おはよう
大蛇の首の一つが胡蝶さんに噛み付き、地面に叩きつけた。
普通の人間がそんなことをされれば、全身の骨が折れ、内臓や脳が潰れて、即死するだろう。しかし、地面に叩きつけられた胡蝶さんは何事かったかのように、平然と立ち上がり、再び飛び立とうとする。
「胡蝶さん!」
『僕』は、飛び立とうとする胡蝶さんを強く抱きしめた。
「アマウシ……クン?」
「胡蝶さん、もうやめよう」
胡蝶さんの耳元で『僕』は囁いた。出来るだけ優しく、出来るだけ、ゆっくりと落ち着いた声で。
『僕』の腕の中で胡蝶さんは、首を左右に振る。
「……イヤ」
「どうして?」
「ダッテ……ヤメタラ、アマウシクン、イッチャウ」
胡蝶さんの声は、今にも泣きだしそうだった。
「アマウシクン……ムコウニ、イッチャウ……ソシタラ、ワタシ……マタ、ヒトリニ……」
「大丈夫」
『僕』はさらに強く、胡蝶さんを抱きしめた。
「『僕』はどこにも行かない」
腕の力を緩め、そっと胡蝶さんを離す。そして、正面から胡蝶さんと向かい合った。
「『僕』はずっと此処にいるよ」
『僕』は胡蝶さんの手をそっと握った。
「『僕』は、ずっと此処にいる。胡蝶さんを一人になんかさせない」
胡蝶さんが息を飲むのが分かった。それは、『僕』の言葉を聞いたからだけではないだろう。
きっと、胡蝶さんは『僕』の背後の光景を見ている。
『僕』の背後では、僕が波布さんを抱きしめているはずだ。
その光景を見て、『僕』が何をしたのか、何をしようとしているのか、胡蝶さんなら、すぐに分かっただろう。
胡蝶さんがポツリと漏らす。
「ホントウ?」
「うん」
「本当に?」
「うん」
「本当に……いいの?」
「うん」
いつの間にか、胡蝶さんは人間の姿に戻っていた。その目から涙がポロポロと零れ落ちる。
「『僕』も胡蝶さんと一緒にいたいから」
『僕』がそう言うと、胡蝶さんは僕を抱きしめた。力強く、しっかりと。
「ありがとう」
胡蝶さんが耳元で囁く。僕も胡蝶さんを抱きしめ返した。力強く、でも、彼女が痛がらない強さで。
辺りが光り始める。光はやがて、周囲を覆い始めた。きっと『現実』の僕が目を覚まそうとしているのだろう。
『僕』は後ろを振り返ろうとして……やめた。
あちらの僕のことは、もう『僕』には関係ない。これから『僕』は此処で胡蝶さんとずっと一緒に生きていくのだから。
***
大蛇の首の一つが胡蝶さんに噛み付き、地面に叩きつけた。
普通の人間がそんなことをされれば、全身の骨が折れ、内臓や脳が潰れて、即死するだろう。しかし、地面に叩きつけられた胡蝶さんは何事かったかのように、平然と立ち上がり、再び飛び立とうとする。
飛び立とうとする胡蝶さんを、大蛇が頭で押し潰そうとしている。
「波布さん!」
僕は、大蛇を操っている波布さんを抱きしめた。
「雨牛君?」
「波布さん、もうやめよう」
波布さんの耳元で、僕は囁いた、出来るだけ優しく、出来るだけ、ゆっくりと落ち着いた声で。
僕の腕の中で波布さんは首を左右に振る。
「……ダメです」
「どうして?」
「先ほども言いましたが、雨牛君の体は三日間も意識不明の状態です。これ以上、長く夢の中にいれば、現実の雨牛君の体がどうなるか……」
「大丈夫」
僕はさらに強く、波布さんを抱きしめた。
「僕は、帰るよ」
腕の力を緩め、波布さんをそっと離す。そして、正面から波布さんと向かい合った。
僕は波布さんの手をそっと握る。
「僕は、帰るよ。波布さんがいる『現実』に」
波布さんが息を飲むのが分かった。それは、僕の言葉を聞いたからだけではないだろう。
きっと、波布さんは僕の背後の光景を見ている。
きっと、僕の背後では、『僕』が胡蝶さんを抱きしめているはずだ。
その光景を見て、僕が何をしたのか、何をしようとしているのか、波布さんなら、すぐに分かっただろう。
「雨牛君、貴方は……」
「うん」
「……そうですか」
「僕は『現実』に帰えるよ……波布さんとも一緒にいたいし」
僕がそう言うと、波布さんが僕を抱きしめた。とても力強く。
「では、帰りましょう……『現実』へ」
波布さんが耳元で囁く。僕も波布さんを抱きしめ返した。力強く、でも、彼女が痛がらない強さで。
「うん、帰ろう」
辺りが光り始める。光はやがて、周囲を覆い始めた。きっと『現実』の僕が目を覚まそうとしているのだろう。
僕は後ろを振り返ろうとして……やめた。
あちらの『僕』のことは、もう僕には関係ない。これから僕は波布さんと一緒に『現実』に帰るのだから。
***
ゆっくりと瞼を開ける。最初に見えたのは天井だった。蛍光灯の光が目に入りまぶしい。
しばらくすると、体に感触が戻ってきた。それと同時に、自分がどうなっているのか理解した。どうやら僕は病室のベッドで寝ているらしい。
ふと、手に温かいものを感じた。体は思うように動かなかったけど、何とか首だけを動かす。
ベッドの傍の椅子に座って眠る波布さんが見えた。
波布さんは、両手で包むように僕の手を握っている。
「う……ん」
波布さんはゆっくり目を開けると、僕を見た。目と目が合う。僕は笑って、波布さんに挨拶をした。
「おは……よう……波布……さん」
うまく口が動かず、言葉が途切れ途切れとなってしまった。それでも、波布さんはニコリと微笑んでくれた。
「おはようございます。雨牛君」
いつも朝に聞く温かな声で、波布さんは僕に挨拶を返した。