人を捨てることになったとしても『もう一人の雨牛君』といることを選びました。その執念ともいえる一途な想いには、僅かですが敬意のようなものを抱きます」
「波布さん……」
波布さんが胡蝶さんの計画に協力したのは、僕の身を案じてのことだ。
でも、もしかしたら、胡蝶さんのその一途さに心動かされたから……というのも計画に協力した理由の一つかもしれない。
もしも、胡蝶さんが僕なんかを好きにならならず、二人が違う出会いをしていたのなら……案外、波布さんと胡蝶さんは、仲の良い友人関係になっていたかもしれない。
「ところで、雨牛君」
「何?」
「発表会のことですが」
「ああ、うん」
各高校の生物部が、年に一度、自分達の研究成果を発表するイベントがある。そのイベントには、僕達二人も参加することにしていた。
「何を研究するか決めた?」
「はい、私は『蛇』のことを研究しようと思います。それと……」
波布さんは、ゆっくりと口を開く。
「『蝶』のことも」
「……そう」
僕は一拍置いてから「いいと思うよ」と言った。
「はい、ありがとうございます」
波布さんはニコリとほほ笑む。それはまるで、蝶のような笑顔だった。
***
後日、波布さんがイベントで発表した『蝶と蛇』を題材にした研究は大絶賛されることになる。その場には生徒だけでなく、高校の教員や、どこかの大学教授もいたが、皆が波布さんの研究を褒め称えた。
さらに、たまたまその場に来ていた雑誌記者が波布さんの研究を雑誌で紹介。後に、波布さんの研究は一冊の本にまとめられた。
その本はベストセラーとなり、学校では有名人だった波布さんの知名度をさらに上げることになった。
ちなみに僕の研究を褒めてくれたのは波布さんだけで、他の人間からは、破綻箇所や研究不足を泣きたくなるほど批判された。




