強か
蝶は儚く、弱い生き物。
という考えは間違っている。
現在、世界中で発見されている生物は、およそ百数十万種。
蝶の仲間は蛾も含めると世界中で十数万種発見されている。
つまり、現在発見されている種の約十パーセント程を蝶の仲間が占めているということになる。
蝶は地球上で大繁栄した生物の内の一つなのだ。
蝶はとても一途だ。
蝶の幼虫は種類によって、食べるものが決まっており、他の餌を食べることはない。そして、その執着力は凄まじい。
一本の巨大な樹の葉が幼虫により全て食い尽くしてしまうことも珍しくはない。
蝶は誘惑する。
ある蝶の幼虫は、体から甘い蜜を出し、アリを誘惑する。蜜によって幼虫の虜となったアリは幼虫を守り、世話をする。
蝶は騙す。
ある蝶はまるで木の葉のような色と形状をし、ある蝶の羽には、まるでフクロウの目玉のような模様がついている。
そして、蝶の仲間の中には、ある恐ろしい生物に擬態するものがいる。
その生物とは……蛇。
スズメガの仲間には、幼虫の時、蛇に擬態する者がいる。
ベニスズメガの幼虫は身に危険を感じると、体を持ち上げ、頭の形を逆三角形にする。幼虫の頭付近には目玉のような模様があるため、体を持ち上げ、頭の形を逆三角形にすると、まるで蛇が鎌首を持ち上げているように見えるのだ。
ダリウスフクロウチョウは蛹の時に蛇に擬態する。
蛹の下先に描かられた模様は、蛇の目にとてもよく酷似している。蛹は動くこともでき、触れられると目の模様が描かれた方を持ち上げる。すると、こちらもまるで蛇が鎌首を持ち上げているように見える。
蛇に擬態するのは幼虫や蛹だけではない。成虫の時にも蛇に擬態する者達がいる。
ヨナグニサンやエドワードサンという蛾の両方の羽の先端にはまるで、蛇のような模様が描かれている。成虫はこの模様を敵に見せることで相手を怯ませているのだという。
世界中に生息し、大繁栄している蝶の仲間。
彼らは生き残るためにあらゆる手段を講じている。多くの生物が恐れる蛇ですらも蝶の仲間は生き残るために利用する。
蝶は儚く、弱い生き物という考えは間違っている。
実は、蝶はとても強かな生き物なのだ。
―波布光著『蛇と蝶の世界』冒頭より一部抜粋―
***
病室は時間が凍ったようにピンと張りつめている。誰もが動きを止める中、最初に口を開いたのは波布さんだった。
「初めまして、胡蝶さん」
波布さんは胡蝶さんに丁寧な挨拶をする。
「私は、雨牛君の……クラスメイトの波布と言います」
胡蝶さんはまるで、観察するような視線を波布さんに向け、フッとほほ笑んだ。「初めまして、波布さん。私は胡蝶と言います。雨牛君の……友人です」
波布さんも胡蝶さんも『雨牛君の』という所でチラリと僕に視線を向けた。何故だかチクリと胃が痛む。
「……」
「……」
挨拶を交わした二人は、何も話すこともなく、黙って見つめ合っている。
波布さんは無表情で、胡蝶さんは微笑を浮かべて。
その空気に耐えかねた僕は声を上ずらせながら、波布さんに話し掛けた。
「な、波布さん。どうして、此処に?」
波布さんは胡蝶さんに向けていた視線を、ゆっくり僕に視線を向ける。
「鰐淵先輩のお見舞いです」
「先輩の?」
「はい、雨牛君は休日になると鰐淵先輩のお見舞いに行かれてますよね。私もいま一度、鰐淵先輩のお見舞いをしておこうかと」
波布さんとは一度、一緒に先輩の見舞いに来たことがある。でも、その後は一緒に来ていない。毎回、波布さんと一緒に来るのも悪いかと思ったからだ。波布さんにも予定があるだろうし。
「それと、彼女にも会いたかったので」
「私?」
再び、波布さんに視線を向けられた胡蝶さんは首を少し傾ける。
「はい、雨牛君から貴方の話は聞いていました。どんな方なのか一目お会いしたいと思い、鰐淵先輩のお見舞いを終えた後、此処に来ました。ご迷惑でしたか?」
「ううん、全然。私も貴方に会いたかったから」
胡蝶さんは笑みを深める。
「雨牛君がしてくれる話の中に、よく貴方が出てくるから。私も貴方がどんな人なのか気になっていたの」
「そうですか、ちなみに雨牛君は私のことを、どのように?」
「頭がとても良くて、綺麗な人だって言ってたよ」
「ちょっ、ちょっと胡蝶さん!」
「綺麗、そうですか……」
波布さんは、じっと僕を見つめる。その頬は少し赤い。
「私のことは何か言ってた?」
今度は胡蝶さんが波布さんに尋ねた。波布さんは顎に手を当て「そうですね……」と少し考える。
「可愛らしくて、胸がそこそこ大きい……」
「波布さああん!!!」
なんてことを言おうとしてるんだこの人は!というか、僕はそんなこと言っていない!
思わず声を荒げた僕を胡蝶さんが覗き込むようにして見てくる。
「エッチ」
「ち、違う!」
僕はしどろもどろになりながら弁解する。
「違うんだ!波布さんが言ったことは違って、胸がどうとかは……あっ、いや、その……」
必死に弁解する僕を見て、胡蝶さんはクスリと笑う。
「じゃあ、私のこと可愛いって、言ってないってこと?」
「あっ、いや、それは……」
「私のこと可愛いって思ってくれてないんだ」
「そ、それは……いや、可愛いとは、言ったよ。ただ……」
「言ってくれたんだ」
「えっ、あっ、その、まぁ」
「雨牛君は私のこと可愛いって思ってくれてるんだね?」
「う、うん……」
「嬉しい」
胡蝶さんは紅くなった僕を見て、ニヤニヤと笑っている。本当に今日はご機嫌だ。
そんなやり取りをする僕達を波布さんは、また蛇のような目でじっと見ていた。
「雨牛君」
「は、はい!」
冷たく、氷のような波布さんの声に思わず姿勢がピンとなる。
「そろそろ、帰りませんか?」
「えっ?」
「あまり長居すると彼女の体に負担になります。そろそろ、お暇した方がいいのでは?」
静かだが、凄まじい波布さんの迫力に、僕はコクコクと首を縦に振った。
「そ、そうだね。それじゃあ……」
「私は平気だよ」
ベッドから立ち上がろうとした僕の裾を、胡蝶さんがそっと掴む。潤んだ目を向けられ、思わずたじろぐ。
「いいえ、今日はもう帰った方がいいでしょう」
波布さんは僕の裾を掴む胡蝶さんの手に、そっと自分の手を重ねた。
「顔色が少し悪いように見えます。もう休まれた方が良いのでは?」
「えっ?」
僕は思わず胡蝶さんの顔を見た。けれど、胡蝶さんの様子はいつも通りに見える。強いて言うなら、頬が少し赤いぐらいだ。
でも、胡蝶さんは波布さんの言葉を肯定するかのように、掴んでいた僕の裾からゆっくりと、手を放した。
「そうだね……うん、じゃあ、そうしよっかな」
「胡蝶さん、大丈夫?」
「うん、平気。言われてみれば、ちょっと疲れた気がする。今日はもう休むね」
そう言うと、胡蝶さんはベッドに横になった。
「じゃあね、雨牛君。今日は会いに来てくれて嬉しかった」
胡蝶さんはニコリと笑う。年相応な無邪気な笑顔に、僕の心臓はトクンと高鳴った。
「波布さんもありがとう。会えて嬉しかった」
「私もです。会えてよかった」
「うん」
「では」
波布さんは胡蝶さんに、お辞儀をすると、背を向け歩き出す。
「じゃあね、胡蝶さん。お大事に!」
胡蝶さんにそう言うと、僕も波布さんの後に続いた。
「波布光さん」
病室から出ようとすると、背後から胡蝶さんが声を掛けてきた。僕と波布さんは後ろを振り返る。
胡蝶さんはベットから上半身を起こし、はっきりとこう言った。
「私は、雨牛君が好き」
「え?」
胡蝶さんの突然の告白に、僕は目を大きく見開いた。
最初は何かの聞き間違いかと思った。それか、何かの冗談だと。でも、胡蝶さんの真剣な目が言っていた。『間違いでも冗談でもない』と。
固まる僕の横で、波布さんが口を開く。
「私もです」
そう言うと、波布さんは病室のドアを静かに閉めた。
***
病室のドアが閉まると、胡蝶は起こしていた上半身をベッドに倒した。
「ズレた」
胡蝶は唇の端を僅かに上げる。
「凄いな……あの子」
消え入りそうなほど小さく静かな声で、胡蝶は呟く。
「くやしいな。だけど、大丈夫……」
少しだけズレた。だけど、大筋に影響はない。
「私は……絶対『雨牛君』と…結ばれる」
ゆっくりと目を閉じると、胡蝶はすぐに深い眠りに落ちた。
***
「……」
「……」
病院からの帰り道、僕と波布さんは終始無言だった。
波布さんは僕に視線を向けることなく、まっすぐ歩く。僕は僕で、さっきの出来事が頭の中をグルグルと回っており、会話どころではなかった。
胡蝶さんにキスされそうになったこと。そこに現れた波布さん。そして、胡蝶さんからの突然の告白。
何が何だか分からず、ひたすら混乱する。胡蝶さんとは出会って、まだ短い。なのに告白されるなんて夢にも思わなかった。
一体いつから、彼女は僕のことが好きになったのだろう?
(それに、まさか、波布さんがいる前で告白するなんて……)
さっきの告白は、どう考えても波布さんに対する宣戦布告だ。
胡蝶さんには、僕と波布さんの関係を友人だと言っている。にも、関わらず胡蝶さんは波布さんに対して、宣戦布告をした。きっと、ただの友人関係ではないと気付いていたのだろう。
(それにしても胡蝶さんが……)
彼女がそんなことをするなんて、信じられなかった。
僕にキスしようとしたり、波布さんに宣戦布告をしたり……今日の胡蝶さんは、僕の知っている彼女とは違っていた。
あれが本当の胡蝶さんなのだろうか?それとも、いい夢を見たから、気分が高揚していただけなのだろうか?
(それにしても、これからどうしよう……)
やはり、返事をするべきなのだろうか?するべきだろう。僕は胡蝶さんと交際する気はない。だったら、きっぱりと断るべきだ。
でも、彼女は孤独で、しかも病人だ。
告白を断ったら、僕はもう彼女の病室に行くことはできない。でも、そうすれば、胡蝶さんはまた一人になってしまう。
それに、告白を断られる辛さを僕はよく知っている。僕が告白を断ってしまったら、そのショックで彼女の病状を悪化させてしまわないだろうか?
でも、このまま告白をうやむやにして、先延ばしにするのも胡蝶さんに対して失礼だ。
(僕はどうしたら……)
「雨牛君」
ポンコツな脳を無理して動かしていると、不意に波布さんに声を掛けられた。慌てて返事をする。
「な、何?」
「雨牛君は、彼女のことが好きなのですか?」
「ぐっ!」
いつだって、どんな時だって、波布さんはまっすぐだ。僕なら聞くことを躊躇することを波布さんはストレートに聞いてくる。
言葉に詰まりながらも、僕はなんとか答えた。
「えっと、胡蝶さんに対しては……友情とか、親愛の感情ならあるよ?でも、恋愛感情はない」
「しかし、キスしようとしていましたよね?」
「うっ、あ、あれは……た、確かにキスしそうにはなったよ?でも、あれは胡蝶さんから……」
僕は波布さんの顔を見る。だけど、波布さんの顔には表情がなく、何を考えているのか分からない。
「では、彼女の告白に応える気はないと?」
「……うん」
僕は正直に自分の心情を波布さんに伝えた。波布さんは数秒間、無表情で僕の目を見る。それから、フッとほほ笑んだ。
「そうですか……」
それだけ言うと、波布さんはそっと僕の手を握ってきた。胡蝶さんとキスしそうになったことを見られたことで、なんとなく波布さんに罪悪感を抱いている僕は、その手を振りほどけなかった。
「じゃあ、またね」
僕は波布さんを家に送り届けると、そのまま帰ろうとした。
でも、その場から動くことはできなかった。波布さんの手がまだ、僕の手をしっかりと握っていたからだ。
「あの……波布さん?手を……」
「雨牛君」
「は、はい」
「よかったら、上がっていきませんか?」
「へ……?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。でも、その言葉の意味を徐々に理解すると僕の顔はまるでトマトのように真っ赤に染まった。
「い、いや、いや、いや、いや!いいよ!」
僕は顔と手をブンブンと振った。
「どうしてですか?」
波布さんは不思議そうに首をかしげる。
「どうしてって……ご両親もいらっしゃるし」
「両親がいなかったら、いいのですね?でしたら、ご安心ください」
波布さんは優しく微笑む。
「私以外の家族は、全員明日の夜まで帰ってきませんから」
「え?」
その言葉の意味を理解するよりも早く、波布さんは強引に僕を自分の家の中に引っ張り込んだ。




