番外編 四月一日
「波布さん」
「何でしょう、雨牛君?」
世界一素敵な雨牛君が私に話し掛けてくる。おそらく、今、世界中で一番幸せなのは私だろう。
その雨牛君が私の肩に両手を置き、私の目を真っ直ぐ見つめる。おそらく、今、宇宙で一番幸せなのは私だろう。
「好きだ。付き合って欲しい」
「喜んで」
私は即答した。悩む理由など全くない。
もし、多元宇宙論が正しいのだとしたら、今、どの宇宙の、どの生命体の中でも一番幸せなのは私だ。
「私も貴方が大好きです」
「うん、僕もだ」
「愛しています」
「うん、僕も愛しているよ」
雨牛君と私はしっかりと抱き合った。幸せのエネルギーでビッグバンが起きそうだ。今、新しい宇宙を作れと言われたら出来そうな気がする。
「……波布さん」
「……雨牛君」
雨牛君が目を閉じて、私に顔を寄せてくる。私も静かに目を閉じた。今なら、宇宙以上の何かを作れそうな気が……。
「姉さん、起きてください」
体を揺すられ、目を開ける。目を開けて飛び込んできたのは、いとしい雨牛君の顔ではなく、妹の顔だった。
私は無言で、妹の頭に手刀を叩きこむ。
「理不尽」
妹はそう言って、額を擦る。
「何をするのですか」
「何故、邪魔をしたのですか?あと少しだったのに」
「珍しく、姉さんが起きなかったので起こしに来たんです」
妹が指差した目覚まし時計を見る。確かに、いつもなら起きている時間を過ぎていた。
「早く起きないと、学校に遅刻しますよ」
「学校よりも大事な物があります。私はもう一度先程の夢を見るために、寝ることにします。おやすみなさい」
「理解不能。起きてください、姉さん」
妹が私を揺する。でも、私は何を言われても何をされても起きる気などサラサラない。意識が遠くなり、眠りに入ろうとする。その時、妹が言った。
「学校に行かないと、姉さんの想い人に会えませんよ」
その瞬間、私は目をカッと開き、ベッドから飛び降りた。そうだ、寝ている場合などではない。
「何故、早く言わないのですか」
私はもう一度、妹の頭に手刀を叩きこんだ。
「理不尽」
痛がる妹の目の前で私は着替え始める。
不覚、不覚、不覚、不覚、不覚、不覚、不覚、不覚、不覚、不覚、不覚、不覚。
現実の雨牛君よりも夢の中の虚像の雨牛君を優先してしまうとは、一生の不覚だ。おそらく、今、どの宇宙の、どの生命体の中でも一番愚かなのは、この私だ。
急いで着替え終わった私は、部屋を出ようとする。でも、その前に妹に言っておかなければならないことがあった。
「そう言えば」
私は妹の目を見る。
「なんですか?姉さん」
首を少し傾け、不思議そうにする妹に私は言った。
「貴方は誰ですか?」
「……」
「私に妹はいません。私の家族は父と母だけです。この家には私を含め、三人の人間しか住んでいません」
「……」
「貴方は誰ですか?」
「……」
『妹』は何も言わない。私は、フウと息を吐いた。
「もう朝食を食べましたか?」
「……いいえ、まだ食べていません」
『妹』が答える。
「そうですか、では、一緒に食べましょう」
私は妹に手を差し出す。妹は私の手をしっかり握った。私が歩き出すと妹は私と一緒に歩き出す。
この子が誰だろうと、今はどうでも良い。
それよりも、このままでは、いつもより学校に着くのが遅れてしまう。そうなれば、必然、雨牛君と過ごす時間が数秒も減ってしまうことになる。
今は、見知らぬ妹よりも、そのことの方が重大だ。
それに、今日は四月一日。嘘を付いても許される日だ。
ならば、私も嘘を許そう。
私は妹と朝食をとるためにリビングへと向かった。




