二つの記憶
『バタフライ効果』
最初は小さな出来事が、やがて大きな事象を引き起こす要因となること。
この世界はあらゆるものが互いに干渉し合っている。全く関係ないと思われていた二つの事柄が、実は鎖のように繋がっていたとことも珍しいことではない。
『蝶一匹の羽ばたきが起こした極々、小さな気流の乱れが、地球の裏側で竜巻を引き起こす要因となっていた』
という可能性もゼロではないのだ。
小さな蝶の羽ばたきすらも、後の世界に影響を及ぼす可能性がある。ゆえに、完全なる予測というのは不可能に近い。正確に未来を予測しようとすれば、小さな蝶一匹の羽ばたきすらもデータに入れて計算しなければならないからだ。
もし、正確に未来を予測することが出来る存在がいるとすれば、それはこの世界にいる蝶、一匹一匹の羽ばたきすらも把握できる『全知者』に他ならない。
***
「あ、あがっ」
二つの記憶が反発する。
『波布さんといた記憶』と『波布さんがおらず、胡蝶さんといた記憶』が僕の頭の中で反発し合っている。
「ああああああああああ!」
頭が痛い。頭蓋骨が割れるような痛みが僕を襲う。
波布さんといた記憶が言う『胡蝶さんといた記憶は偽物だと』
胡蝶さんといた記憶が言う『波布さんといた記憶は偽物だと』
二つの記憶が互いを否定し合っている。
「うぐっううう」
頭を押さえ、倒れた僕は地面をのた打ち回る。頭が破裂しそうだ。
このままでは、死んでしまう。
「大丈夫です」
地面をのたうつ僕の体に、暖かな手が触れた。
「大丈夫です、雨牛君。大丈夫」
慈愛にあふれる声が耳に届く。
「ゆっくり深呼吸してください。ゆっくり、ゆっくり……」
僕は声の言う通り、深呼吸をした。ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。
頭痛は次第に消えていった。それから、しばらく深呼吸を続けると頭痛はすっかり消えてしまった。
「立てますか?」
下から見上げると、波布さんが僕に優しく手を差し出していた。僕はその手を取り、立ち上がる。
「……ありがとう」
「いいえ」
波布さんは聖母のようにニコリとほほ笑み、こう言った。
「こんにちは、雨牛君。『三日』ぶりですね」
波布さんの言葉に僕は大きく目を見開いた。
「……三日?」
「はい、雨牛君。『私の時間』では貴方と言葉を交わすのは三日ぶりです」
ズキンとまた頭が痛んだ。
どうして、僕は波布さんの記憶をなくしていたのか?
どうして、僕は胡蝶さんと交際しているのか?
どうして、病気で入院しているはずの胡蝶さんが元気でいるのか?
どうして、『波布さんと過ごした記憶』と『胡蝶さんと過ごした記憶』という二つの記憶が僕の中にあるのか?
波布さんはどこまで知っているのだろうか?
聞きたいことは山ほどある。僕は波布さんに尋ねようと口を開きかけた。
「うぐっ」
その時、悲痛なうめき声が聞こえた。僕はハッとなる。
「胡蝶さん!」
胡蝶さんは『白い大蛇』に縛られたままだ。
知りたいことは山ほどある。でも今は、白い大蛇……『シロちゃん』から胡蝶さんを助けるのが先だ!
「波布さん、『シロちゃん』を……」
止めて、と言いかけて思い出した。
波布さんは、『シロちゃん』を操ることはできないのだった。波布さんが言うには、『シロちゃん』は『奇妙な生物』を喰うことしかせず、波布さんの命令を聞くことはしない。
波布さんが、『シロちゃん』を操れないのなら、波布さんに“『シロちゃん』を止めて!”と言っても無駄だ。波布さんにも『シロちゃん』は止められないのだから。
胡蝶さんを助けるには、直接『シロちゃん』を胡蝶さんから、引き剥がすしかない。
「待ってて、胡蝶さん。今……」
僕は胡蝶さんに駆け寄ろうとした。でも、走り出そうとした僕の手を波布さんが掴む。
「波布さん!?」
「行ってはダメです」
波布さんは、さらに強く僕の手を掴む。
「波布さん、放して!」
「ダメです」
「どうして!?このままじゃ……」
『シロちゃん』に縛られている胡蝶さんは、ぐったりとして動かなくなっていた。呻き声を出す力さえ、もう残っていないようだ。
『シロちゃん』は動かなくなった胡蝶さんの頭に口を寄せる。そして、胡蝶さんを頭から飲み込み始めた。
「やめろ!」
僕は大声で叫ぶ。だけど、『シロちゃん』は僕の言葉を無視して、胡蝶さんを飲み込み続ける。
「波布さん、放して!胡蝶さんが!胡蝶さんが……」
僕は波布さんの手を振りほどこうとする。でも、どんなに振りほどこうとしても、波布さんは僕の手を離さない。
「行ってはダメです」
どうして、波布さんは僕を行かせてくれないのか?まさか、波布さんは……。
胡蝶さんを殺そうとしている?
(まさか……そんな)
背中に冷たいものが走った。波布さんが何を考えているのか分からない。
そうしている間にも、『シロちゃん』は胡蝶さんを飲み込んでゆく。胡蝶さんの体はもう半分ほど『シロちゃん』に飲み込まれていた。
「波布さん、お願いだから離して!」
「ダメです」
「どうして!?」
「彼女は、此処で排除します」
「は……排除?」
波布さんの声は普段と変わらない。そのことがとても恐ろしかった。
「なんで……どうして?」
波布さんとの付き合いは、長いとは言えない。でも、波布さんは決して、進んで人を傷つけようとする人間ではない……はずだ。
何故、波布さんは胡蝶さんを殺そうとするのか?
「どうして……どうして胡蝶さんを!」
僕は思わず叫んだ。僕の叫び声を聞いて、波布さんは驚くことも、怖がることも、怒ることもしなかった。ただ、いつも通りの声で、いつも通りに答えた。
「此処で彼女を排除しなければ、雨牛君の命が危ないかもしれないからです」
「えっ?」
波布さんの言葉に僕は息を飲んだ。波布さんゆっくりとした口調で話を続ける。おそらく、僕を混乱させないために。
「雨牛君、『現実』の貴方は今、意識不明で入院しています」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。現実の……僕?
「はい」
波布さんは首を縦に振る。
「私たちが今いるこの場所。ここは『現実』ではありません。ここは『夢の中』なのです」
波布さんは、胡蝶さんを静かに指差した。全身のほとんどを『シロちゃん』に飲まれ、胡蝶さんの体はもう足先しか見えていない。
「ここは彼女の『夢の中』です。彼女は、雨牛君を引きずり込んだのです。『自分の夢の中』に」
波布さんがそう言い終えるのと、ほぼ同じタイミングで『シロちゃん』は胡蝶さんの全身を丸呑みにした。