蛇はどこにもいない
「それにしても……」
今朝見た夢はとても長かった。実際には一晩しか経っていないのだが、僕の感覚では一日中、胡蝶さんと一緒にいた。
仮に僕が胡蝶さんに惹かれているのだとしても、あんなに長い夢を見るだろうか?
それに、胡蝶さんが出てくる夢は妙にリアルだ。
僕は夢を見ていても、夢の中ではそれが夢だとは自覚しない。でも、目を覚まして見ていた夢を思い出してみると、明らかにおかしいことが多い。
出てくる人間の言動が支離滅裂だったり、時間が飛んだりと、どうして夢だと気付けなかったんだろう?と思える程だ。
でも、胡蝶さんが出てくる夢は、なんというかとても現実に近い。
物に触れれば、現実と同じように感触が伝わるし、暑さや風を感じることもできる。何より、夢の中の胡蝶さんは本物の胡蝶さんと全く変わらない。
きっと胡蝶さんが病気になっていなかったら、こんな風に過ごしていたんだろうという確信が持てるほど、夢の中の彼女は現実の彼女と瓜二つだ。
「梅雨、起きてるの!?」
部屋の外から、母親の声がした。慌てて返事をする。
「う、うん。起きてるよ」
「早くいらっしゃい。あの子また来てるから。待たせちゃダメよ!」
「あの子……あっ」
僕は急いで部屋から出ると朝食を掻き込み、家を出た。
「おはよう、雨牛君」
「おはよう、胡蝶さん」
四度目の夢の中で、僕は胡蝶さんと三日間過ごした。
***
「おかしい……絶対おかしい」
目を覚ました僕は、そこで初めて恐怖を覚えた。
いくらなんでも、夢の中で三日間も過ごすなんて絶対におかしい。そんなこと、ありえない。
悩んだ末、僕は彼女に相談することにした。
『いつも、同じ女の子が夢の中に出てきて、しかも、その時間が段々長くなっている』なんて、普通の人間に言っても笑われるか、冷やかされるだけだろう。
でも、彼女ならきっと、僕の言葉を真剣に聞いてくれるはずだ。
僕は布団から出ると、朝食を済ませ、家を出た。玄関先に彼女が待っていた。
「おはよう、雨牛君」
「おはよう、胡蝶さん」
胡蝶さんはニコリと笑う。相変わらず、とても可愛い。
「あ、あのね。胡蝶さん」
「何?」
「実は、相談したいことがあるんだ」
「相談?私に?」
「うん」
胡蝶さんは僕の手をそっと握る。
「何でも言って。雨牛君のためなら、なんでもするから」
「……ありがとう」
胡蝶さんの優しさに胸がときめく。僕はさっそく胡蝶さんに相談しようとした。
「実は……あれ?」
「どうしたの?」
「いや……」
何を相談するんだっけ?あれ、おかしいな。さっきまで覚えていたのに。
「えっと……あの」
「うん」
「あの」
思い出せ、思い出せ、何か大切なことを……そうだ!思い出した。
「今度の休みなんだけど……デートしない?」
僕の相談事。それは、父から貰った二枚のチケットをどうするのかとういことだった。
「実は、父さんから博物館のチケットを貰ってさ。でも、それが二枚あるんだよね。父さんは誰か誘って行って来いって言ったんだけど……も、もしよかったら、胡蝶さん、僕と一緒に……」
「喜んで」
「えっ、いいの?」
「もちろん、雨牛君のお誘いを断るなんて、ありえないもの」
胡蝶さんはそう言ってニコリと笑う。僕は思わずガッツポーズをとった。
「じゃ、じゃあ、今度の日曜日に駅前で待ち合わせしよう!」
「うん、楽しみにしてる」
花のような笑顔を僕に向けてくれる胡蝶さん。僕は、自分の手の甲を指でつまんだ。痛い。良かったこれは『夢じゃない』。
これはまぎれもない『現実』だ。
「よかった」
僕は安堵する。その時、違和感を覚えた。
(あれ?僕が相談したかったのって、このことだっけ?)
違うような気がする。
そもそも、相談しようとしたのは胡蝶さんにだったけ?別の誰かに相談しようとしていたような……。
「雨牛君」
考え事をしていた僕に、胡蝶さんがスッと手を伸ばしてきた。
(まぁ、いいか)
胡蝶さんとデートをすること以外に、重要な相談なんてあるはずがない。
差し出された胡蝶さんの手を僕は迷わず取る。手をつないだまま、僕達は学校へと歩き出した。
「シュー」
背後から蛇のような鳴き声が聞こえた。僕は後ろを振り返る。しかし、蛇はどこにもいない。
「どうかした?」
「……ううん、なんでもない」
きっと、気のせいだったのだろう。僕は前を向いて歩き出した。
***
日曜のデートは大成功だった。胡蝶さんはとても楽しんでくれたし、僕もとても楽しかった。幸せだった。
それから、僕達は何度もデートを重ねた。デートには僕から誘うこともあったし、胡蝶さんから誘ってくれることもあった。
動物園、水族館、遊園地、映画。美術館デートをすることもあった。
動物園に行って分かったことは、胡蝶さんが『象』が好きだということ。
水族館に行って分かったことは、胡蝶さんが『マンタ』が好きだということだった。胡蝶さんの色々な面が見れて、とても嬉しかった。
映画は、いつも恋愛物を見た。
胡蝶さんは普段はミステリーやサスペンスが好きだと言っていたが、僕と一緒に映画を見る時は、決まって恋愛映画を見たがった。
感動的な場面になると、胡蝶さんはいつも僕の手を握ってきた。そうなると、僕はもう映画どころではなかった。
「どこが面白かったと?」と聞かれて「ドキドキして分からなかった」と答えると胡蝶さんは「もうっ」と言って頬を膨らませた。
顔をトマトのように真っ赤にしながら。
そうして、僕と胡蝶さんは一歩一歩、少しずつ距離を縮めていった。
それから、五年の歳月が流れた。
僕達は同じ大学に進み、同じサークルに所属した。
ある日、いつものようにデートを終え、僕は胡蝶さんを家まで送った。普段なら、そこで別れるのだが、その日は違った。
胡蝶さんは頬を紅く染めながら、僕の裾を掴む。
「今、家に誰もいないの」
胡蝶さんの話によると、ご両親は今、海外に行っていて、帰ってくるのは明後日になるとのことだった。
「ねぇ、雨牛君」
胡蝶さんは僕の目を見ながら、真剣な表情でこう言った。
「今日、泊まっていかない?」
彼女の家に泊まることが何を意味しているのか、流石に僕でも分かる。
高校生の時なら、きっと断っていただろう。高校生の頃の僕は、ずっと胡蝶さんと付き合っていたかったから、節度のある交際を心掛けていた。
でも、今の僕はもう子供じゃない。
僕は胡蝶さんの手をそっと握る。そして、緊張している様子の胡蝶さんに「喜んで」と言った。
胡蝶さんは嬉しそうに笑うと、僕を家の中に招き入れた。




