いい夢
「わざわざ、来てくれたの?」
「うん」
胡蝶さんは、恥ずかしそうにうつむく。そして、ポツリと呟く様に言った。
「雨牛君と一緒に学校に行きたくて……」
胡蝶さんの顔はほんのり紅い。僕も自分の顔が紅くなっていくのを感じる。僕は胡蝶さんの横に並び立った。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
胡蝶さんの手が僕の手に触れる。僕はその手をそっと握り返す。僕達はそのまま学校に向かった。
胡蝶さんと付き合い始めたのは、つい最近のことだ。
ある日のこと、学校に行くと、上履き入れの中に手紙が入っていた。手紙に名前はなく、ただ『お話したいことがあります。放課後、体育館裏まで来てください』とだけ書いてあった。
きっと、誰かの悪戯だろう。そう思いながらも、ドキドキしながら体育館の裏に行ってみると、そこに一人の女の子がいた。
可愛い。
その女の子を見た瞬間、僕はそう思った。
(もしかして、この子が僕に手紙を?いや、いや、ないない。いくらなんでもこんな可愛い子が……僕なんかに)
そんなことを考えていると、女の子もこちらに気が付いた。彼女は小走りで、こちらに近づいてくる。
女の子は、僕の前でピタリと止まると、まっすぐ僕の目を見てきた。彼女は僕より背が低い。そのため、下から見上げられる形となる。
「手紙……読んでくれたんだ」
「あっ……は、はい!」
「ありがとう」
女の子はニコリとほほ笑んだ。か、可愛い。とても可愛い。凄く可愛い。
僕がポーとその笑顔に見惚れていると、女の子は静かに口を開いた。
「雨牛君」
「は、はい!」
上擦った声で返事をすると、女の子はクスリと笑った。
「敬語じゃなくて……いいよ。学年、同じだから」
「あっ、そうなんだ」
「うん」
女の子はコクンと頷く。その動作がまた可愛い。
「私の名前は……胡蝶咲江。雨牛君」
「な、何?」
目を瞑り、胡蝶さんはスゥと息を吸う。そして、ゆっくり目を開けると、はっきりした声で言った。
「好きです。付き合ってください」
彼女の告白に僕はほとんど間を開けることなく答えた。
「はい、よ、喜んで!」
僕の返事を聞いた胡蝶さんは花のように笑う。こうして僕達は恋人になった。
「よっ、二人とも朝から仲がいいな!」
学校に行く途中、一人の男子生徒が話し掛けてきた。
男子生徒はニヤニヤしながら僕達を見る。恥ずかしくなった僕は思わず胡蝶さんの手を放そうと手の力を緩めた。だけど、胡蝶さんは反対に僕の手を握る力を強めてきた。
僕は胡蝶さんを見る。胡蝶さんは恥ずかしそうにうつむきながらも決して僕の手を離そうとしなかった。
思わず口元が緩む。僕は緩めていた手にもう一度力を込めた。
「うるさいよ」
僕は話し掛けてきた男子生徒を適当にあしらい、その場を後にする。
「ごめんね」
「ううん」
胡蝶さんは首を横に振る。
「平気。ちょっと、恥ずかしかった……けど」
「うるさい奴だけど、悪い奴じゃないから」
「うん、分かってる。だって……」
胡蝶さんは僕の顔を見て、ニコリと笑う。
「雨牛君の友達だもん。悪い人なわけないよ」
「う、うん。あ、ありがとう」
なんだか恥ずかしくなり、頬をポリポリと掻く。そんな僕を見て胡蝶さんはクスリと笑った。
冷やかされたのは恥ずかしかったけど、胡蝶さんのこの笑顔が見れたから、良しとしよう。僕は心の中で、からかってきた男子生徒に文句と感謝を言う。
(奏人、覚えてろよ。あと、ありがとう)
昼休み。
僕と胡蝶さんは一緒に中庭に行き、そこにあるベンチに腰を掛けた。
ベンチに座ると胡蝶さんは弁当箱を二つ取り出す。自分用のもの、そして僕のために作ってくれたものだ。
胡蝶さんは僕に作ってくれた弁当箱の蓋を開ける。弁当の中には唐揚げやウインナーの他に、レタスやミニトマトなどの野菜も入っていた。
栄養のバランスを考えた素晴らしい食事だ。
「どうぞ」
「いただきます」
僕は弁当の中からウインナーを箸でつまみ、口の中に入れた。
「うん、おいしい!」
「本当?」
「うん」
「よかった」
付き合い出してから、僕と胡蝶さんは中庭で一緒に昼食をとることが習慣になっていた。胡蝶さんは毎日、手作りの弁当を作ってくれる。
「いい天気だね」
「そうだね」
弁当を食べ終わると僕と胡蝶さんは空を見上げた。空には雲一つない青空が広がっている。こうして、何も考えずに空を眺めていると時間の流れがゆっくりになった様に感じる。
ふと、手に何かが触れた。それが何かは見なくても分かる。僕はぎゅっと胡蝶さんの手を握り返した。
「このまま、ずっとこうしていたい」
胡蝶さんがポツリと呟いた。僕は雲一つない青空から、隣にいる胡蝶さんに視線を移す。胡蝶さんも全く同じタイミングで、僕を見た。
胡蝶さんは静かに目を閉じる。
心臓の音がドクンと跳ね上がった。僕は勘が鋭い方ではない。でも、今、胡蝶さんが何を望んでいるのかは流石に分かる。良いのか?学校の中、しかも人の目があるこんな場所で……。人の目?
「あれ?」
違和感を覚えた僕は周りを見る。不思議なことに昼休みだというのに人が一人もいない。普通、昼休みの中庭には、たくさん人がいるはずなのに……。
僕がキョロキョロと顔を動かしていると、胡蝶さんの両手が僕の頬を挟んだ。胡蝶さんは強引に僕の顔を自分の方に向けさせる。いつの間にか、胡蝶さんの顔が目と鼻の先にあった。
「雨牛君……」
「胡蝶さん」
そっと、胡蝶さんは自分の唇を僕の唇に重ねた。温かくて、甘い蜜の様な感触が口の中に広がる。
先程までの違和感が頭から消し飛んだ。僕は両手を胡蝶さんの背中に回すと、彼女を優しく抱きしめた。胡蝶さんもそれ応える様に、僕の背中に両手を回す。
そして、僕は胡蝶さんを後ろに押し倒した。
***
ピピピピピピピピピ。
けたたましい音と共に目が覚める。僕は目覚まし時計を止めると、ゆっくりと布団をかぶった。
「うわああああああああああああ!」
布団の中で僕は頭を抱え、悶絶した。なんという夢を見てしまったんだ!
知り合ったばかりの女の子と、恋人になっているばかりかキスまでして、しかも、その後……。
「うがあああああああ!」
恥ずかしすぎて死にそうだ。穴があったら入りたい。
僕は暫くの間、布団から出ることが出来ず、一人、布団の中で悶絶していた。
その後、なんとか、恥ずかしさから回復した僕はゆっくりと布団からはい出した。いつまでも、こうしている訳にはいかない。今日は祝日で学校も休みだ。
「行かなくちゃ……」
僕は、病院に行くための準備を始めた。
病院に到着すると、まずは先輩の病室を尋ねる。先輩の様子に変化はない。僕は先輩に短く語りかけた後、病室から去った。
問題はこれからだ。
「気まずい」
胡蝶さんの病室に行くまでの足取りが重い。あんな夢を見てしまった手前、なんとなく会いづらい。でも、それは僕の問題であって、彼女には関係ない。
僕は軽く深呼吸をすると、胡蝶さんの病室のドアをノックした。
「はい」
「こんにちは、僕だよ」
「雨牛君!」
病室のドアが勢いよく開けられた。僕の姿を見ると、胡蝶さんはニコリと微笑んだ。その表情が夢で見た彼女の笑顔と重なり、心臓が高鳴る。
それを悟られないように、小さく深呼吸してから僕は胡蝶さんの病室に入った。
「きょ、今日はなんだか調子よさそうだね」
「うん」
胡蝶さんは嬉しそうに笑う。
「実は、いい夢を見たの」
「えっ」
胡蝶さんの口から出た『夢』という言葉を聞いて、さらに心臓が高鳴った。
「ふ、ふうん。ど、どんな夢?」
「聞きたい?」
胡蝶さんは笑う。大人びた妖艶な笑顔だった。初めて見るその表情に思わず見惚れる。胡蝶さんはそっと自分の唇を指でなぞると、ぐっと顔を近づけてきた。
「こ、胡蝶さ……」
夢で見た光景が脳裏に蘇る。僕は反射的にぎゅっと目を閉じた。たけど、何時まで経っても唇に何かが触れることはなかった。
代わりに、耳に息が掛かった。全身がゾクリとすると、短い声が聞こえた。
「内緒」
目を開けると、胡蝶さんがクスクスと笑っていた。どうやら、からかわれたらしい。
今日の胡蝶さんはどこか変だった。なんというか、凄く機嫌が良い。いい夢を見たとのことだけど、それが関係しているのだろうか?
不意に、胡蝶さんが笑うのを辞めた。時間が止まったような静かな時間が流れる。胡蝶さんは、またこちらに顔を近づけてきた。また、からかうつもりなのだろうか?一瞬、そう思った。だけど、すぐに違うと分かった。胡蝶さんの表情がさっきとは比べ物にならないぐらい、真剣なものだったからだ。
胡蝶さんの顔が近づいて来る。このままいけば、僕は夢の通り、彼女と唇を重ねることになる。
(ど、どうする?どうすればいいんだ?)
考えている内に胡蝶さんの顔は唇が触れそうな位置まで近づいてきていた。僕はまた、ギュッと目を閉じる。その時……。
「雨牛君」
何時も聞いている声が、聞こえた。僕は目を開け、とっさに胡蝶さんから距離をとる。驚き、ショックを受ける胡蝶さんの姿が目に映った。
僕は胡蝶さんから目を逸らし、声の主を見る。そこにいたのは、やっぱり彼女だった。
「波布……さん」
波布さんは、まるで蛇のような目でじっと僕と胡蝶さんを見ていた。




