既に
「胡蝶……さん」
足から力が抜け、僕は思わず膝をついた。
目の前で起きたことが信じられなかった。でも、目の前で起きたことは紛れもない事実だった。
胡蝶さんは……喰われた。
胡蝶さんを喰った白い大蛇、『シロちゃん』は満足そうに欠伸をしている。
「雨牛君」
膝をつく僕に波布さんが声を掛ける。僕は生気のない目で波布さんを見た。
「大丈夫ですか?」
「……ッ!」
その言葉に、僕は激高した。波布さんの胸ぐらを掴み、引き寄せる。
怒りが全身を支配する。おそらく、この怒りは『胡蝶さんと過ごした記憶』から生まれている。
胡蝶さんと五年間過ごした記憶が、決して、波布さんを許すなと叫んでいる。
僕は拳を振り上げた。この拳を彼女の顔に叩きつけたい衝動に駆られる。
「……」
胸ぐらを掴まれた波布さんは、僕が拳を振り上げても、一切抵抗する様子を見せない。ただ静かに僕を見つめている。その目はまるで宝石のように綺麗だった。
「……くっ!」
僕は静かに拳を下ろし、波布さんを離した。それから、自分の胸を押さえ、乱れた呼吸を無理やり落ち着かせる。
「……波布さん」
「はい」
「詳しく……話してくれる?」
「はい、もちろんです。ですが……」
突然、波布さんは僕の手を引き、自分の後ろに回らせた。まるで僕を守るかのように。
「波布さん!?」
「……」
僕を背後にかばい、波布さんはじっと一点を見つめている。その視線の先には、胡蝶さんを喰った『シロちゃん』がいた。
「グッ、グウウウウ!」
『シロちゃん』の様子が明らかにおかしい。
さっきまでは満足そうに欠伸なんかをしていたのに、今は、なんだか苦しそうに首を左右に振っている。
そんな『シロちゃん』を見て、波布さんは呟いた。
「どうやら、まだ終わっていないようです」
「グッグガアアアア!」
『シロちゃん』は口を大きく開ける。そして……。
「オゲエエエエエエエ!」
何かを勢いよく吐き出した。
『シロちゃん』に吐き出されたそれは“それ”は地面に叩きつけられると、数回バウンドして止まった。唾液か、胃液か……“それ”は液体にまみれている。
地面に転がった“それ”は、ゆっくりとした動作で立ち上がった。
“それ”の姿は、まるで蝶と人間を混ぜたような形をしていた。
手足が二本ずつあり、人間のように二本の足で直立している。
しかし、顔は人間とはまるで違っていた。目は巨大な複眼となっており、口はストロー状の管になっている。そして、頭には二本の触覚が生えていた。
さらに、背中には巨大な羽が生えている。
バサッと“それ”は巨大な羽を広げた。
広げられた羽は、まさに蝶の羽だった。羽には綺麗な模様が全体に描かれており、美しく輝いている。
そして、綺麗な模様の中には、目を閉じた人の顔も描かれていた。
「胡蝶さん」
羽に描かれた人の顔を見て、僕は思わず呟いた。蝶の羽に描かれた人の顔。それは、まさに胡蝶さんの顔だった。
羽に描かれた胡蝶さんの顔は閉じていた目を見開いた。目がギョロリと動き、僕を見る。
『アマウシクン』
羽に描かれた胡蝶さんの顔は、確かに彼女の声で僕の名を呼んだ。
「胡蝶……さん」
僕は無意識に“それ”に近づこうとした。フラリとした足取りで、一歩前に出る。
そんな僕を波布さんが制した。
「行ってはダメです」
胡蝶さんは前を向いたまま、はっきりした口調で僕を止めた。
「シャー!」
『シロちゃん』が大きく口を開け、“それ”に襲い掛かった。だけど、“それ”は空中に舞いあがり、『シロちゃん』の攻撃をヒラリと躱した。
上空に舞い上がった“それ”は羽を大きく動かす。すると、無数の針が羽から飛び出した。飛び出した針が『シロちゃん』の鱗に何本も突き刺さる。
「シャガアアア!」
無数の針を撃ち込まれた『シロちゃん』は悲鳴を上げながら、地面を転がる。しかし、突き刺さった無数の針は抜けない。
「グッガ……ガッ」
やがて『シロちゃん』は、そのまま動かなくなった。
『蝶のような生物』を相手に『シロちゃん』はあっさりと負けた。
「波布さん……『シロちゃん』が!」
「……」
混乱する僕とは対照的に、波布さんは極めて冷静に動かなくなった『シロちゃん』に近寄ると、その体にそっと触れた。すると、まるで波布さんの手の中に吸い込まれるかのようにして、『シロちゃん』は消えた。
突き刺さっていた無数の針は地面に落ちた後、霧のように消えた。
「なるほど、やはり『夢の中』では貴方の方が有利……ということですか」
波布さんは納得するように頷く。僕は波布さんに、小声で話し掛けた。
「な、波布さん。アレは一体……何?」
「アレは、彼女の中にいた『奇妙な生物』です。いえ、正確には『彼女と彼女の中にいた奇妙な生物が混じり合ったもの』です」
波布さんの言葉に、僕は目を大きく見開いた。
「ど、どういうこと?それなら、胡蝶さんは……?」
「彼女は最早、『人間』ではありません。『奇妙な生物』そのものです」
あまりのことに頭が追い付かない。混乱しながら、僕は再び波布さんに尋ねる。
「なんで?どうして、そんなことに……?」
僕の問いに、波布さんはあっさりと答えた。
「『現実』の彼女が死んだからです」
「……死んだ?」
「はい」
『奇妙な生物』と混じり合ったという胡蝶さんから視線を逸らすことなく、波布さんは、はっきりと言った。
「『現実』の彼女は、既に死んでいます」