胡蝶
胡蝶咲江。それが彼女の名前だった。
とても綺麗な名前だと思った。
胡蝶さんは僕と同じ高校一年生なのだと教えてくれた。
彼女は体が弱く入退院を繰り返しているのだという。そのため、友人もあまりいないらしい。
「御両親は?」
「親は……忙しくて……あんまり」
「そう……」
胡蝶さんの両親は会社を経営しているらしい。仕事が忙しく、なかなか見舞いに来られないのだという。胡蝶さんも両親の事情は理解している。でも、理解できるからといって、寂しさが消える訳じゃない。
「……」
胡蝶さんは黙って俯く。その姿を見た時、僕の口から自然に言葉が出ていた。
「じゃあ、これからは僕が見舞いに来るよ」
俯いていた胡蝶さんがハッと顔を上げる。
「僕の知り合いがこの病院に入院しているんだ。その人の見舞いが終わったら、胡蝶さんにも会いに来るよ」
僕はニコリと微笑む。
「……本当?」
「うん」
「ありがとう」
胡蝶さんもニコリと笑う。まるで花のような笑顔だった。
その日から、僕は鰐淵先輩を見舞った後、胡蝶さんの病室にも顔を出すようになった。
僕は胡蝶さんと勉強のこと、部活のこと、その日の天気のことなど、何気ないことを話した。胡蝶さんは嬉しそうに僕の話を聞いていた。
「じゃあ、そろそろ行くね」
「もう?」
「また来るよ」
「……うん」
僕が帰ろうとすると、胡蝶さんはいつも寂しそうにする。
ついつい、もう少しだけ残ろうしてしまいそうになるが、彼女の体調も考えると、あまり長話し過ぎるのも良くないだろう。そう思い、胡蝶さんと話す時間は長くなり過ぎないように気を付けていた。
「またね」
胡蝶さんは寂しそうに手を振る。
「うん、またね」
僕は出来だけ暗くならないように笑顔で手を振った。
* * *
ピピピピピピピピピ。
けたたましい音と共に目が覚める。僕は目覚まし時計を止めると、目を擦りながら自分の部屋を出た。
「おはよう」
「おはよう」
一階に降りると母が朝食を作ってくれていた。
「父さんは?」
「もう仕事に行ったわよ」
「そう、朝早くから大変だね」
僕は椅子に座ると「いただきます」と言って、朝食をとり始めた。母は僕や父より早起きをして毎朝、朝食を作ってくれている。
朝食をとりながら、ふと、胡蝶さんのことが頭によぎった。
胡蝶さんは、長い間、家族と一緒に朝食をとっていない。入院している間、彼女は毎日、味の薄い病院食を一人で食べている。人と会話をすることもなく、味も楽しめない。これでは食事を楽しむことなどできないだろう。
味噌汁を飲みながらそんなことを考えていると、インターフォンが鳴った。
「誰かしら?こんな朝から。はーい」
母は明るい声で玄関へと歩いて行った。そして、しばらくすると、少々興奮した様子で戻ってきた。
「梅雨!あの子が来てるわよ!」
母の様子から誰が来たのか予想はつく。でも、一応聞いてみる。
「……あの子って?」
僕がそう言うと、母は訪ねてきた子の名前を言った。女の子の名前だった。僕は急いで朝食と着替えを済ませ、玄関に向かった。
「おはようございます。雨牛君」
ドアを開けると、そこにいた女の子はニコリと笑って僕に挨拶をした。僕も笑って、挨拶を返す。
「おはよう、波布さん」
「今日の部活動は何をするんですか?」
「今日は発表会の準備をしようかと思ってる」
「発表会ですか?」
「年に一度、いろんな学校の生物部が集まって自分達の研究成果を発表するイベントがあるんだ。そろそろ、その発表会があるから、準備をしようかと思ってる」
中学の頃、一度だけその発表会を見に行ったことがある。優秀賞を貰った高校の研究は大学でやるような高度なもので全く理解できなかった。
鰐淵先輩も去年、その発表会に参加したそうだが、用意していた資料を紛失してしまったため、棄権となってしまった。
『とてもくやしかったよ』と先輩は言っていた。
「どんなことを研究すればいいでしょうか?」
「生き物に関することなら何でもいいと思うよ」
波布さんはコクンと頷く。
「分かりました。考えておきます」
「うん」
「ところで、雨牛君」
「何?」
「最近、女の子とお知り合いになりましたか?」
「えっ?」
ドクンと心臓が大きく動いた。ビックリして思わず波布さんを見る。
「ど、どうして?」
波布さんは目を瞑り、僕に顔を寄せるとクンクンと匂いを嗅いだ。
「ちょ、な、波布さん!?」
「雨牛君から、女の子の匂いがします」
「えっ!?」
僕は思わず自分の匂いを嗅いだ。でも当然、女の子の匂いなど全くしない。そもそも女の子の匂いがどういうものかは分からないけど……。
「やはり、女の子とお知り合いになったのですね」
「う、うん。まぁ……」
「どんな子ですか?」
波布さんはグイッと顔を近づけてきた。
「えっとね……」
顔をのけぞらせながら僕は最近、病院で胡蝶さんという女の子と友達になった事を話した。
「胡蝶さんは病気でよく入院しているらしいんだ。そのせいで、友達も出来ないことを気に病んでいた。それで……」
「雨牛君が友達になろうと?」
「うん、放っておけなくて」
「なるほど、雨牛君らしいですね」
波布さんはどこか複雑そうな表情を浮かべる。
「その子は、可愛いですか?」
「えっと、まぁ……可愛いよ?」
「胸の大きいですか?」
「えっと、まぁ……って、言えないよ!そんな事!」
僕は慌てて口をつぐんだが、無駄だった。波布さんは僕の目をじっと見つめた後「なるほど」と言って首を縦に振る。
「胸はそこそこ大きい……と」
僕の思考を読むことなど、波布さんにとっては朝飯前らしい。僕は心の中で胡蝶さんに謝る。
「その子は私と比べて……」
「駄目、この話はここまで!」
これ以上話せば、胡蝶さんのプライバシーをもっとバラしてしまう。そうなる前に僕は会話を打ち切った。
「……分かりました」
波布さんは静かに頷いた。表情は変わらないが、なんとなく、しぶしぶ頷いたといった印象を受ける。でもこれ以上、胡蝶さんのことを聞くつもりはないようだ。よかった。
「あ、あの、それで部活のことなんだけど……」
僕は強引に話題を部活のことに戻す。
「はい」
「僕としてはまず……」
その後、僕達は部活のことや昨日あったテレビのことなどを話した。学校に着いてからも、胡蝶さんのことが会話に上がることはなかった。
その日の授業と部活が終わり、家に帰宅した僕は宿題をやったり、発表会の資料を作成したりして過ごしていた。
「ふぁ」
瞼が重くなり、欠伸が出る。時計を見ると夜も大分更けていた。
「そろそろ、寝るか」
明日は祝日で学校はない。だから明日は病院に行く予定だ。僕は部屋の電気を消し、布団の中に入った。
* * *
ピピピピピピピピピ。
けたたましい音と共に目が覚める。僕は目覚まし時計を止めると、目を擦りながら自分の部屋を出た。
「おはよう」
「おはよう」
一階に降りると母が朝食を作ってくれていた。
「父さんは?」
「もう仕事に行ったわよ」
「そうなんだ。祝日なのに大変だね」
僕がそう言うと、母は不思議そうに首を傾げた。
「何言ってるの?今日は祝日じゃなくて平日よ?」
「え?」
「ほら、カレンダー見てみなさいよ」
僕は壁に飾ったあるカレンダーを見る。確かに今日は祝日ではなかった。
「あれ?」
首を傾げる僕を見て、母はクスリと笑った。
「寝ぼけてるの?早く食べないと遅刻するわよ?」
「……うん」
首を傾げながらも僕は椅子に座ると「いただきます」と言って、朝食を食べ始めた。
今日の朝食は目玉焼きに味噌汁、サラダ、そして、御飯だ。母は毎日僕や父より早起きをして朝食を作ってくれている。
味噌汁を飲んでいると、ピンポーンとインターフォンが鳴った。
「誰かしら?こんな朝から。はーい」
母は明るい声で玄関へと歩いて行った。そして、しばらくすると、少々興奮した様子で戻ってきた。
「梅雨!あの子が来てるわよ!」
母の様子から誰が来たのか予想はつく。でも、一応聞いてみる。
「……あの子って?」
僕がそう言うと、母は訪ねてきた子の名前を言った。女の子の名前だった。僕は急いで朝食と着替えを済ませ、玄関に向かった。
「おはよう。雨牛君」
ドアを開けると、そこにいた女の子はニコリと笑って僕に挨拶をした。僕も笑って、挨拶を返す。
「おはよう、胡蝶さん」